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番外編 フェロモン魔人と川谷さん 5

 



 JR恵比寿駅の改札を出て右へ向かうと長い平面の動く歩道(エスカレーター)が続いている。足早につかつかと歩いて行く人々を横目に見ながら、ツトムは緩やかな流れの方に足を乗せる。

 こんな所で立ち止まってエスカレーターの生温い自動の流れに身を任せているのは、手を繋いでいる恋人達か、この場所に慣れていない観光客ぐらいだ。


 ツトムは手すりに手をのせながら、久しぶりに乗った電車の混み具合に息を吐く。

 東京生まれ東京育ち。別に慣れていない訳ではないが、人混みが苦手な事には変わりない。店を持つようになってからは、仕入れ先に車で移動しているので、電車嫌いに拍車がかかった。それに嫌になるにはもう一つ理由がある。


 ツトムはちらちらとこちらを見てくる視線に気付き、パーカーのポケットに手を入れて、足早にビジネスマン達の流れに移った。

 あ、いっちゃったぁ、もしかして本当に芸能人だったんじゃない? うそっ、写真撮り忘れた! という黄色い後ろの声に、辟易(へきえき)しながら大股で先を急ぐ。


 母の容姿を多分に引き継いで生まれてきたツトムは幼少の頃から表に出ると誰かしら寄って来られる、もしくは眺められるのが常であった。

 それを楽しめる気質であれば良いのだが、あいにく常日頃放っておいてほしいと思うタイプなので、人混みは自然と避けるようになったのだった。


 長く続いた歩道の先に赤煉瓦色の広々とした広場があり、下ったり上がったりしながらガーデンプレイスと呼ばれる場所を抜けると、あとは細い路地が何本もある下町に移っていく。

 ツトムは少しだけ残っているビール工場跡の赤煉瓦の塀を右手に眺めながら、通い慣れた路地を左に曲がった。


 昔ながらの住宅が並ぶ一角に、〝かわ()〟はあった。


「こんばんは」


 からりと戸を開けて白い暖簾(のれん)をくぐると、らっしゃい、と川谷(かわたに)の野太い声が迎えてくれた。


「休みの日に悪ぃな」

「いえ、先日はありがとうございました」

「どうだい、うちの不詳の弟子は」


 川谷はにっと笑うと、白い手拭きと共に冷や(みず)を一杯、ビールグラスに入れて出してくれる。


「私にはもったいないぐらいの人です。ご紹介頂き、ありがとうございます」


 ツトムは川谷の正面に向かってきっちりと頭を下げ、礼を言うと、固いことはいいって、ま、座れよ、と勧めてくれたカウンターに座る。


「焼きか刺しか」

刺し(さしみ)で。(きも)、ありますか」

「ああ、鹿児島のいい(やつ)来てるから出せるよ」

「お願いします」

「あいよ」


 〝かわ辺〟は良質な鶏肉を出す店だ。カウンターしかない、知る人ぞ知る隠れ家のような店は、いつも静かに賑わっている。基本の値段設定が高いのもあって、場末の客や一見さんは来ない。客は一人、もしくは二人で、来てしっとりと呑んでいく。


 ツトムはまだ客が来るには早い店で、出された冷やをこくりと飲んだ。


「それにしても、呑めないお前さんが酒を出す店をやると聞いた時は肝を冷やしたよ」

「すみません。でもどこから私の話が……」

「お前さんの兄弟が別々に電話かけてきたよ」

「……すみません」


 ツトムには二人の弟がいる。すぐ下の弟が実家の料亭を継いだ。自分が飛び出したので継ぐ事になった弟とは、家を出て以来一言も話していない。末の弟は電話で一度だけ話したきりだ。


「落ち着いたら会ってやれよ? 俺は伝書鳩はやらんからな?」

「はい、すみません。ありがとうございました」


 改めて頭を下げるツトムに、まあ、今日はこの辺で勘弁してやるよ、と笑いながら川谷は、長皿に並べた鳥刺しをカウンターに置いた。

 サーモンより薄い桃色は照明の光に反応して光っていて、新鮮さが見た目でわかる。

 魚の刺身と同じく薄口しょうゆに山葵(わさび)を少し溶かし、身を半身だけしょうゆにさっと付けて食べる。

 ぷつりと嚙み切れる弾力と鼻に抜ける山葵との兼ね合いに思わず頷いた。


「美味いです」

「なら良し。じゃあ問題だ。これに合う酒は?」

「川谷さん、俺は酒は」

「呑めなくてもいいから、料理に合う酒を見出せるようになっておけ。あいつの事だ、お前さんの料理に合う酒をどんどん仕入れてくるぞ? 店主たるもの、せめて及第点ぐらいは出しておかないとダメだろう」


 確かに、既に以前店に入っていた酒とは別に数種類の酒を用意していて、お品書きとは別のファイルを作り、仕入れてきた酒が変わる度にその中身を変えてお客様に提示している。


 ツトムは一先ずもう一口食べながら、ここから探してみろ、と示された五酒を見た。

 酒の名前と共に、辛口、甘口と達筆な字で書かれている。


 鳥の刺身は山葵が効いて締まった味をしている。締まっているから、辛口か?


(きり)松島(まつしま)、ですかね?」

「いや、辛すぎだろう、松島なら山葵(わさび)よりピリ辛の一味系だ」

「では……鍋島(なべしま)?」

「辛口が外れだからって甘口ってお前さんよぅ……鍋島は香りが過ぎて刺身には合わねぇよ、それは〆で飲むのが妥当だ」

「ダメですね」

「ダメダメだな。仲倉(なかくら)が居なかった時を思うと目も当てられん。ま、料理の腕で逃してはいないだろうが」

「いえ、逃していました」


 リピーターの何割かの人に酒、もうちょっとどうにかならないの? と言われた事があった。 申し訳ありません、勉強してはいるのですが、と次の週に新しい酒を一本だけ入れてはみたのだが、あまり良い感触はなく、いつしか来なくなったお客様も居た。


「まぁな。お前さんの作るモノはまた酒に良く合うから、良い酒が飲みたくなるんだよ」

「そんなものでしょうか」

「そんなもんよ、酒呑みは」

「仲倉さんも、酒呑みなんですか?」


 思わずぽろっと出た言葉に、おっ? と川谷が焼き目をつけている手を止めないながらも片眉を上げた。


「すごく沢山のお酒を良く知っているので」


 慌てて繋げた言葉に、川谷がにやりと笑う。


「へぇ、お前さんの方が先になびいたか。あいつ、仕事一辺倒だからなぁ」

「……川谷さんも?」

「俺は狙い下げだね、あんな鉄女、御せられるか」

「鉄女」

「別の奴が挑んだのを見た事はあるが、全然ピンときやしねぇ。恐ろしいほどの唐変木だ。お前も挑むんなら既成事実を作るつもりで行くんだな。ま、玉砕覚悟でいけばなんとかなるだろ、お前なら」

「死活問題です」


 ツトムの場合確実にモノにしないと、優秀な人材を逃す事になる。


「まぁ、それが嫌なら手を出さない事だな」

「そうですね」


 さらりとそう答えてツトムはお冷を飲んだ。

 恋愛と仕事を天秤にかけたら、今は間違いなく仕事だ。やっと軌道に乗り出した店を崩すような事はしたくはない。そう心に決めると、ツトムはさっぱりとした気持ちで、川谷が出してくれた鶏めし茶漬けを食べる。


 先程川谷が炙っていた焼き鳥がほかほかの白米に乗っており、その他に錦糸卵、甘辛に煮たしいたけ、紅生姜が別皿に乗って好みで食べる形だ。ご飯にかける鶏ガラスープが絶品で、酒が呑めないツトムの為に川谷はいつもメニューにはないこれを作って出してくれる。


「相変わらず美味いです」

「ありがとよ。ま、愛だの恋だのは置いておいて、今度は仲倉も誘って来いよ」

「……」


 やけに押すな、と思ってちらりと見ると、川谷はその強面の顔をにかっと笑って言った。


「俺が鉄女の反応を見極めてやるよ」

「……遠慮します」

「おいおい、別に茶化して酒の肴にしようなんざ思ってねぇぞ?」

「結構です」

「おーい」


 にこやかな営業スマイルで断って勘定をすますと、冗談はさておき、また顔見せろよ、という声にはきっちり振り向いて、はい、ありがとうございます、とお辞儀をし、店を出た。



 とっぷりと暮れた夜道を駅に向かって歩く。

 夏から秋に向かっていくこの季節の夜風は日によってぬるい。

 今日も空気の層があるかのようなまとわりつく風を振り払うようにツトムは歩を進めると、尻のポケットが震えて携帯電話の着信を知らせてきた。


 取り出して見ると、何度か肌を合わせた事があるキャビンアテンダントからだった。通話ボタンを押した途端、鼻に抜けるような甘い声が聞こえる。


「ああ、久しぶり。フライトお疲れ。今から? いいよ、空いてる。ヒルトン? 分かった」


 浮かび上がるガーデンプレイスのライトアップを見ながら到着時間を素早く計算して告げ、短く話して切った。

 次の日も空いてるからちょっとだけ買い物に付き合ってほしい、という誘いには店を理由に断る。


 別に深く付き合いたい訳じゃない。

 身体だけで十分だ。

 割り切って付き合う方が気が楽。


 そう思いながら歩き出した時、前髪を切りそろえた細身の女とふっとすれ違った。


「仲倉さん?」


 思わず声をかけると、その女は不思議そうな顔で振り向いた。濃い化粧に厚い唇が見えて人違いだと気付き、すみません、間違えました、と早口に言って踵を返す。


 歩きながら、ツトムの口の中がじわりと苦くなった。


 別に、付き合っている訳でなし。

 知られたとしてどうするでもなし。


 そう思うのだが、脳裏に浮かび上がる、悲しそうな顔をしてこちらを見るエプロン姿が、こびり付いて離れない。


 いや、そんな顔はしない。

 そんな顔を見たこともない。

 甘い雰囲気にもなった事もないんだ。


 実際の彼女は、仕事相手のツトムには営業的な笑顔しか見せない。

 どちらかというと真剣な表情が多く、もしくはお客様に向けた笑顔の延長でこちらに相槌を打つぐらいな関係だ。


 どうかしてる、と頭を振り無理矢理に彼女の姿をかき消すと、携帯をポケットに戻しながら足早に赤い煉瓦の広場を抜けて駅へと向かう。


 両サイドにある動く歩道(エスカレーター)に乗るのも忘れ、道の真ん中の広い歩道をただ黙々と歩く。


 駅に近付くにつれ大きくなる喧騒と、張り付くような喉の乾きと口の苦さが取れないのが鬱陶しく、ツトムは振り切るように足早に改札を通り抜けた。



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