234.新しい契約書
ヘンリック様が頼んだようで、迎えにきたお父様や双子とレオンは手を繋いだ。エルヴィンも熱が下がり、だいぶ回復したみたい。元気に離れに向かうレオンを見送った。ぐずらず、素直に出かけていく姿に寂しくなる。
ヘンリック様はずっと私に触れていて、いまは指を絡めて繋いでいた。どこかしら触れていないと不安になるみたいで、幼子と同じねと微笑ましくなる。子供達がいないので、執務室へ向かった。
ヘンリック様は公爵領の領主の仕事もしているため、ここには常に書類があった。普段は入る用事のない部屋だ。壁一面の本棚と、執務机の後ろにある大きな窓が印象的だった。手暗がりにならないのかしら。変な心配が過ぎる。
「契約書だ、覚えているか?」
勧められて長椅子に座った私の隣に腰掛けようとするので、頷きながら横にずれた。向かい合って書類を見た方が楽ではないかと思うが、口に出しづらい。右隣に座ったヘンリック様は、機嫌がよさそうなんだもの。
「覚えていますわ」
結婚式の当日、教会の控え室で署名をした。司祭様の祝福の直前に契約を結ぶなんて、考えてみたら罰当たりね。
最低限の社交を行う代わりに、公爵夫人らしい生活の保証をすること。跡継ぎを作らないから閨はしないこと。離婚や解消は行わないこと。短く纏められた三つの条件、付け加える形で、具体的な生活水準や参加する社交の基準が示されていた。
そんなに昔ではないのに、懐かしく思う。シュミットの家名で署名した、最後の書類だった。結婚式後は、ケンプフェルトの名を使っている。
「朝、早く目が覚めたので作ってみた。どうだろうか」
訂正や追加があれば、遠慮なく言ってくれ。差し出された上質な紙に、新しい条件が並んでいた。
離婚と解消を認めないことが記されている。これは譲れないと昨夜も口にしていたわね。公爵夫人としての待遇を保証し、その上で社交は最低限……この辺は大きな違いがない。いいえ、ちょっと待って。使える金額の桁がおかしいわ。指でゼロの数を確認した。
「金額が多すぎないかしら」
「多い分には困らないだろう」
お金持ちのセリフね。少ないよりいいけれど、高額すぎると申し訳ない気がした。だって元は民の税金だもの。そう伝えたら、公爵夫人の予算を何に使ってもいいと返された。お祭りへの寄付や出資も構わない、と考えていいのね。
領地へ還元するなら、多くても問題ないし。使わなければ残すという手もあるわ。ここはひとまず引いた。続く条件は……世間一般の夫婦と同じように振る舞うこと。曖昧な書き方だった。
「世間一般の夫婦……」
「その……君の思う夫婦像がある、だろう? それに合わせようかと……あの……」
ふふっ、その癖がここでも出るのね。
「仮面夫婦ではなく、仲良く過ごしたい。そう解釈して構わない?」
「ああ、そうだ! できれば、レオンに弟か妹を……だな、絶対じゃないが……」
昨夜のセリフが蘇った。君を愛して愛されたい――やっぱり、閨を含むのね。暑くなって、手でぱたぱたと扇ぐ仕草をした。やだ、いろいろ想像しちゃうじゃない。




