第四十九話・ほめ言葉が励ましになる話
たまにはイラクサなしで。
闘病中の実母を励ましてくださった人の中で印象的だった話です。その人は医療従事者でもなく、見舞いの人でもない。母がただ一度だけ会った人。場所は院内のリハビリ室。その人も闘病中で車いす。男性。名前や病名不明。しかし彼からもらった言葉が、今なお母を励ましている。
その人はずっと母のリハビリを笑顔で見ていたという。そして最後に話かけてきた。
「あんた、若い頃相当にきれいだったじゃったろう。今だってかわいいしきれいだもの。すみませんが、握手してもらえまいか」
母は驚きつつ握手に応じた。
「もう八十を超えているのに。パジャマ、おむつ、尿管チューブ、点滴つきなのに。頭もはげてざんばらで、顔もこんなにしわくちゃなのに。それなのにかわいいと言ってくれた。変わった人もいるものねえ」
私も珍しく上機嫌な母がうれしかった。「もしかして初恋の人と似ていたのかもよ」 と言った。母は照れくさそうに笑う。周囲の人となじめず、思うように体を動かせぬ母にとって楽しいことがあったのはよかった。あれから一年。今は自慢話に変化している。そして心の支えにもなっている。
もちろん、その人以外にリハビリの先生や看護師たちの励ましも日常的にあった。母は主治医の男性医師も好きでその先生から褒められるともっとやる気が出る人だ。医師の言葉を抜いて最もやる気効果があったのはその人の言葉だけ。いくらほめ上手な医師でも「かわいい」「きれい」 とは言わぬ。容姿を褒める言葉がどんなに威力があるのかよくわかる。
母はその人とは二度と会えずじまいで退院、施設入所となりました。
で。
……かわいい、きれい……握手して……
機嫌がいいと、この話が出ます。私も応じる。
「よかったねえ、ほめられて」
「そうなのよ、うふふ」
その記憶の強力な固定にはわけがある。
① 初対面の人が容姿をほめた
② 亡父は母に対して容姿をほめることは一切なかった
他人からほめられるという記憶はとても大事なものだと感じ入る。私も母をできるだけほめるようにしたいが、人間ができてないので困難が伴う。ここに置いてあった五千円札、盗ったでしょ、と怒られると「またか」 とうんざりする。演技が下手ですね。
しかし何かで母が怒り出すと、例のあの人ががっかりするよとさりげなくいうと静かになる。すごい効果。母の脳内ではその人がますます美化しているのだろう。もちろん私はその見知らぬ人に感謝しています。
人の長所を恥ずかしがらずに言える人はそれだけで徳を積まれていると思います。その節はありがとうございます。
仮に母が有名な元美人だったら「本日のリハビリは一人しか握手を求められなかった。その人しか美しいと言ってくれなかった」 と逆に怒るかもしれません。称賛が当たり前の環境にいた人の方が老後がつらいかもと思います。




