591.魔法をかけるのは地味な作業
垂れた墨が、芝生の一部を黒く染める。丹念に手入れしてくれているのに申し訳ないわ。何か敷いておくべきだったかも。墨だから最終的には肥料になると思う。庭師にはお詫びと一緒に、伝えてもらいましょう。
綺麗には染まらない。あくまでも色を上に乗せただけ。ごわごわして固まると思うわ。それでも一回だけの魔法として、歌いながら墨を塗った。重ねるたびに黒くなっていく。ある程度乾いてきたところで椅子ごと起こして、首筋にタオルを巻いた。
このタオルは……捨てるのも惜しいわね。いっそ黒く染めて黒いタオルとして使用する? でも貴族は色の付いたタオルを使わない。純白の美しい新品同様のリネン類を維持することが、貴族らしい振る舞いの一つだった。そのために洗濯専門の下女や下男を雇い、定期的に買い替えることで経済を回す。
わかっていても、もったいないと思ってしまうのは……前世のせい? それとも貧乏伯爵家の長女だったから? どちらにしても、公爵夫人らしくないわ。まだ湿っているので、手早く荒い櫛で髪を梳く……ぼたぼたと墨が落ちた。まずいわ、色も薄くなっちゃった。
塗るというより、押し当てる感じで墨をのせた。これなら黒く見えるかも。ぺたぺたと黒をのせて、何度も確認する。
「かなり出来てきたわ」
鼻歌を止めて呟くと、息を呑んで見守っていた周囲がほっと力を抜いた。ヘンリック様は肩だけでなく眉間にも力が入って……皺が増えるわよ。レオンはぎゅっと拳を握っているし、いつもは落ち着いているランドルフも目を見開いて凝視していた。
「どうして……?」
ランドルフは単語を省いた。どうして墨を使ったのか。インクではダメなのか? でしょうね。私も最初はインクを思い浮かべたの。でも……手に付いたインクは数日しないと落ちないわ。もし髪に使って……斑に染まったら?
レオンもローズも泣き出すし、ヘンリック様が焦って医者を呼びそうでしょ? だからインクは使わないの。中途半端に色が染まって、茶色になっても困るし。だって、前世のプリン頭みたいに色が分かれたら悲しいじゃない。
せっかく伸ばしている髪を切る羽目になったら、せっかくの演出も台無しだから。洗ったら落ちる程度の黒髪で、魔法は一度きり。それが最適な答えなのよ。
あとで、唇でそう伝えて微笑む。わくわくしながらも目を閉じて我慢するローズを見て、ランドルフは察してくれた。
「まぁらぁ?」
「まだ、もう少しよ」
乾くまで待ってと伝え、もう一度櫛で表面だけ梳いた。平気そうね。ローズの目が開く前に、私の手を洗ってバケツを隠さなくちゃ! せっかくの魔法だもの、最後まで夢を見せてあげたいわ。




