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一番古い記憶はおぼろげだ。
一番古い記憶は音しかない。彼女には光を感じることが出来なかったからだ。
熱と臭いも感じられるが、最も印象に残っているのは音だ。あの時、大勢の人間が騒いでいた。悲鳴もあがっていた。何かが弾けるような音が何度もしていた。
そして二番目に古い記憶は、不思議な感触に包まれたことだ。一瞬体が浮いたかのような感じがした。
後になって、あの時何が起こっていたのか、おおよそではあるが、彼女は知ることになる。
その後は音と臭いと寒さと暑さと味の記憶が延々と続く。
いつ言語を覚えたのかはわからない。通りがかる人々の言葉に自然と耳が傾き、自然と習得していた。
彼女――まだ十歳にもなっていない、目の閉じた少女が寝床にしていたのは、町の裏路地のゴミ捨て場だ。普段はゴミの中に隠れているが、裏路地のさらに裏の大通りの喧騒に、いつも耳を傾けている。
体にぐるぐるに巻かれたボロボロの衣は、寒さを凌ぎたいという本能で、気が付いたら捨てられていた衣類を身に纏っていたものだ。
少女は捨てられたゴミを食って命を繋いでいた。食べられるものかどうかは、臭いで全て嗅ぎ分けられた。
雨の日、雪の日は辛かった。土の中で冬眠する動物のように、ゴミの中へと潜り込んで寒さを凌いでいたが、水はしみ込んでくる。板を被ればいいと気が付いたのは、大分経ってからだ。それを理解することも、目が見えない少女には時間がかかった。
大量のゴミで溢れたゴミ捨て場にいる盲目の少女のことを、誰も知らなかったわけではない。
「おら、こいつも食え」
と、親切な中年男が食事を分けてくれることもあれば――
「やーい、乞食女~」
「ばっちいばっちいバイキン女~」
「うわ、目が見えないのに、こっち見てる~、やべーっ」
「あははは、お前呪われたー」
悪餓鬼共に見つかって、石を投げられることもあった。殴られることもあった。ドブネズミやゴキブリや糞を食わされることもあった。ドブネズミやゴキブリを食べることには抵抗は無い。それどころか少女はネズミや虫の臭いを嗅ぎつけ、器用に捕まえて食していたほどだ。しかし流石に糞を食わされることは抵抗があり、全力で嫌がった。
少女は自分から人に関わろうとはしなかった。どうやって接したらいいかもわからない。話しかければ多少の会話は出来たが、それもおぼつかない。短く言葉を返す程度だ。
そもそも喋る相手は、いつも食事をくれる親切な中年男くらいしかいない。その男とも、短い言葉のやり取りしかしておらず、少女は基本的に孤独だった。
しかし少女は、自分の運命を悲観していない。気が付いたら、汚いゴミ捨て場で飢えと寒さを凌ぐ生活が当たり前になっていたし、それが少女にとっての日常であったからだ。
「この子は何時からここに?」
ある日、少女のすぐ側で、涼やかな声が響いた。若い男の声だ。
「五、六年くらい前かな。よくわかんねーけど、気が付いたらここにいたぜ」
少女によく施しをくれる、あの親切な中年男が答える。
「この子、私が引き取って面倒を見ても構いませんか?」
「そんなこと、俺に断りを入れられてもなあ……。あんたが構わなければ、そうすればいいじゃねえか。あんたになら安心して任せられるしな」
中年男が青年に向かって笑いながら言った。青年はねじれた杖を持ち、中折れとんがり帽子をかぶり、ゆったりとしたローブを身に纏っている。帽子からは長い金髪が真っすぐ伸びており、紅玉のように煌めく真紅の瞳を持ち、容姿は非常に端麗だ。
その青年は、この町に半年前から住み着いた人物で、非常に優秀な医師として、ちょっとした有名人になっている。医師としての腕だけではなく、際立った美貌や、奇妙な格好からも、目立つ存在であった。一方で、自分のことを嘘鼠などというおかしな名を名乗っていた事で、変人のようにも見られている。
少女は青年――嘘鼠に抱き上げられ、連れて行かれた。
ボロボロの汚い衣にくるまれた汚い少女を抱きかかえ、街中を悠然と歩く美青年の姿は、嫌でも目立つ。通行人達が皆振り返り、奇異の視線を投げかける。嘘鼠を知る者も、怪訝な視線を送る。
「嘘鼠さん、その子は?」
「拾いました。私が面倒を見ようと思います」
知り合いに声をかけられた嘘鼠は、にこやかに微笑んで堂々と答える。
少女は戸惑う一方で、嘘鼠に抱かれ、人の温もりに触れた心地好さに陶酔していた。それは決して初めてではない感触であり、ずっと昔にも味わったことがある。しかし何時の頃か、はっきりと思いだすことは出来ない。
やがて少女は一軒の家屋へと連れていかれ、庭で裸にされて触診され、病気や寄生虫の有無を確かめられた。
幾つかの病気と虫を確認し、嘘鼠は呪文を唱える。少女は一瞬だけ体内に熱を覚える。魔法で寄生虫を駆虫したのだ。病に関しては、後で薬草を飲ませて治すことにする。
(しかしこの娘の目は……簡単な術では治せませんね。ずっと昔に潰れて腐れてしまっている)
少女の瞼をこじ開けて、中の酷い状態を確認して、嘘鼠は判断する。
嘘鼠はお湯をたっぷりと沸かして、少女の体を綺麗に洗う。お湯を浴びて体を洗われる心地好さに、少女はまたうっとりとした顔になる。
「おやおや、とても可愛いお顔をしているではありませんか。目が開いた時の顔も見てみたいものですね」
すっかりと汚れの取れた少女の顔を見て、嘘鼠は微笑んだ。
少女はされるがままで、一切抵抗しようとはしなかった。戸惑いはもちろんあるが、抵抗する理由も無い。自分に温もりをくれたこの人物は、あの親切な中年男に近い存在だと認識していた。自分にいいことをしてくれる人であると感じ取っていた。
「私は嘘鼠です。その筋では嘘鼠の魔法使いとも呼ばれています。貴女の名は?」
「名前……」
名前という単語の意味はわかる。しかし、少女はそれに該当するものを持っていないし、欲しいとも思ったことが無かった。
「名前……無いなあ……」
「そうですか。では……私が名付けましょうか。シェムハザという名にしましょう」
「シェムハザ……?」
「人に叡智をもたらした天使の名ですよ」
実は男の天使であったが、嘘鼠の魔法使いは構うことなく、少女にその名をつけた。
「シェムハザ、これから私が貴女の保護者であり、師匠となります。貴女は私の弟子にします」
笑顔で一方的に告げる嘘鼠の魔法使い。シェムハザと名付けられた少女はきょとんとした顔だ。
「術以外にも、世間のこと、礼儀作法、あらゆる学問を勉強して頂きますよ」
礼儀作法、学問、勉強、いずれも知らない単語と概念であり、少女は何のことかわからなかった。
夜になって、温かい料理を口にして、シェムハザと名付けられた少女は感激する。ゴミの中でも美味しい食事にありつけることはあった。あの優しい中年男は大抵美味しいものをくれた。しかしこの食事は、それらとも比べ物にならないほど美味であったし、何より温かい料理を口にすることそのものが初めてである。
「美味しいっ。すごく美味しいっ」
「食べ方の作法も教えなくてはなりませんが、しばらくはいいでしょう。何より、その目を何とかしましょうか」
「目……?」
その単語はシェムハザも何度も聞いた。自分と関わった者がよく口にしていた。自分には無いものだということはわかっていたが、それが何であるかはわからない。
「む……」
食事中に刺激のある臭いが漂ってきたので、嘘鼠の魔法使いは端正な顔をしかめる。シェムハザが食事を取りながら堂々と小便をしたのだ。椅子と床が小便だらけになる。勿論シェムハザ自身と、せっかくの新しい服も小便だらけだ。しかしシェムハザは全く構うことなく食事を続けている。
「まず教えなくてはならないのはトイレですね。これは食事が終わったらすぐに覚えていただきましょう」
嘘鼠の魔法使いが苦笑混じりに言った。この先、家のあちこちで遠慮なく用を足されたら、流石にたまらない。
「おしっこやうんこはトイレでしましょう。その場ですぐしてはいけないのです。その場ですぐには行わず、トイレに行ってからするものなのです。目が見えるようになるまでは、おしっこやうんこがしたくなってもまず我慢をして、私に声をかけてください。私が連れて行きます」
「うん、わかった。そうするねー。それも人のルールなんだね」
排泄は決められた場所で行うというルールを理解してくれるかどうか、嘘鼠の魔法使いは心配であったが、シェムハザは素直に受け入れた。
「利発な子ですね。これは思わぬ拾い物だったかもしれません。魔法の習得も早そうです」
微笑む嘘鼠の魔法使いの言葉を、少女はほとんど理解出来ていない。
その日の夜は、二人は同じ部屋で寝た。嘘鼠の魔法使いの邸宅は広かったが、この時代、この国では、寝室という概念は無いので、食事も就寝も最も広い部屋で行う。
「この布、とってもふわふわだー」
今日、買ったばかりのベッドの上で、シェムハザが笑顔で感激している。嘘鼠の魔法使いはそんなシェムハザのことを微笑ましく見ている。
「今日は何だか凄い一日だったなー。色んな初めてのことがいっぱいでさあ」
「それはよかったですね。これからもっともっと初めてのことがいっぱいあると思いますよ」
その目が開けば、より世界は広がる――そう、口には出さずに告げる嘘鼠の魔法使い。それは言葉で今言わなくても、いずれ本人が身をもって知ることだ。今口にしなくてもいいと、嘘鼠の魔法使いは判断した。
「これからずっとマスターと一緒にいていいの?」
「ええ」
シェムハザが尋ねると、嘘鼠の魔法使いは即答する。
「やったー」
シェムハザはベッドの上でじたばたと横転して、無邪気にはしゃぎ、そのはずみにベッドから落下した。
「あ痛たたた……」
「さっき教えたでしょう。ベッドには高さがあって、端があるのですから……」
嘘鼠の魔法使いは苦笑しながら、シェムハザの体を抱き上げると、元のベッドではなく、自分のベッドへと寝かせて、共に横になる。
「目が見えるようになるまでは、私と一緒に寝ましょう。私から離れないようにしてください」
「はーい」
言いつけに従い、シェムハザは嘘鼠の魔法使いの体にひしっとしがみつく。
「凄く……温かい……。これ、マスターの体なんだよねえ?」
「そうですよ。人の体は温かいのです。私からしてみても、シェムハザの体は温かいですよ」
心地よさそうに確認するシェムハザの頭を撫でながら、嘘鼠の魔法使いは答える。
「凄く気持ちいいよー」
ここに連れて来られる時もそうだったが、その温もりを味わうことは、初めての気がしない。
自分に甘えるシェムハザを見やり、嘘鼠の魔法使いは思う。この子もかつて親に抱かれていた時期があったのではないかと。
「気持ちよくても、誰とでも、いつでも抱き合っていいものではありません。親しいものとだけ、特別な時だけですよ」
「えー、そうなんだ……」
嘘鼠の魔法使いが念のために注意すると、シェムハザは残念そうな声をあげた。




