592.触れたら消える魔法
リリーに用意してもらった水で手を洗う。もちろん石鹸を付けて、きちんと墨を落とした。バケツは別の侍女が、スカートに隠す形で移動させる。周囲を見回して芝の上に垂れた墨に気づいた。これ、どう誤魔化そうかしら?
「……こちらを」
イルゼがそっと絨毯を敷いた。いつも屋外で使っている絨毯だから、高級品ではない。でも裏が黒くなっちゃうわね。勿体ないと思ってしまう。捨てない使い道を考えておきましょうか。公爵夫人だからある程度使って、こまめに新調しないといけないのよ。
わかっていても「ああ、まだ使えたのに」と感じるのは、もう一生直らない気がするわ。
絨毯で足元を隠し、周囲を再確認してからローズに合図した。軽く肩を叩いて「もういいわ」と伝える。魔法が終わったことにわくわくしながら、ローズは鏡を待った。髪に手を伸ばしたけれど、魔法が解けるを思い出したのか、引っ込める。
「いい子ね、ローズ。触ったらダメよ」
言い聞かせて、乾き始めた髪に櫛を通す。大丈夫そうね。櫛につく墨も少ないわ。これなら平気そう。紺色のワンピースを着せたから、垂れても目立たないはず。本来ならついている白いレースの襟は、朝から針子達が外してくれた。
元金髪から垂れた墨を吸い込んだ帆布を外す。侍女がさっと受け取って、絨毯の下に押し込んだ。
「おかあ、しゃま……こうゆーの」
手で丸い形を作って見せるローズは、鏡を要求していた。いつも丸い手鏡を使っているから、鏡は丸いと思っているのね。愛用の鏡を手渡した。
「どうぞ、黒髪のお姫様」
「ほんちょ? あたし、くろ?」
本当に黒いのかと尋ねる間にも、鏡を覗き込む。無言で時間が過ぎる。レオンが何か言おうとして、ランドルフに止められた。こういう沈黙って、心臓に悪いわ。
「うぁ! にぃ、いちょ!」
「あ、うん。同じ! 黒だ」
レオンがすぐに応じた。空気が読めるというか、優しい子だわ。ローズが嬉しそうに声を上げたことで、全員がほっとした。ヘンリック様なんて膝から崩れ落ちそうよ。耐えて、ローズに近づき……手を伸ばして固まった。
ぎぎぎと軋んだ音がしそうな振り返り方に、笑いそう。本人はいたって真面目なのだから、我慢よ。ぐっと口を横にひいて笑みを誤魔化し、神妙な顔を作って首を横に振った。
ヘンリック様が承諾を伝えるために、首を縦に動かす。触れてはダメ、だから撫でるのも当然アウト。浮いた手は着地点を求め、なぜか近くにいたレオンに乗せられた。ぐりぐりと頭を撫でている。ローズの代わりかしら?
「おとちゃ! あーし、も!!」
「触れると魔法が解けるぞ」
「……やっ」
撫でてほしいけれど、黒髪が消えるのは嫌。しっかり意思表示したローズは、嬉しそうに何度も鏡を覗き込んだ。……ごめんなさい、後ろのほうは綺麗に色がついていないわ。でも鏡に映らないから、許してね。




