十八歳のアニバーサリー(2) 十七歳最後の夜
十八歳の誕生日の前日の夜。
お風呂から上がって、部屋の中でメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」を聴きながら、バスタオルで髪の雫を念入りに拭いていた。
演奏者は、映画「ラヴェンダーの咲く庭で」のソロヴァイオリンを担当したことなどでも知られる世界的な名ヴァイオリニストの「ジョシア・ベル」。私の好きなヴァイオリニストの一人。
そして、この曲もお気に入りの曲の中の一曲。部屋中に、そのすすり泣くように甘く切ない叙情的な旋律が鳴り響いている。
その時、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」
と、答えると、お兄ちゃんがドアを全開にして、そのドアに背もたれたまま立って私を見つめた。
「何? お兄ちゃん。何か用事?」
お兄ちゃんはドアを閉めると、部屋の中に入ってきてベッドに腰掛けた。
「お前。まだ母さんに、彼氏のこと言ってないだろ?」
「え?」
「母さん、心配してるぞ。お前、最近ずっと帰りも遅いだろ」
「だって……」
私は、言い淀んだ。
ママ……あの冬、守屋君への片恋に苦しんでいた頃、私の恋を応援してくれた。本当なら、守屋君のことを堂々と紹介するべきなんだけど、ママは私に関しては人一倍、心配性。そのママに、あの夏休みの出来事を話していいものかどうか。実はずっと悩んでいた。
「もう明日で十八歳になるっていうのに、ママ、私のこと、てんで子供扱いなんだから……」
「実際、お前ガキだろ。その幼児体型」
「どこ見てんのよ! お兄ちゃんっ!」
思わず胸元をバスタオルで隠した。
「とにかく。一度、彼氏つれてこいよ。そうすりゃ母さんも、少しは安心するだろ」
「うん……」
「あ、俺もいる時にな」
「どうして?」
「お前、俺の紹介した男は結局、首を縦に振らなかっただろ。そのお前が選んだ奴、てのを一目見てみたい」
そう言って、立ち上がるとお兄ちゃんは微妙に目を細めた。
「本当はぶっとばしてやりたいよ。俺の可愛い妹に手を出すな……てね」
「お兄ちゃん……」
「じゃ、ま。そういうことで」
「うん、ありがと」
お兄ちゃんは部屋を出て行きかけて、ふとドアの所で振り返った。
「前言取り消し。お前、色っぽくなったよ。ちょっとばかりはな」
バタンとドアが閉まった。
お兄ちゃん……。
私は、壁に飾っている写真の一枚を見た。
済陵の入学式の日、制服姿でお兄ちゃんと二人、映っている写真──────
家の庭のチューリップの花壇の前で、二人で笑っている。
昔からお兄ちゃんが好きだった。
パパ以外のどの男の人より、私に優しかった。
でも……私、いつの間にか、他の誰より守屋君を好きになった。
お兄ちゃん。
私、「ブラコン」卒業したみたいよ……。
その時、机の上の携帯が鳴った。着信画面を見ると、守屋君。
「守屋君? 何か用事?」
『うん…。いや……』
「うん?」
彼が口ごもる。
『明日、お前の誕生日だろ』
「それでわざわざ電話かけてくれたの?」
『十七歳のお前と話せる最後の夜、だからな』
携帯から流れてきた彼の言葉はとても優しくて、そしてとてもロマンチックに響いた。
お兄ちゃんと。
そして、守屋君──────
私にとって大切な二人の男性。
その二人とそんな風に接した十七歳最後の夜だった。
***
十一月最終週の日曜日。
午前9時45分に、私は久麿駅・北改札口に着いた。
「守屋君!」
私は彼の姿を見つけて、駆け寄った。
「早かったのね」
「お前の誕生日の待ち合わせに、俺が遅れるわけいかないだろ」
何気なく呟いた彼の言葉に、何となく感激している自分を感じている。
「10時15分の電車があるから、それに乗るぞ。その前にコンビニで昼飯と飲み物買おう」
「うん」
電車はローカル線だった。
各駅停車にガタゴト揺られながら、守屋君はずっとウォークマンを聴いている。私は、二年前の夏に読んで以来、愛読しているモーパッサンの文庫本「女の一生」を片手に時折、車窓に目を遣っている。
その車中、私達はほとんど無言だった。
しかし、途中で一度乗り換え、再びページを捲っていた時、ふと彼の視線を感じて頁から目を上げた。
「何……? 守屋君?」
「いや。さっきから思ってたんだけど……」
「何を?」
「神崎が本を読んでる姿」
「それがどうかしたの?」
「なんか、すげえいいなって。思ってさ」
彼が柔らかく笑いながら、そう言った。
「やっぱ、いーよな。本読んでるのがサマになってる女の子って。知性ていうの? 感じるよ。品性高いよな。それって大事だよ人間。とにかく神崎、目を奪われるよ」
「そ、そうなの?」
私はただビックリした。そんなことは言われたことも、考えたこともなかったから。
それにしても守屋君。
最近随分、饒舌に話すようになった。昔の翳りが薄らいできている気がする。
それって。
私とのおつきあいと何か関係している?
そしてこれが、本当の守屋君なの……?
そんなことを思ったけれど、もう守屋君はいつもの守屋君に戻っていた。
窓枠に片手で頬杖をついてウオークマンを聴きながら、どこか遠くを見るように。
こうやって、いつも不意にペースを乱される。
けれど……。悪い気はしない。
本当に彼は女の子をあしらう術に長けている。
そして。
彼が、痛ましい過去の想い出から少しずつでも立ち直ってきてくれているのならば……。
その時。
車窓から目の前一杯に海が広がった──────




