番外編 ナミさんとフェロモン魔人 8
フェロモン魔人の仮面が、剥がれてる……
ナミは裏口から店に入った時から、廊下の奥から聞こえてくる音がおかしいなと思っていた。いつもより、少しだけ音が大きい。
昨日の今日でかなり勇気を振り絞って出勤してきたのに、気まずさを通り越して心配になるほどの余裕のなさで大将が板場に居た。手元を見るとすごいスピードで魚を捌いている。
仕込みの時間が足りないのかもしれない。
大将よりも遅く出勤するナミは、普段どの時間に来て仕込み始めているのかを知らない。
でもいつもは飄々と仕込みながら挨拶を交わす大将が、おはようございます、と言葉だけ挨拶をして、後は手元に集中している。
ナミは黙って集中を妨げないように、静かに開店の準備を進める事にした。
職人が集中している時には声を掛けてはならない。乱れて手元が狂うのを嫌うからだ。川谷から口酸っぱく言われて骨の髄まで染み込んでいる。
開店三十分前にあらかた終わって板場の方を見ると、大将も間に合ったのか、肩をこめかみに寄せて、ぐっと袖で滴る汗を拭っている。
その目は調理場をざっと見渡し、全ての物が過不足なく在ると分かると、流れるように包丁を水場で清め、さっと白地の手拭いで拭き一枚板のまな板に置いた。
その姿に、うっと息を呑む。
ナミは慌てて冷水をコップに入れ板場の隅に置き、酒瓶の補充に行ってきます、と声を掛けて内暖簾をくぐる。
小さな事務室の壁にある倉庫のカギを取って裏口の戸を開けて外に出ると、やっと息を吐いて、とん、と戸に背を預けた。
あと少しで開店時間。
動悸を沈めないと仕事にならない。
胸に手を当てて、ふー……と深呼吸をする。
「私は従業員、私は従業員、〝すずや〟の従業員」
よし、とナミは一つ頷くと、店の裏手にある倉庫から酒瓶が入ったケースを持って、なるべく早く店に戻った。
廊下に置き、フロアに戻ると丁度開店十分前だった。時計を見る為に顔を上げた時、大将と目が合うと、洗面台で顔を洗ったのかスッキリとしたいつものフェロモン魔人が居た。
「お冷、ありがとう。よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
大将の真面目な声に、ナミは、頷いて、暖簾と看板を出しに店の外へと急いだ。
心を落ち着かせたのに、フェロモン魔人はやっぱり酷い。
ナミは暖簾を出しながら、無駄にカッコよくならないでほしいよ、とボヤいた。
はい、と言った顔は、ちゃんといつもの従業員の顔になっているだろうか。
ナミはあまり自信のない心持ちを振り切るように、からりと木戸門を開け、開店を知らせる置き看板を店の前に立てた。
****
開店をすればいつも通りの動きとなり、ナミも余計な意識を持つ訳でもなく、テキパキと店内を回った。今日は土曜日、お客様の入りも早く、一時間後には小林くんも出勤して入れ替わり立ち替わりお客様を迎えて、また送り出していく。
あら、大将、今日は素敵な器に変えたのね、刺身が映えるわ、と白髪のいつもさり気なく上品な服を来て来店する常連さんが目を細めたのに、大将はええ、最近少し気を使うようになりました、と柔和に答えている。
今日のお造りの器は織部を使っている。地の色が薄茶色の少し高台のある器に、深い緑色の釉薬が器全体にかかっていて、器の底にいくにつれ濃くなっていく翠の移り変わりが美しい。その上に色鮮やかな青葉や大根をごく薄く千切りにしたけんと共に白身と赤身の刺身が盛られていて、艶やかに輝いていた。
ナミが来てから触発されたのか、大将は時折ふらっと新しい器を買って来るようになった。
カタログを見て買うのではなく、いろんなお店を回って買ってくるらしく、統一性は無いのだが、お客様にメインとして出す皿にさり気なく使うようになっていた。
その料理を見るたびに、ナミの心は踊る。この料理を合うお酒はどういうものが良いのだろう。
魚、肉、刺身、煮込み、甘め、辛め、香りに合うお酒。
旬のものを常に使う大将の料理に合わせてお酒を変えていくのが、ナミの楽しみで、その選んだお酒と共に大将の料理に舌鼓を打つお客様の顔を見るのが喜びだった。
〝あの客は仲倉さん目当てだよ、常連にはならない部類だ〟
白髪の女性が嬉しそうに箸をつける姿を見ていると、ふと、昨晩大将に言われた言葉が蘇ってきて、ナミは少しだけ目を伏せる。
焦っていたのかもしれない。
投資をさせてしまった分、なんとか早期に利益を上げたくて、本来大事にしなければならない、お客様に喜んでもらう、という心を見失っていたかもしれない。
ナミに絡んでいた客は、酒は飲むが酒の肴はほとんど枝豆に漬物等、大将の料理を楽しむような感じではなかった。
ここは大将の店。
一番はやはり、料理を楽しんでもらいたい。
今度その客がやってきたら、はっきりと断ろう。そう心に決め、最後の客を店の外の木戸門まで送り出した時だった。
「こんばんは、連絡来ないから来ちゃったよ」
店に戻ろうと戸に手をかけた所に声をかけられ、親しげに肩をぽんと叩かれた。驚いて振り返ると例の、短い前髪をぱりっと立てた男が居た。
「お客様、申し訳ありません。ラストオーダーの時間が過ぎてしまったので、今日はもう閉店になります」
ナミは男に向き合うと、丁寧にお辞儀をした。男は、ええ、そうだったんだ、時間を間違えたなぁ、急いで来たのだけれど、と汗もかいていない顔でうそぶいた。
「申し訳ありません、また明日以降、よろしくお願い致します」
もう一度丁寧にお辞儀をし、店に戻ろうとした所で、男は待って待ってとナミの腕をぐっと引いた。
「ね、もうすぐ上がりでしょう? いくら連絡待っても来ないからさ、誘いに来たんだよ。今からちょっと飲みに行こうよ」
「お客様」
とナミが断ろうとした所で、背後でガタリと音がした。ナミはとっさに、ちょっとこちらへ、と店の外に出て戸を閉めた。
「お客様、申し訳ありません。お客様とプライベートな時間を過ごす事を禁じておりますので、ご期待には添えられません」
ナミはさり気なく掴まれた腕を外すと、毅然とした態度で断った。
「ええ⁈ こんな小さな居酒屋でそんなルールがあるの⁈」
男は心底驚いたという顔でこちらを見てくる。ナミはいえ、と少しだけ首を振ると、きちんと男の目を見ていう。
「これは私の中での決め事です。こちらの店には関係はありません。申し訳ありません」
ナミは丁寧に頭を下げた。
〝すずや〟にとって客を一人減らす事になるかもしれない、という罪悪感が胸に滲んだが、それよりも招かれざる客を断る方が店にとってもいいんだ、と何度も言い聞かせた。
それでも断る、という行為に申し訳ない気持ちが抜けきれず、心苦しく思いながら顔を上げると、男はにこにこと笑っていた。
「なんだ、それなら何も問題ないんじゃ?」
「え?」
「自分の中でのルールなんでしょ? それなら少し破っても誰にも迷惑かからないよ。そんなガチガチに決めちゃわないでさ、ちょっと息抜きと思って遊べばいいんだって」
これだけ断っているのに話が通じない男に、ナミはうろたえた。これ以上、厳しい言葉が出てこない。ナミが黙ったのを見て、男が口元だけで笑った。
(あ、違……)
男が勘違いしたのが、分かった。
微妙に距離が近づいて来るのにおののいて一歩下がると、戸が背に当たった。
その瞬間、からりと戸が開いて、大将の声がした。
「ナミ、暖簾下げたか?」
……ナミ⁈
初めて名前を呼ばれた事に身体が固まる。
そんな様子を知ってか知らずか、大将はゆっくりとナミの前に立つと、あの柔らかな言葉遣いで男に言った。
「お客様、本日はせっかくお越し頂いたのに申し訳ありませんでした。あの、妻が何か?」
「え? 奥さん⁈」
男がひるんだようにナミと大将を交互に見るのをみて、大将は平然と言い放った。
「はい、私の妻です」




