#115
「わかりました。それでは」
大きく、息を呑む。
いつから、彼のことを好きになったのだろう。誰に問われるまでもなく、アイリスはふと、そんなことを考えた。
以前に読んだ物語なんかでは、なにかしらの出来事をきっかけにして好意を抱いたり、意識をするようになっていた。
フィーリアにとってのそれは、きっと賊に襲われたときに、彼の機転で切り抜けることができたときであろう。あるいは、自身の父に対して鉄道事業の直談判をしていたときかもしれない。
では、アイリスにとってのそれは、いつだったのだろうか。
少し考えてみたけれど、思いつかない。もっとしっかり考えてみたけど、やはり見つからない。
……いいや、見つからないんじゃない。そもそも、そんなものがないのだ。
アイリスが浩一と出会ったばかりの頃は、兄であるアレキサンダーから一目置かれているすごい人物であり、そして、自分にも付き合ってくれる優しくて楽しい人だった。
王女という立場のあるアイリスからしてみれば、家族以外で正面から付き合ってくれる貴重な存在だった。
それから、鉄道事業に向けての動きが始まり、一緒に動くことが多くなり。アイリスも、彼の隣に立つようになった。彼とともにいる時間が心地よく感じるようになっていった。
マーシャや風花といった仲間たちも増えて。だんだんと、彼の背中を見るようになった。その背中が、とても、輝かしいものに見えて。
優しさ、楽しさ。安心と、憧れ。少しずつ変遷しつつも、アイリスの中に芽生えたそれらは、きっかけを与えられることもなく、いつしか恋心という形を成していった。
物語のような。フィーリアのような、衝撃的な一幕があったわけではない。風花のように、長くにわたって彼と過ごし続けてきたわけではない。
けれども。それでも。
(この、気持ちはたしかなものです)
逃げたくはない。逃げるわけにはいかない。
もちろん、怖いという気持ちがないわけではない。この、楽しい空間を、居心地のいい関係を。たったひとつの言葉をきっかけに壊してしまうかもしれない。
けれども。逃げることが、手遅れになってしまうことを。フィーリアに浩一の移動役を奪われた際に、痛いほど思い知った。
そして、なによりも。憧れた浩一が、必要なことならばと手を伸ばし、足を動かす人間だった。
だからこそ、アイリスも。
「コーイチ様」
止まるな、迷うな、戸惑うな。
ここで怖じけづけば、二度と言えなくなる。
「私、アイリスは。アイリスは――」
手を、胸の前で握りしめる。
溢れ出す想いを、抱きしめる。
そして、言葉という形を成して。
「コーイチ様のことが、好きです! 愛しております!」
言った。言った。
言ってやった。言ってしまった。
後ろから「わぁ」と、驚きつつも楽しげで、満足そうなマーシャの声が聞こえる。
腹の底から、様々な感情が湧き上がってくる。体中から、溢れて出てきそうで、どうにかなりそうだ。
今にだって逃げ出してしまいたくて、けれど、ここから――浩一の声が届くこの場所から動きたくなくて。
シンとした空間。顔が見えないからこその、別種の緊張が走る。今の告白に、彼がどのように思ったのか、どのような反応を、表情を、しているのか。
いったい、どれくらい経っただろうか。不安な気持ちは、少しの時間さえ長く、長くに引き伸ばしているように思えてくる。
もしかしたら、断りの言葉を考えているのではないだろうか。優しい浩一のことだから、どうすれば傷つけないか、今までの関係を保つことができるか、ということを考えているかもしれない、なんて。そんな考えも湧き出してきた頃。
「……あれ?」
後ろで、マーシャがそんなつぶやきをする。
どうやら、時間の長さは、不安からくるものだけではなかったらしい。
『ごめんごめん。アイリスちゃん、マーシャ』
次に場に割り込んできたのは、風花の声。
『どうやら電話機に入れてた魔力が切れちゃってたみたいで』
電話口からの風花の声。無言の理由は、思ったよりも単純なものだった。
その事実に、アイリスは思わず体中が弛緩して、へにゃへにゃとその場に座り込んでしまう。
びっくりしたマーシャが駆け寄って心配してくれる一方で。様々な感情が綯交ぜになったアイリスの心情から、ひとつ頭を抜けて飛び出してきたのは安心だった。
少なくとも、拒絶の間ではなかった。それが、なによりも今のアイリスにとっては安心できることだった。
……もちろん、一世一代ともいえるような告白が、トラブルで届かなかった、ということに対して思うことがありはするけれども。
けれど、おかげさまで、ひとつ決心もついた。
『ごめんね、アイリスちゃん。私がちゃんと補給しておけばよかった』
風花がそう謝ってくるが、これはしかたのないこと。そもそも、試作機の試験を行っている最中だし、風花自身初めて扱うものでもある。
試験の項目の中に、どのくらいの魔力消費なのか、ということもある都合、こういったトラブルは致し方のないこと。
もちろん、だからといって全部の感情が割り切れるわけではないけれど。
「それじゃあ、もう一回――」
「待ってください。マーシャちゃん」
再度、仕切り直そうとしたマーシャに、アイリスはそう待ったをかける。
「もう一度は、大丈夫です」
アイリスはゆっくりと立ち上がると、しっかりとした意思を持ちながらにそう伝える。
「……へ?」
「試験で必要な項目は十分に取れていますよね?」
「いや、まあうん。どこを改良するべきな、とかも含めて取れてはいるけど……」
いいの? と。そういう視線がマーシャから差向けられる。
告白が失敗……かどうかは少し微妙だが、少なくとも伝わらなかった、という現状。もう一度いうというのもひとつの手段ではある。
だけれども、ここで再度というのも不格好ではあるだろうし、話の内容が告白であるという性格を鑑みるに、一度目に通信障害を起こしてしまったということに風花が気を負うかもしれない。
正直な話をすると。想いが伝わらなかった、告白が完了しなかった、ということに対して「よかった」と思っている節が少しある。
もちろん、逃げているわけではない。
「伝えるのなら。やっぱり、正面から伝えないと、ですから」
マーシャにせっかく電話機を作ってもらっておいて、というところもなくはないけれども。
しかし、そのおかげで、こうして決心をすることができた。
「正々堂々正面から。それが、私のやり方ですから」
もう、逃げない。
「そっか。……うん、そのほうがアイリちゃんらしいね」
うんうん、とマーシャは頷きながらに納得してくれる。
「まあ、ちょっとトラブルはあったけど、おにーさんもおねーさんも、協力してくれてありがとね! それじゃ!」
そう言うと、マーシャが代表して通話を終了する。
再び静寂に包まれた部屋の中で。アイリスは、大きく息をつく。
「やり、ました。……頑張り、ました」
「うん、うん。お疲れさま、アイリちゃん」
得られた結果自体は微妙ではあったもけれど。
なによりも。今やれることを、しっかりと、やり切った。
それが、アイリスにとって、なによりの進捗だろう。
「でも、ここから、ですから」
まだまだ、終わっていない。むしろ、ここからが始まり。
やっと、スタートラインに立つことはできた。けれど、出遅れているのは依然そのまま。
「しかと、見せてみせましょう。王族というもののは、生来貪欲なものですから」
覚悟をしていてくださいね? と。どこか得意げな笑顔を浮かべながら、ここにはいない浩一に向けて、アイリスはそう言ってみせた。




