下限の月(2)カフェオレ・ボウル
その時、ハッとしたように彼の顔色が変わった。
「ごめん……。悪かった」
私を固く抱き締め離さなかった腕の力がようやく弱まり、
「とうとう、泣かせちまったな……。俺」
頭上で掠れた声がした。
背けた目から止め処なく溢れる涙で、守屋君の姿がぼやける。
「でも……。俺は、おまえを……」
しかし彼の手が再び、私に触れた時。
「神崎……!!」
私は反射的に身を起こすと素早く傍らのトートバッグを手に取って、彼の部屋から飛び出していた。
***
ウォーン……ウォーン……
どこかで遠く犬が鳴いている。
私は、陽も落ちかけている黄昏時、知らない住宅街を歩いていた。
気がついた時には、守屋君の家から、遠く、遠く離れていた。
とぼとぼとひとり、重い足取りでただ歩く。
辺りには香ばしい夕餉の匂いが漂っている。
どこからかモーッアルトのソナチネのまだ拙い小さなピアノの音色が響いてくる。
雨……?
ふと、頭上を仰ぎ見ると、一転して空が暗い。
ポツ、ポツリ……
真夏特有の夕立ち。
たちまち大きな雨粒が落ちてくる。
大きな家ばかりが並ぶ御屋敷町を通り抜け、行き交う人で賑わう大通りに出た。
擦れ違う人が時折、物珍しげに私を振り返り、通り過ぎてゆく。
いいんだ、濡れたって。
心で呟きながら、私は肩を落として歩く。
いいんだ。濡れたって……。
涙、隠してくれる──────
***
「純。もう、話してくれるでしょう?」
お杏が二杯目の白磁のカフェオレ・ボウルを、目の前のテーブルの上に置いた。
私は紺碧色のローソファに寄りかかり、ふかふかの北欧柄クッションを抱えたまま呆けたようにずっと黙りこくっている。
あれから──────
私は、お杏のマンションを訪れていた。
ずぶ濡れの私をお杏は酷く驚いて迎え入れ、とにかくシャワーを浴びるよう広いバスルームへと私を閉じ込めた。
私が42度の熱いシャワーを浴びている間に、お杏はワッフル地の白いヘチマ襟バスローブと温かいミルクたっぷりの珈琲を用意してくれていた。
そして、二杯目のカフェオレを頂いている今。
BGMのドビュッシーのピアノ作品集は組曲「子供の領分」の中でも私の大好きな最後の曲「ゴリゴーグのケークウォーク」にさしかかり、部屋にはその愉快で軽快な旋律が響いている。
「家に電話……しなきゃ。ママ心配してる」
やっと能動的に、傍のバッグから携帯を取り出しながら呟いた私を、お杏はただ見つめる。
しかし、私はふとその手を止めて言った。
「お杏。今日、おじ様は……?」
「今夜も仕事よ」
「お杏……今夜、泊めてくれない? 帰りたくないの」
「いいけど。家の方、大丈夫なの? 純のママ、心配性でしょ」
「お杏の家だから大丈夫。うちのママ、お杏のこと、大のお気に入りだもの」
そうして、私はお杏の家に泊まることにした。
「純。本当に一体、何があったの……?」
お杏の切れ長の漆黒の瞳。
その美しい目の色には、険しさといつものいたわりが見え隠れする。
私はひとつ、深い息を吸った。
そして大きな溜息を吐き出すと、事の顛末を一切話し始めた。
「──────たまらなかったのよ。私……。あの時の守屋君の表情。私……私は。私だって、他の女の子と一緒よ。ちょっと優しくされれば、すぐひっかかって……。私は……。彼から特別に想われるような女の子じゃないわ」
私は……。
あの時の守屋君の表情が、身を切られるように、痛かった。
私だって本当は知ってる。
自分の欲望。
あの高校二年の秋の放課後……。
あの夕暮れの教室で彼の胸の中で、それ以上のことを望んでいたのは、私。
私だって、守屋君が今まで接してきた他の女の子達と変わらない。
なのに──────
「じゃあ、どうして。逃げたの? 守屋君から」
「いたたまれなかったのよ。彼の目の触れない所へ、どこかへ。消えてしまいたかった。恥ずかしかった……自分が。─────それに。本当のところ……あの時の守屋君。怖かった……」
カフェ・オレを一口飲んで、呟いた。
「フェアじゃないわ。私、彼の考えているような女の子じゃないのに……」
「純。やっぱり、あんたって」
その時。
初めてお杏が柔らかな笑みを湛えて、私を見つめた。
その瞳の色の意味がわからず、首を傾げる。
「守屋君の目に狂いはないわよ」
「どういう意味、お杏?」
「純、やっぱり可愛いわ」
「お杏……?!」
驚き顔の私をよそに、お杏は続けた。
「純って、本当に名前の通りよ。純粋で、無垢で。純、大事に大事に育てられた、てのがわかるのよねえ。言わなくても、いいとこのお嬢さんてのがわかるんだ。素直なのよね」
お杏が何を言いたいのかわからずにただ目を見張る私に、お杏は更に言葉を続ける。




