10. まだ名前のない感情
夕暮れ時、ずっと続く白樺の並木路を一人の令嬢が背中を丸めてトボトボと歩いている。
馬車がないと知ったオフィーリアは迷わず歩いて帰ることにした。
田舎で生まれ育った彼女は長い距離を歩くことなど日常茶飯事だ。
方向音痴ではあるが、一本道だから多分大丈夫だろう。
歩きながら、ずっとディアンドラのことを考えていた。
あの二人には自分の知らないどんな過去があるのだろうか。
やはり忘れられない女性なのだろうか。
だとしても自分をパーティー会場に置き去りにするのはあんまりではないだろうか。
お前なんてもう帰ってこなくていいよ……そう言われたみたいだ。
自分はその程度の存在なのだと思ったら悲しくなって、視界が涙で歪んだ。
後ろから来た馬車がオフィーリアを追い越して行った。
乗っていたのはこっそり様子を見にあとをつけて来たキャロライン。
すれ違いざまに窓越しに覗く。
べそをかきながら歩いているオフィーリアの姿を確認した彼女は意地悪く微笑んだ。
(フン、いい気味だわ……)
でも意地悪をしたところで心が晴れるはずもなく。
落ち着かない様子で自分の縦ロールの髪を指に巻きつけたりほどいたりしてみる。
(だって、あの子ばっかりずるいんですもの)
……………………と、不意に強い衝撃を感じた。
ガクン!!
何かあったのだろうか。
キャロラインは止まってしまった馬車の窓から頭を出した。
「お、お嬢様申し訳ありません。車輪が一つ溝に嵌ってしまいました」
アクシデント発生である。
昨晩の雨のせいで出来た水溜りの窪みに落ちてしまったらしい。
御者が馬車を押したり引いたりするもののビクともしない。
車輪はぬかるみにはまったままだ。
キャロラインは馬車の中でイライラしていた。
するとしばらくして、先刻追い越したオフィーリアが通りかかった。
「大丈夫ですか〜?」
オフィーリアは車輪が泥の窪みに嵌ってしまったことに気づいた。
首を傾げてちょっと考え込んだ彼女は、やがてキョロキョロあたりを見回しすと、一枚の木の板を拾ってくる。
そしてその板を嵌っている車輪の下に斜めに差し込むと御者に向かって言った。
「私がこの板に乗って体重をかけますから、そのタイミングで同時に押してください!」
テコの原理を使おうというわけだ。
藁にも縋りたい想いの御者は突然現れた見知らぬ少女の提案に素直に従った。
「せーの!」オフィーリアが板に飛び乗る。
「ふんっ!」御者が馬車を押す。
ビクともしなかった馬車がほんの少し動いた。
「もう一度! せーのっ!」
キャロラインはこのやりとりを馬車の中で驚きを持って聞いていた。
こ、この子…………。
自分の交通手段もない状態なのに。
当たり前のように知らない人を助けようとしている。
なんの躊躇いもなく。なんの打算もなく。
ドレスが汚れることも厭わずに。
はまった車輪の動きが少しずつ大きくなっていく。
「もう一度!せーの!」
「むんっっ!」
激しい動きに、オフィーリアがつけていたコサージュが泥水の中に落ちた。
「もう一度っ!せーーのっ!」
馬車がふっと軽くなり、溝から抜けた。
「あっ!やったー!」
と同時にオフィーリアが乗った板がバキリと真っ二つに割れた。
「危ない!」思わすキャロラインが馬車から飛び出てオフィーリアを助けようとしたが間に合わず……
「きゃあ!」
足場を失ったオフィーリアはゴロリと水溜りに投げ出された。
「あら、キャロライン様!」
泥の中に尻餅をついたオフィーリアは驚いたようにキャロラインを見つめた。
泥んこのオフィーリアはキャロラインの馬車でバーンホフ邸まで送ってもらうこととなった。
キャロラインはぎゅっと拳を握りしめたまま、俯いていた。
私はこの子をパーティーでいじめようとした……。
くだらない嫉妬心から卑怯な手を使って、交通手段を奪い会場に置き去りにしようとした……。
それなのに………………。
「す、すみません、こんな泥んこのまま乗ってしまって」
オフィーリアが恐縮する。
「でも馬車がなくて困っていたので助かりました。ありがとうございます」
一片の曇りもない笑顔でお礼を言う。
(違う!馬車がないのは私のせいなのよ……!)
良心の呵責に耐えられなくなったキャロラインは泣き出してしまった。
「え? キャ、キャロライン様?」
訳がわからないオフィーリアはオロオロする。
(ごめんなさい!ごめんなさい!)心の中で何度も謝る。
私がアドニス様に名前を覚えてもらえないのは当然だ……。
人としての品性で自分はこの子に完全に負けているのだから。
一方、その頃バーンホフ邸ではーー
アドニスが落ち着かない様子で窓際を行ったり来たりしていた。
(遅い!いくらなんでも帰ってくるのが遅すぎないか!?)
(ガーデンパーティーだから暗くなる前に終わるはずだろ)
先に帰宅したものの、なかなか帰ってこないオフィーリアのことが気になっていた。
(まさか何かあったのだろうか)
痺れを切らしたアドニスは自らオフィーリアを迎えにいくことに決めた。
そして馬車に乗り込んだ瞬間、
ーーキャロラインの馬車に乗ったオフィーリアが帰ってきた。
「ただいま戻りました。あらアドニス様これからお出かけですか?」
「…………い、いや」なんとなくバツが悪い。
しかし馬車から降りたオフィーリアの姿を見るなりアドニスの顔色が変わった。
出かける時はあんなに綺麗だったオフィーリアが全身泥だらけになっていたから。
おまけにあちこち擦り傷までできているではないか。
「お前……オフィーリアに何をした!?」
キャロラインに顔を向けるとすごい剣幕で怒鳴った。
「も、申し訳ありません。私のせいです」
キャロラインはずっと俯いて震えながら泣いている。
「何をしたのかと聞いているんだ!」
アドニスの怒りは収まらない。
「キャロライン様は置いてきぼりにされた私を送ってくださったんですよ」
オフィーリアは自分を置いてきぼりにした張本人のアドニスを睨んだ。
(自分はディアンドラとさっさと消えたくせに!)
キャロラインの泣き声が大きくなる。
「違うんです。わ、私は……オフィーリア様に意地悪をしました。バーンホフ家の馬車を返すように仕向けたのは私です。ご、ごめんなさい!ごめんなさい!」
キャロラインはオフィーリアに向かって正直に打ち明けた。
「えっ」
そんなことは全然知らなかったオフィーリアは目をぱちくりしている。
キャロラインは滝のように涙を流し、鼻をすすっている。
「キャロライン様」オフィーリアははにかむように言った
「私は田舎育ちですから、歩くのは慣れていますから大丈夫ですよ。だからこれからも……親しくしていただけると嬉しいです」
キャロラインはさらに号泣した。
そして泥んこのオフィーリアに抱きついた。
外の騒ぎに気づいたニコラ夫人はこの様子をこっそり見ていた。
ボロボロになったオフィーリアの様子を見て、何らかの衝突があったことを察した。
そして抱きついておいおい泣いているキャロラインを見て、勝利したのはオフィーリアであることも。
もともと貴族の令嬢たちにいじめられるかもしれないと危惧してはいた。
でもまさかたった一人でしかも初日にしっかりと自分の居場所を築いてくるとは思わなかった。
(ポンコツだなんてとんでもない)
泥んこになりながらも背筋を伸ばして凛と立っているオフィーリアの横顔を眺めながら、
(この子は……私たちが思っていた以上にすごい子なのかもしれない)
と、一人満足げに微笑んだのであった。
目の前でオフィーリアとキャロラインが和解したのを見てもなお、アドニスは怒りがおさまらない。
自分でもなぜだかわからないけど腹が立って仕方なかった。
(出かける時はあんなに……綺麗だったのに。くそっ!)
よく見ると、オフィーリアのドレスにはお茶のシミがついているではないか。
「事故を装ってドレスにお茶をかけたのはあなたか、アデライン子爵令嬢!」
「ぐすん…………キャロラインですが。ぐすん。でもお茶のシミは……私では……ぐすん」
「あー。お茶と食べ物のシミは……ごめんなさい私です」
オフィーリアが気まずそうに謝る。
「…………」
アドニスは拍子抜けした。
(そうだった、こいつはそういうやつだった……)
こうしてオフィーリアの社交会デビューは無事(?)幕を閉じたのだった。
その晩ミアとデミィによって泥を綺麗に洗い落とされたオフィーリアが部屋でのんびりお茶を飲んでくつろいでいるとドアがノックされた。
「おい、ちょっといいか」アドニスだった。
「怪我の様子どうだ? ちょっと見せてみろ」
彼はオフィーリアが転んだ時に作った腕の擦り傷を見て、顔を顰めた。
「女なのに体に傷作ってんじゃねぇよポンコツ」
と言ってオフィーリアの頬をつねった。
「嫁の貰い手がなくなるぞ……ってまあ、俺がもらうからいいのか」
そう言ってアドニスは笑った。
「え」
冗談なのに。心臓が大きく跳ねる。
「すまない……確認せず先に帰ってしまったことは俺の失態だ」
泥んこになった経緯を聞いたアドニスはがっくり項垂れる。
「もういいです。結果的に良いお友達も出来ましたし。……まあ、強いて言えばディアンドラ様と消えたって知った時はちょっと傷付きましたけど」
「…………? 待て、なんのことだ」
「だからもういいですって。気にしないことにします」
「おい待てってば!」
アドニスに背を向けようとしたら腕を掴まれた。
「もういいって言ってるでしょう!」オフィーリアが珍しく声を荒らげた。
ディアンドラのことは考えたくなかったのだ。
今日見た二人の親しげな光景など忘れてしまいたかったから。
目に焼き付いて離れないディアンドラの艶やかな美しさ。
楽しげに歓談する二人の姿。
思い出すと胸が痛んだ。
片手でオフィーリアの腕を掴んだアドニスはそのまま彼女を壁に押し付け、もう片方の手を壁についた。
「……よくない」
「……………………」
二人の視線がぶつかる。
「俺はディアンドラと抜け出してなんていない。……お前を置いたままそんなこと……お、俺は決して」
「……………………」
あれ。どうして俺はこんな言い訳をしているのだろう。
俺は一体何がしたいんだろう。
勢いで腕を掴んでしまったものの、言葉に詰まってしまった。
ただなぜかオフィーリアにだけはディアンドラとの仲を誤解されたくないと思った。
「……コホン。つ、つまりアデライン子爵令嬢に騙されて先に帰ってしまっただけであって」
慌てて掴んだ手を離し、しどろもどろの言い訳をする。
「……アデラインじゃなくてキャロラインです」
二人の間に一瞬確かに存在した「何か」に気がつかないふりをしながら、
その後いつものようにふざけ合い他愛のない話をしたのだった。
壁ドン書いてみました




