③ 妥協、取引、焦燥
取調室に、今は僕とカナコの二人だけ。僕らは向かい合って座っているけれど、お互いの目を見てはいない。それはまるで僕もカナコも、この部屋には自分一人しかしないのだと思い込んでいるかのような仕草。自らの頭の中で物事を比較し、検討し、そして対価と危険性と天秤にかける。
天秤にかけられるものは、僕が出した条件。
それと、カナコの正義感。
否、彼女の矜持、なのかもしれない。
はっきりって、これは分が悪い賭けだった。カナコはこのまま僕を取調べ、誘拐被害者が監禁されている場所を聞きだせばいいのだから。そうすればカナコにとっても警察にとっても、何も過不足が無い、すっきりして落ち着いた結果になる。カナコはその後部下や同僚をヤンの地下室に行かせ、被害者を救出すればいい。そしてヤンをここに連れてきて、事の真相を聞きだせばいいのだから。いや、そんな面倒なことをしなくても、あの地下室を警察が調べるだけで、オギノメ・コウゾウに繋がるものが何か出てくるかもしれない。
もしくは、先ほどまでトウドウがやっていたような、最低だとしか言いようがない手段を続ければ、きっと僕は口を割るだろう。事実、カナコがここに来る直前の僕はすっかり正気を失っていた。
それにしても……ここであの夢を見るなんて。
僕はなんて甘ったれなんだろう。
僕とカナコはお互いに自分の世界に浸り考えを巡らせていたけれど、まだ繋がっている部分はあった。
カナコのきれいな手と、僕の見えない血にまみれた手。このふたつの手が繋がれるなんて、この世もまだまだ捨てたものじゃないかもれない。
僕の方は考えがまとまっていた。と言うか、カナコの返答次第なのだ。
じっと彼女の手を見つめていると、控えめな声でカナコが口を開いた。
「リンが、誘拐被害者の監禁場所を知っている理由は?」
僕が顔をあげると、カナコは繋いでいないほうの手の人差し指を曲げて、口に当てていた。
「それも、今は言えない。でも、信じてくれ。全てが終わったら、君にはきちんと話すから。約束する」
彼女は何も答えない。同じ姿勢のまま、テーブルの上をみつめている。
「カナコ、僕には時間が無いんだ……最後には、ちゃんと警察にも事情を話す。君にはなるべく迷惑をかけないように努力する」
僕の言葉を聞いて、カナコは困ったような顔をした。
「えっと……あたしは、信じたい。リンのことは信じたいんだけど、これは……簡単には決められないことなんだ」
「どうして? 僕を逃がしてくれれば、少なくとも二日後あたりには、誘拐事件のすべてが解決するはずだ」
「でも……」
言葉を詰まらせるカナコの手を、僕はもう一度強く握った。
「頼む、カナコ。僕は必ず君に連絡するし、何でもする。知ってることは全て話すし、事件だって解決に大きく前進するはずだ。だから、僕を……」
大きくため息をついて、カナコは目をつぶった。頭痛のサインのように額に手を当てて、もう一方の手で、僕の手を握り返した。
「わかった、わかったよ。まったくもう、リンって悪い男みたいだね」
「どういうこと?」
「いるでしょ、ろくでもないってわかってるのに、なぜか関係を切れなくて、嫌いにもなれない男。ギャンブルだの酒だの音楽だの芝居だのってお金と時間をつぎ込むくせに、あたしにのためには何にもしてくれない。そんな男のこと」
「よくわからないけれど……僕は男じゃないよ」
カナコは困った顔のままで笑った。
「もう、そういうことじゃないの。そうだな……例えば……君とは結婚するから、今回だけ浮気を見逃してくれ、って頼まれてるみたいな、そんな気分だよ、今のあたし」
「それもよくわからないけれど……少なくとも僕は浮気なんてしないと思うな」
つないだ手の中で、カナコが指を絡ませてくる。
「もう、いいよ。こういうのは深く考えた方の負けなんだ。あたし、知ってる。男運無いなぁって、諦めるしかないんだ」
「じゃあ……」
繋いでいた手を離して、カナコが立ち上がった。デスクから離れ、部屋の扉に近づいた。閉められている扉越に、部屋の外に立っている記述係の警察官に声をかける。
「サカイ、聞いてた?」
扉の向こうから返事がした。壁や扉を挟んでいるので、その声は若干くぐもって聞こえた。
「はい」
カナコは腕を組んで壁に寄りかかり、何かをあきらめたような顔で再び記述係に話しかける。
「この子を、逃がす。その代わり、あと三日もすれば誘拐事件は解決するってさ」
扉の向こうから、返事は無い。
「もちろん、ばれたらあたしはクビだね。まあ、それくらいで済むはずはないと思うけど……」
今度は少し遅れて返事が聞こえた。
「……はい」
「サカイの名前は出さないから、少し手伝って。いい?」
「了解しました」
「……ありがとう。ごめんね」
カナコは戻ってきて、デスクに右手をついた。そして僕の目をまっすぐに見て言った。
「リン、あたしは信じてるよ」
その大きな瞳には、薄汚れた僕が映っていた。
僕は頷く。
カナコはまたため息を吐いて、少し大げさにうなだれた。
「はぁ……信じるってセリフ、もう使わないって決めたのになぁ……」
僕はデスクから立ち上がり、カナコに近づく。
「ね、さっきの話って体験談?」
僕の言葉にカナコは鈍く反応した。
「え?」
「だから、男がどうのとか、信じるって台詞がどうとか……実際にあった話?」
「リン、急ぐんだよね?」
「え? まあ、そうだけど……」
「じゃあ、早くしないと」
「ねぇ、どうなの?」
「二階の窓から逃がすけど、大丈夫?」
「それは問題ないけども……」
「よし、じゃあサカイに指示を出してくる。ここで少し待ってて」
「あ、カナコ? カナコってば」
彼女はそそくさと部屋から出て、部屋の外に立っている記述係と話をはじめた。
待ってて、言われたので、僕は部屋の中で待つことにした。
「うーん、カナコは彼氏がいたのかなぁ」
そう呟いて、気が付いた。
頭の回転速度がすっかり戻っている。
部屋に戻ってきたカナコから聞かされた僕の脱走計画は、極めてシンプルなものだった。それは計画というよりも、ただの予定だとすら思う。
僕はカナコと一緒に、通路を右に曲がったところにある女子トイレに向かう。そして、トイレの窓から外に飛び降りる。トイレの窓は建物の裏手に面していて、誰かに見つかる可能性は低い、とカナコは言っていた。
「一応、誰かがこないように、サカイに見張りを頼んでおいた」
通路の様子を窺いながら、カナコはそう言った。
窓から飛び降りる瞬間はもちろん、トイレに行く途中も誰かに見つかるわけにはいけない。もし見つかってしまえば、手引きをしたカナコとサカイに迷惑がかかってしまう。
でも僕が逃げ出したことは、いつかはわかるのではないだろうか。仮に僕が逃げ出した直後に発覚した場合、確実にカナコの責任になる。それは大丈夫なのかとカナコに聞いたら、口角をくいっと上げて、「取り調べをしていたのは、リンが逃げる直前までトウドウだったんだよ?」とだけ言った。
周囲を警戒して、誰もいないことを確認してから女子トイレに入る。カナコが入り口の扉を止めてくれて、見張りをしてくれている。
窓を開けて下を見た。この高さなら、飛び降りても大丈夫だ。
「カナコ、本当にありがとう。必ず連絡するから」
僕がそう言うと、カナコはトイレの中に入ってきて、僕に数枚のお札を握らせた。
「ひとまず、これで家に戻って。それと、待てるのは一日だけだから。それを過ぎたら、たぶんトウドウが騒いで、リンの捜査が始まる。また捕まったら、次は助けてあげられない」
「わかった」
「それと……」
「なに?」
カナコは少し俯き、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「本当に、リンは殺人なんてしてないよね? そんなこと……してないよね?」
少し間をおいて、僕は答えた。
「ああ、やってない」
カナコは小さく頷き、胸に手を当てて僕を見た。
「行ってらっしゃい。待ってるから」
「行ってくる」
窓から身を乗り出して、下を見た。
これから僕は、オギノメ・コウゾウに接近するために動かなければならない。アオキに接触して、情報を引き出し、それを有効に使わなければいけない。カナコに連絡を入れて、誘拐被害者を救出し、コウゾウ氏がしてきたことを明るみにだせるだろうか。
いや……そこまではしなくてもいい。
ただ、僕は決めている。
絶対に、コウゾウ氏に。ナツメの両親を殺したあの男に。
「カナコ、さよなら。それと、ごめん」
僕の手で、銃弾を撃ち込んでやる。
カナコの手を借りて、地獄のような取り調べが行われた建物から脱出した僕は、比較的広い通りに出た。そこでタクシーを拾い、ひとまず自宅を目した。銃を取りにいけなければならない。
それに、さすがにシャワーを浴びたい。今なら自分でつくったカレー風味のお湯でも美味く感じるだろう思う。ゴウさんの店で食事を摂るのも悪くない。ルイの学校の話を聞いたり、カナコと海に行くのも素敵だ。
でも……それは、すべて終えた後にしよう。
これで、殺し屋は終わり。もう、誰も殺したくない。
こんな下らなくて始末に負えない因果関係の輪に、もういたくない。
僕が最後に殺すのはオギノメ・コウゾウ。
それだけは、何の迷いも無く決められた。
タクシーの窓から外を見ると、陽が暮れかけていた。街が暖色に染まり、その向こうには夜の気配を感じる。夕暮れだ。時間は、たぶん十七時くらいだろう。
さて。
タイムリミットは一日。明日のこの時間までにカナコに連絡を入れる必要がある。リミットに間に合わなかった場合、カナコには被害者少女たちの居場所だけを教えて、僕は逃亡を続けよう。そして機会をさぐり、ヤンに接触して、コウゾウ氏のことを問いただす。この場合、恐らくはヤンに銃を向けなければならない。
でも、ヤンはサメジマを撃ったのだ。見間違いでなければ、サメジマは階段の上から銃口を向けるヤンを見ていた。どうしてヤンが自分で出てきたのかはわからないが、これもきっと、人手不足が原因なのだろう。
あいつはもう、仲間ではない。
いや、初めからそんな上等な関係ではなかったんだ。
僕は……ヤンを撃てるだろうか。
あいつは多分、何のためらいうもなく僕を撃つだろう。あいつのクライアントである、オギノメ・コウゾウ氏にとって都合が悪い人間を殺すことに、ヤンは躊躇しないはずだ。
さて……するべきことが決まった。僕はシートにもたれ、眠りそうになる頭をひっぱたいて起こす。これからが、正念場なのだ。
タクシーが目的の場所に到着したので、料金を支払って降りた。目の前には薄汚れた繁華街。
うんざりすほど見てきた光景なのに、今は少し愛おしくも思う。
急いで自宅に戻って、クローゼットに隠したままになっていた銃を探した。それは少しもずれもなく、置いた場所で静かに僕を待っていてくれた。
弾倉にある銃弾の残りを確認して、予備をありったけ鞄に放り込んだ。それが終わると、着ていた服を全て脱いだ。もう、一秒でも同じものを着ていたくない。
脱いだ服を洗濯機に突っ込むと、頭に何かがあたった。上を見ると、普段は洗濯済のものをかけているハンガーに、見慣れない衣服がかかっている。
「あぁ……返し忘れちゃったな」
ふわふわとしたフリルがついていて、肩のところは少し膨らんでいる。
それはルイと初めて会ったとき、彼女が着ていたドレスだった。
「……返せると、いいな」
バスルームに入って、熱いお湯を勢いよく出した。それを頭から浴びて、気持ち悪い汗を全て洗い落とす。
「これで、お終いだ」
自然と口から言葉がこぼれ出た。
でも、何がお終いなんだろう?
僕の殺し屋としてのキャリア?
社会的な信用?
それとも、
僕の人生?
まあ、それでもいい。そもそも僕は、十代半ばから前の記憶が無いのだ。それなら、僕の人生の価値なんて普通の人の半分くらいのものだろう。いつ終幕になっても、文句を言う観客はいない。やっと解放された、と喜ぶ人もいるかもしれないくらいだ。僕自身も、きっと喜ぶ。
それに、自分の人生の幕引きを決められるなんて、けっこう幸せなことだと思う。
病気ではなく、老衰でもなく。
大切な人の意思を引き継いで、死ぬ。
あぁ……それは。
けっこう、悪くない話だ。




