55 魔王の祝福 ~緋色の口づけ~
肩超しに後ろを見るとアリスが飛んで追いかけてきていた。
木々の合間にできた小さな空き地に向かって降りて振り向く。
地表ぎりぎりのところで光の翼を消したアリスが俺の目の前に静かに降り立った。
アリスが俺についてきた理由はだいたい想像つくけど、それでも念のため確認してみる。
「俺が心配で付いてきた……って訳じゃないよな?」
わざとおどけるようにして軽めに聞くと、真剣な顔つきで返された。
「ううん。違うよ。シヴァのほうが私よりも強いのはさっきので分かってるし、それにシヴァなら一人で倒せると思う」
「それならどうして?」
「この先に逃げた悪魔とは私が戦う」
予想とは違った答え。
私も一緒に戦う――ではなかった。私が戦う。
俺もアリスに合わせて真剣な面持ちで向き合う。
「それは……アリス一人でって意味か?」
「うん。私一人で戦わせて」
馬の悪魔が逃げ出す前の状態ならアリス一人でも問題なかっただろう。
だけど、さっき感知した魔力反応は俺を封印した上級悪魔たちに匹敵するものだ。
アリス自身も相当な魔力量を誇るが、あいつらはその上をいく。
魔力の総量がそのまま強さに比例する訳ではないが、それでも今のアリス一人では厳しい気がする。
「さっき馬の悪魔から感じ取れる魔力反応が急に膨れ上がった」
「それなら私も気づいてる。さっきまでよりも、私よりも強くなってると思う」
アリスが胸元に手を当てて強く訴えてくる。
「それでも私が行かないと。ううん私に行かせて。きっと一度逃げだしたらもう二度と立ち向かえない気がするの」
胸を張り、前を見据えて続ける。
「それに、勇者の私が悪魔から逃げたなんてことが知れ渡ったら、きっとみんな不安がる」
「別にアリスは逃げてないだろ」
アリスは首を横に振って俺の言葉を否定した。
「シヴァが助けに来てくれなかったら私たちは……たぶん全滅してた。王都に帰れば今回のことは、シヴァのことは騎士団の中で噂になると思う。そしてその噂は騎士団の中だけじゃなくて外にまで広がる。きっと私のことも含めて。このまま最後に残った悪魔までシヴァに任せたままにしたら、たとえ逃げてなくても、勇者が悪魔に負けたって印象は拭えないよ」
アリスが周りからどんな目で見られているのか、期待されているのか。
そして俺がしたことが周りにどう映るのか。それを俺はわかっていなかった。いや、考えていなかった。
ただアリスたちが助かればいいと思って行動した。そのことに後悔はないし、アリスも俺を責めているわけじゃない。
だけどアリスは勇者で、当然人々から悪魔に負けない強い存在として認識されていて。
期待されているのは人としてのアリス個人ではなく、勇者としての強さであり希望としての象徴。
「私はなんて噂されてもいいんだけど、みんなには希望を持っていて欲しいの。たとえ悪魔たちが攻めてきても安全なんだって、勇者がいれば大丈夫なんだって。だから……みんなが逃げ出してしまうような相手でも、私は立ち向かって戦わないといけないの」
不器用な笑顔を浮かべ、申し訳なさそうにして。
自分のことじゃなく、誰かのことを想って。
それで傷ついても挫けずに戦い続けて。
そして人々の希望であろうとしている。
そんな優しさや甘さも悪魔たちの前では無意味だ。
戦う力がなければ誰も救えない。
人々を脅かす敵を倒すためには力がいる。
それは何事にも屈しない剛さであり、どんな相手にもひるまず立ち向かい続ける毅さ。
力だけでは意味がなく、心だけでは何もできなくて。
今のアリスは心だけが先走って空回りしているようなものだ。
もしそこに力が備われば……
かつて勇者に力を授けたといわれる者たちは、きっとその心の在り方に、魂の輝きに見惚れたんだろう。
いまの俺と同じように。
俺は加護なんて授けることはできない。
俺にできるのは悪魔として、魔王としてなら力を与えることができる。
「わかった。ただし、アリスが一人で戦うなら条件がある。アリスは悪魔の契約って知ってるか?」
「悪魔の契約って、たしか力をもらう代わりに何かを代償として差し出すっていう……あの? もしかして条件っていうのは私が悪魔と契約すること?」
頷いて肯定する。
突然の話に戸惑いを見せるアリス。
「その契約を結ぶ相手の悪魔って……誰?」
ずっと隠してきた。師匠やマリーさんあたりは何か感づいているかも知れないけど、それでも俺から何かを言ったことはない。
だからこれは初めての告白。
いつかは伝えようと思っていた。そのタイミングがきっと今なんだろう。
真っ直ぐ目を合わせて、言葉一つ一つに想いを乗せる。
「俺がその相手だよ。俺はシルヴァリオとして生を受ける前は悪魔として――魔王として生きていたんだ」
アリスが目を見開き息を飲んだ。
突然こんなこと言われても普通は信じないだろう。
だけど、それでも、アリスには本当のことを知っていて欲しかった。
たとえこれでアリスが俺から離れることになったとしても……
長いようでそのじつ短い間、アリスは悩んだように一度顔を伏せてから何かを決意したように面を上げた。
「難しいことはわからないよ。それに悪魔として生きていたシヴァがどんなだったかも。でも、それでも今のシヴァがどんな人なのかはわかってるつもり。冗談でそんなこと言ったりしないって。だから……信じるよ」
アリスはわずかに目を細めて優しく語りかけてくる。
「それにシヴァが悪魔の生まれ変わりだとしても、それでもシヴァはシヴァだよ」
「そうか、そう……だな。ありがとう」
受け入れられ、心の中にあったわだかまりがゆっくりとほどけていく。
「アリスなら近い将来強くなる。それこそ伝説の勇者のように。それでもアリスは、いま力を望むか?」
俺の瞳を真っ直ぐに見据えて、アリスがはっきりと答えた。
「はい」
昔から変わらない、強い意志を宿した瞳。
あぁ、そうか。
理屈じゃない。
きっと出会ったときから惹かれていた。
子どもの頃から積み重ねてきた想いがここにきて一気に心の奥底から溢れた。
「それで、その……契約ってどうすればいいの? それに代償って一体何を差し出せば……」
「別に難しいことはない。アリスはそのまま立っているだけでいい」
互いに手を伸ばせば触れられる距離まで近づく。
さらに一歩踏み出して、アリスの腰に手を回して引き寄せ、顎に手を添えて軽く上を向かせる。
潤んだ瞳が恥ずかしげに左右に揺れて……ゆっくりと閉ざされた。
それに答えるように俺も目を閉じ、顔をわずかに傾けて、唇を重ねる。
柔らかな感触とぬくもり。こぼれる吐息。
ぎこちなく胸元に置かれていた両手が背中に回され、強く抱きしめられた。
契約による代償など必要ない。
これは世界中でただ一人、アリスだけが授かれる魔王の祝福。
足元に広がった契約の魔法陣から立ち上る緋色の煌めきが瞼の裏まで照らした。
光が止むまでのわずかな時間、俺とアリスは口づけを交わし続けた。




