193.母親ってこういうもの
一国の王が崩御して、ここまで何もないのは珍しいでしょうね。三つの公爵家以外には連絡が来ていないため、平穏な日常が続いている。我が家にも、ユリアンのピアノが響いた。元気にシンバルを打ち鳴らすレオンがいて、明らかに練習中のバイオリンが悲鳴のような音を重ねる。
使用人達は何も知らず、ごく普通の日常を送っていた。ヘンリック様をお見送りして、楽器が響く勉強部屋に戻る。ピアノとハープは別室に設置された。音楽用の部屋があるのよ。シンバルとバイオリンが好き勝手に競演する部屋は、洪水のように音が溢れていた。
「レオン、手伝ってほしいの」
「なぁに?!」
シンバルを丁寧に机の上に置いて、レオンは走ってくる。とてとて、そんな擬音が似合う走り方は幼子特有で、不安定さが可愛いのよね。前世にあった音のするサンダルを履かせたくなるわ。
「歩く練習をするから、向こうで呼んでくれる?」
「うん!」
フランクと手を繋いだレオンは、十歩ほど先で止まった。こちらを振り返り、両手を大きく広げる。
「おかぁしゃま、こっち」
「頑張るわね」
気合いを入れて立ち上がる。ぐっと力を込めた腕は、すでに筋肉痛だった。踏みしめる足の裏も、腿や脹脛だって痛い。可愛いレオンが待っているんだもの、早く歩かなくちゃ。自分に言い聞かせ、動かない足をずりりと引きずった。
痛いけれど、これは車椅子で楽をしたせいよ。このまま楽をし続けたら、足が動かなくなるわ。自らに暗示をかけ、恐怖でしかない寝たきりの未来を思い浮かべた。この若さで、そんなのごめんだ。
廊下を二往復半した。といっても、距離は十五歩ほどだ。車椅子とレオンの間を行ったり来たり。すでに汗だくだった。汗を拭うリリーが心配そうに問う。
「本日はもう休憩されてはいかがでしょう」
「あと、一往復はしたいの」
このままでは、王宮でまた車椅子移動になってしまう。レオンを抱っこできなくても、手を繋いで歩きたいわ。理由つきで説明し、理解を得た。頑張りましょうと応援され、レオンの笑顔を見つめて歩く。一往復が長く感じられたけれど、今日はいつもよりたくさん歩いた。
「残りは午後にいたしましょう」
「え? ええ」
午後も歩くの? こんなにきついのに……と疑問系の声を上げたが、すぐに思い直した。フランクの指示は嫌がらせではない。早く歩きたいと伝えたのは私自身よ。
お昼を食べて眠くなったレオンに絵本を読み聞かせた。眠ったのを確認し、廊下を歩くリハビリを始める。ユリアンとユリアーナが両手を掴んで、向かいにいるエルヴィンまで歩くの。何度か往復して、疲れから車椅子でぐったりしていたら……レオンの声が聞こえた。
「おかぁ、しゃまぁ……うわぁああ」
大泣きする声に、体が動く。よろよろしながらも、扉までたどり着いた。必死で開けた先、レオンが鼻水を垂らして泣いている。
「どうしたの、レオン。おいでなさい」
両手を広げた私は、床へへたり込んだ。崩れ落ちるように座った膝に、レオンが飛びつく。涙や鼻水をまとめて擦り付けながら、しゃくりあげる背中を撫でた。
「奥様……その」
遠慮がちなリリーの声に振り返り、思わぬ距離を歩いた事実に目を見開く。人ってやればできるのね。




