第二十二話・あなたに何がわかるのですか
けんかや争いごとの仲裁に入ると、相手方もしくは双方から敵認定されると必ず言われます。
「あなたに何がわかるのですか」 と。
仲裁は頼まれて何度かしましたが、あれはメンタル強くないとなかなかできることではありません。仕方なしに介入しても聞く耳を持たれませんね。でも仕方ないけど、だがしかし……今回はこの話。
他人の争い、特に夫婦間には立ち入ったことはない。裁判官でさえ大変なのにましてや双方の顔やなれそめを知っている一般人でも仲裁は無理。関わらない方がいいと思っています。愚痴なら聞くだけですがそれでいいかと思う。
夫婦に限らず当事者同士の争いに堂々と入っていけて意見もできる人はそれなりに権力が公認されている警察官、弁護士などしかるべき資格がある人です。私はそれ以外の民間人にあたります。当事者にとっては片方の言い分だけを聞いてなにかを意見される場合は、もう最初から喧嘩腰ですね。当たり前ですが。
実際、双方の言い分を聞くのは仲裁の初歩で結果ありきではいけないのでなお難しい。また片方が承知してももう片方が仲裁不要だと言われたらもうそれで何とかならないのです。
若い時はそういうことがまったくわかりませんでした。私はバカでした。だからこの世に弁護士や裁判所が存在するのだと今になって身に染みています。不慣れなことは介入すべきではない。
親族間や部活関係もです。もう片方側、つまり敵側の人間だと認定されたら、その「認定」 でもって話はまとまらない。片方の人間が我慢して話し合いに応じたとしてもです。新たな火種が作成もしくは残るだけ。私の一存で話をまとめた、などと思っている人はおめでたいとしかいいようがありません。
しかし長いこと生きていると。他人の争いには介入しないと決めても「態度を決めないといけない」 こともあります。近所、狭い世界でのつきあい、果ては政治、政党のしがらみまで。公平にみてそうなるだろうと思ってもそうならぬ場合が多い。
常に誠実であれ。
世間話と実際の風評とに核心を見る機会があれば全く違ったり、あっていても微妙に詳細や過程が違ったり。そうやって家庭、近所、地域、地区の歴史が積み重ねられていくとしたら、そして真実は一つであるとしたら、結局は他人の伝聞をうのみにせず、己の見聞きしたものを信じるしかない。
そこに人生の難しさを感じます。それをどう通って生きていくかです。




