253.ティール侯爵家のお詫び
そろそろレオンと合流して……と振り返ったところに、声がけがあった。貴族同士、爵位が二つ以上離れたら、自由に声がけはできない。私達は公爵家だから、話しかけるのは伯爵家以上となる。くだらないルールに思えるが、夜会で見知らぬ人に次々話しかけられる可能性は減るわね。
すでに親しい場合や親族なら、このルールは適用されなかった。こういったルールやマナーは複雑すぎて、学ぶだけで何年も掛かる。それこそが貴族社会を複雑にして、同時に特権意識を植え付けた。自分達が選ばれた存在と、勘違いしてしまう。
「ケンプフェルト公爵閣下、公爵夫人。お詫びをさせていただきたく、お時間をいただけますでしょうか」
一人の男性が静かに頭を下げた。声がやや震えている。ヘンリック様の腕が私を引き寄せた。
「ティール侯爵か」
聞き覚えがある家名だった。バルシュミューデ公爵家のお茶会で、レオンを揶揄った少年の家だ。取り巻きを連れ、同じく公爵家令息のランドルフ様にも無礼を働いた。
ただ、あの件はいい教訓となった一面もある。幼子を守るために動いたランドルフ様やエルヴィン、取り巻きの無礼を咎めたユリアン。一番幼く言い返せないレオンを庇ってくれた。勉強や礼儀作法の授業では覚えられない、貴重な体験だろう。
あの子は、オイゲンという名前だったかしら。ティール侯爵夫人と参加して、すぐに彼女が連れ帰ったはず。はっとした。夜会の場で謝罪を申し出た侯爵が、夫人を伴っていない。夜会は基本的に夫婦同伴なのに。
「ティール侯爵夫人は、どうなさったのですか」
何かあったのか。それとも他の家に挨拶しているだけか。この世界で女性の地位は高くないから、嫌な予感がした。公爵家への無礼の罰として、必要以上に辛い目に遭っていたら? 腕を絡めるヘンリック様の袖を強く握った。
「妻は会わせる顔がないと言って、今日は休んでいます」
屋敷にいると聞いて、ほっとした。掴んでいた袖が緩む。ヘンリック様は私の肩に手を回し、優しく撫でた。
「ティール侯爵は実直で、愛妻家としても有名な文官だ。安心していい」
文官ということは、ヘンリック様の部下になるのね。よく知っている人と聞いて、体から力が抜ける。情けなくへたり込まずに済んだのは、ヘンリック様の腕のお陰だ。厳しい貴族の話も知っているから、すごく怖かったわ。
「おかぁ、しゃま……」
とてとてと走るレオンは、左手をランドルフ様と繋いでいる。駆け寄って私の手を握り、ティール侯爵を睨んだ。
「ぼく、の……おかぁしゃま! めっ、なの」
「ありがとう、レオン。頼もしいわ」
いじめないで。そんな言い方をされたら、嬉しくて泣いてしまいそう。ヘンリック様が腕を緩めたタイミングで、レオンを抱き締めた。抱き上げたいけれど、ドレス姿だと難しいのよ。特に今はショールもなく、肩や胸元が開いている。
うっかり色々見えちゃったら、大事件だった。ぎゅっとして、レオンは私の前に立とうとする。
「まずは……壁際に移動しよう」
周囲の注目が集まり始めたことに、ヘンリック様が提案した。衆目の前でティール侯爵を辱める気はないので、私も同意して歩き出す。腰に腕を回して歩くヘンリック様は、歩幅を小さくしてレオンにも配慮した。
シュミット伯爵家が食事を楽しむ一角で、ティール侯爵は緊張した面持ちで切り出す。
「この度は、次男オイゲンがご迷惑をお掛けし……誠に申し訳ございませんでした」




