02-09. 記憶、あるいは、これから起こりうること
──時間が巻き戻るより前。
私の記憶の中だけに存在する世界と、時間軸で。
王国滅亡の原因となったのは、この私だった。
"悪女"は国を内側から食い荒らす、白蟻の女王のようなものだった。
けれど、最終的に王国を終わらせたのは"悪女"ではない。反乱軍を率いた若き将軍──"英雄ジーク・ライヴァルト"だ。
"英雄"は、頻発する暴動を反乱軍として纏め、組織として機能させた。そうして圧倒的強さと、絶対的カリスマで、民衆に支持されていく。
侵略軍を撃退し、王都の無血陥落に成功した"英雄"は、王宮に攻めこんで、私の夫であるレグルス王を討ち、王妃であった私に処刑命令を下した。
そしてノース王国は滅亡した。
だけど──私は、"英雄ジーク・ライヴァルト"と直接あい見えたことはない。
王都解放のどさくさに紛れた逃亡計画に失敗し、牢獄に入れられた数日後、処刑台に直行したからだ。
自分を断罪した男の顔を、私は知らなかった。
だから気づけなかった。
目の前にいる少年が、自分の最大の敵、
あの"英雄"だったなんて──
"英雄ジーク・ライヴァルト"の動向こそが、私の運命を左右するといっても過言ではなかったのに、それに思い至らなかったなんて、私はどれだけ愚かしいのか。
自分のバカさ加減に、吐き気がする。
…………いや、それも少し違う。
私は自分の心を覗きこむ。そこにあったのは、暗い檻のような恐怖だ。
私は、とても怖かったのだ。
"悪女"の道を選ばず、ド地味な優等生として生きてさえいれば、"英雄"なんかと関わる事はない。そう、心のどこかで安心していた。
己を断罪した相手を、意識から遠ざけていた。
──記憶を抑えていたタガが外れ、悪夢のような過去の映像が溢れる。
くらり、と目眩がした。
傾いでいく私の体を、そばにいた少年が慌てて支えた。彼は必死に呼びかけていたけれど、その声も次第に遠ざかっていく。
いや、さわらないで…………と叫びたいのに、喉に石が詰まったかのように声が出せない。呼吸が乱れて胸が軋む。
しっかりしろ、ここで倒れたらダメだ……!
己を叱咤したが、意識は抗えずに、深い闇の底へと沈んでいった。
◇◇◇
────夢を見た。
逆行前の、最後の瞬間だ。
王都の中央広場には、"悪女アデルハイデ"の最期を見届けようと、たくさんの群衆が詰めかけていた。
牢を出され、罪人を運ぶために用意された粗末な馬車に乗せられた私は、まるで生贄の羊のように、そこに運ばれてきたのだった。
「……降りろ」
処刑人の男が無造作に扉を開ける。
集まった人々は、私に激しい憎悪の視線を向けていた。肌にピリピリと視線が刺さる。息をのんで動けずにいると、処刑人は無理やり私を馬車から引きずり下ろした。
強烈な敵意が渦巻く中を、おずおずと歩いていく。
誰かが、私に向かって石を投げた。ゴツ、と頭に当たってよろける。けれど立ち止まることは許されず、鎖を引かれて、処刑台まで歩き続けた。
最初の石を皮切りに、投げられる石が増えていく。ゴツ、ゴツと頭や背中、手足に当たった。血が滲んで、痛くて仕方ない。
自分に向けられた激しい憎悪。広場は、"悪女"に抵抗や言い訳など一切許さない、という重苦しい圧力に満ちていた。
けれど、石を投げられる痛みより、罪人の私に与えられる死の恐怖の方が、遥かに上回っていた。たくさんの人を死に追いやった私は、自分の死を何よりも恐れていた。
処刑台の階段を一歩ずつ上る。
本来ならば、それは、地獄へと続く道だったのだろう…………時間が巻き戻りさえしなければ。
その時の私は、豪奢なドレスの代わりにボロ布を纏った、ただのみすぼらしい女だった。美しかった黒髪はすっかり艶を失い、乱雑に切られてギザギザになっている。
もはや、"傾国の美女"と呼ばれた王妃アデルハイデの面影はどこにもない。
"希代の悪女"と蔑まれ、すべてを失って断罪される、ちっぽけで痩せこけた女がいるだけだった。
「……そこなる女は、国を白蟻のように食い荒らし、放蕩三昧をした挙げ句、民衆を苦しめ絶望に追いやった。圧政を敷いた王国の歴史は、暴虐な王妃の断罪をもって、過去のものとなるだろう」
罪状が読み上げられると、群衆はわあっと歓声を上げた。
荒々しく乱暴に引き倒され、私の首は、板と板の隙間に嵌められた。ガチャリと止め金がかけられ、固定されてしまえば、もはや逃げることは叶わない。
その時ふと、処刑台の正面に、背の高い男が静かに立っているのに気がついた。
過去の私は、それが誰か判らなかった。だけど今なら、何となく判る。──彼だ。
反乱軍の"英雄"。そして、王立学院の騎士科にかつて在籍していたであろう、少年。
「最後に、残す言葉はあるか」
「…………何も」
処刑人に掠れた声で答えて、瞳を閉じる。
最後に目に焼きついたのは、真っ青に晴れ渡った空。
処刑人が、斧を振り下ろす。ギロチンを吊るしていた綱が、ぶつり、と千切れて、そして────




