235.ありがとうを伝えた
細かな条件を確認する間に、ヘンリック様は署名を済ませた。自分で作ったのだから、彼は問題がないはず。私は細部まで見て、曖昧な表現に迷った。一般的な夫婦……閨ごと……どうしようかしら。
泣きそうな顔で待つヘンリック様を見つめ、これは勝てないと思った。この人を悲しませたくないし、笑っていてほしい。そう感じたんだもの。前の契約書を上書きし、本当の夫婦になる。それに嫌悪感がないのが、私の答えなのね。
愛しているかわからないけれど、大好きよ。レオンと同じくらい、一緒にいて嬉しくなるわ。素直で可愛くて仕事には厳しくて……でも私のことをきちんと考えてくれる人。地位も財産もあって、傲慢になりそうなのに優しい。
この人と夫婦を続けることで、不幸になる心配はなかった。レオンの弟妹の件は……そこだけは困ったわね。
「何か、気に入らないなら……直す」
不安そうに譲歩を切り出され、照れながら伝えた。
「閨ごとだけ、その……待ってくれるかしら」
「あ、ああ。いきなり手を出したりしない。約束する! アマーリアの意見を尊重するから」
「なら、迷うことはないわ」
置いてあるペンを手に取り、ヘンリック様と視線を合わせないまま署名した。だって、目を見たら真っ赤になるわ。今だって暑いのに、もっと熱くなっちゃう。署名欄にアマーリア・フォン・ケンプフェルトと記した。
私の書いた署名を、ヘンリック様の指がなぞる。乾いたばかりのインクを確かめるように、一文字ずつ触れた後、ほわりと笑った。その笑顔が無邪気で、レオンに重なる。胸の奥がじんとして、好きなんだわと自覚した。
私、ヘンリック様が好きなの。たぶん……家族というより異性として。ずっと理解できていなかった。私に愛情を示して両手を広げる夫を、ただ待たせていたの。何を言ったらいい? 謝るのは違うし、告白すればいいのかしら。
「ヘンリック様、私……」
「急がなくていい。俺達はやっと本当の夫婦だ、アマーリア」
これから積み重ねたらいい。時間はいくらでもある。言葉を重ねるヘンリック様に驚いた。こんなに言葉や態度を尽くす人だなんて知らなかったわ。
最初は冷たくて、私を教会に放置して帰ったのに。私も割り切っていて、怒るよりこれからの生活に意識を向けて。懐かしく思い出した中に、可愛いレオンとの出会いも含まれる。あの子がいなかったら、私達はどうなっていたかしら。
使用人達とも、距離が縮まらなかったかもしれない。ヘンリック様が私に興味を示すこともなく、一人で閉じこもる未来もあり得た。
隣で優しい笑みを浮かべる夫に寄りかかり、私は小さな声で想いを返した。
「ヘンリック様、私もあなたが好き。可愛いレオンと会わせてくれて、ありがとう」
言葉の途中で涙が滲んで、隠すように彼の腕に顔を押し付けた。




