永遠に
暢気な住民たちが起きてきてそれぞれの仕事を始める頃、ニスは小さな手を握ってナシスの家へと向かっていた。
歩くのに時間のかかる彼女の手を引いてゆっくりと進むのは案外幸せな心地がする。
満たされているのとは違うが、ふつふつと腹の底から湧いてくる面映ゆい感情に正直慣れずに眉を寄せて嘆息を繰り返す。
「どうかしましたか?」
「別に……」
不安そうな声にちゃんと説明をせねば伝わらないことは重々承知していたが、それこそ多くを語る口を持たない自身を呪う。
繋いだ手に力が込められて、ナシスが立ち止まり強く引っ張られた。
「あの女の所へ行きたいですか?」
自分よりも大人の女性であるナタリーの方がいいと思っているのではないかと怯えつつも、ニスの気持ちを確かめようとするその勇敢さには恐れ入る。
ため息を吐き続けるニスが不満を抱いていると勘違いしているのだ。
「そうではない……手を繋いでゆっくりと歩くことも悪くはないと思っている自分に呆れているだけだ」
喜ぶだろうと思って口にした言葉に何故か浮かない顔をして「そうですか」と呟いた。
「私も独り暮らしなら、もっと積極的にニスさんに触れてもらえたのに……残念です」
「そんなことを簡単に口にしてはいけない。特に異性には」
独り暮らしでなかろうとも人気のない場所や納屋などの隠れた所で逢瀬を重ねている者も多くいるのだ。
軽はずみにそんなことを言おうものならどこぞやに連れ込まれて襲われてしまう。
「前にも言いましたが、こういうことはニスさんにだから言うんです。他の人にはいいません」
潔癖さを宿した瞳と生真面目さが表れている唇と頬が好もしい。
きっと今まで異性と交遊してこなかったのはいずれ訪れるだろう青竜のためにその純血を守り通してきたのだろう。
だからこその強気。
知らずに訪れたニスはその幸運に恵まれたが、果たして彼女の想いが単なる憧れではないと誰が証明できるのか。
ナシス自身が恋愛の意味での好きであると言っているだけで、実際に竜の国に行った時に二度と戻れぬことを後悔せぬとは約束はできない。
勿論寂しくないように愛情を注ぎ、なに者からも護ると誓うがナシスが里心を抱いて恋しく思う気持ちばかりはどうしようもないのだ。
ニスの手が出せる場所では無いのだから。
「こんなはずじゃなかった」と泣き叫ばれるのが一番辛い。
だからこそ竜は最後まで疑心暗鬼に囚われるのだろう。
一生ひとりの女しか愛せないのに、その愛情が色褪せ愛想を尽かされはしないかと伴侶の顔色を窺いながら生きていく。
深く愛し、身体を重ね、家族と思い出を作り、時を経て行く中で変容していく気持ちが恐ろしい。
竜は変わらない。
だが人はたったひとりの男では満足できず、不満を抱き気持ちが離れていく。
それは種の違いであり、どうしようもできぬ事柄のひとつだがそれ故に悲しく残酷だ。
純粋に子孫を残すことだけのために人族の女を求めるならばそれほど障害にはならなかった。
繁殖のための道具だと思えば愛する必要も無い。
傷つくことも、孤独に怯えることも。
だが違う
それだけでは無い。
たったひとりの愛すべき伴侶だからこそ、形としてふたりの愛を具現化した子を欲しいと思うのだ。
子が先ではない。
運命の女性を得られるかが重要なのだ。
例え生殖能力があろうと、なかろうとも一生を共に歩んで行きたいと望む相手であれば竜族にとっての愛は等しく注がれる。
「ああ……ナシス、」
指に絡む小さく細い指が縋る様に強く握られた。
だが解ってしまった。
気付いてしまった。
この虚ろが埋まらない理由を。
永遠に止まない雨の意味を。
「竜族はひとりしか愛することはできない」
「……知っています」
歪めた顔を隠すように伏せたナシスは震える声で応える。
青竜に憧れ待ち続けた彼女には今更教えるようなことでは無いことは理解していた。
それでも伝えなくてはならない。
「だからこそ簡単に人を愛さないし、恋愛感情を抱いたとしてもそれはとても希薄なのだ」
そう。
だからニスは気付けなかった。
「共に竜の国へと来てくれると約束と誓いを得られた時初めて竜族はその女性を深く愛するようになると言われている」
「しました。私はニスさんとならどこにだって行けるし覚悟はできてます」
「だが私とナシスは恋人関係でも無ければ、まだ求婚もしていない」
「でも、」
「俺はきっと竜族史上一番愚かな青竜だろう」
求婚も約束も誓いも無しに愛してしまったのだから――――。
特別な感情を出会った時すでに抱いてしまっていたのなら竜族としては取り返しのつかない過ちであり、自分にとっての損失は計り知れないものだ。
「許して欲しい」
「ニスさん、いや」
膝を着き謝罪するニスが見上げる先でナシスは大粒の涙を流す。
純粋で真っ直ぐな娘を可愛いと思う。
大切にして、滅茶苦茶にしてやりたいと。
「これで青竜への過度な憧れも消えるだろう。だがもし俺の他にこの地を訪れた青竜がいたなら」
歓迎してやって欲しい。
好きになって欲しいとまでは言わない。
だが嫌わずにいて欲しい。
「俺の勝手な我儘だが」
「――――っく、どうせ、私みたいな子供相手にされないって思ってた」
「そんなことはない。出会う順番が違えばきっと結果は違っていただろう」
ニスにとってナシスの愛らしさも若さも拙さも全てが眩しくて、初々しく恥じ入る姿を見るのもたわいのないお喋りも全て楽しかった。
十分魅力的であり、心惹かれる相手だったのだ。
「うっ、ああもう。そんな慰め言わないで……最後は優しくしないで、冷たく突き放してくれないと」
諦められないじゃないと顔を覆ったナシスの髪を布越しに撫でる。
「恋に破れるのはお前だけじゃない。私もきっと玉砕して一生を独りで過ごさねばならなくなるだろう」
それがニスの罪だ。
ナシスに誤解と期待をさせ、ナタリーの色香に惑わされ溺れた。
そして二人の女を両天秤にかけようとした罪深い思い。
「ニスさんがふられたら私があの女の代わりに傍にいてあげるのはダメなの?」
身代わりでも構わないとまで言ってくれるナシスは心底優しいのだろう。
もしくはそんな自分に酔っている。
「だめだ……。竜はひとりの女しか愛せないのだから、代わりは誰にもできない」
「そんな――――!」
憧れていた青竜に失恋してもナシスには次の恋ができる。
だがニスにその機会は与えられることはなく、永遠に埋められぬ虚ろを抱えて生きねばならないのだ。
竜族に特有の長い寿命を。
「甘んじて受けよう。ナシスを傷つけた罰だ」
そして愚かにも愛と肉欲に溺れた己への罰。
ニスには相応しい。
「ずっと雨が降っているのだ、頭の中で」
雨はナタリーの象徴としてニスの中で刻まれている。
激しく降り過ぎて洪水になり、全てを押し流して行ってしまうほどに。
それほどまでに彼女を求めている。
「――――行って、速く、私の目に入らない場所へ。速く!」
振り解かれた指先が痛くてじんっと痺れた。
背けられた顔の向こうでナシスがどんな顔をしているのか確かめて、慰めてやりたい気持ちが湧きあがってくるが請われた通り冷たい態度で接せねばならない。
「……出会えてよかった」
それだけは伝えておきたかった。
びくりと反応する背中が悲しみに震えている。
「二度と会うことはないだろう」
幸せになれとはニスが言っていい言葉では無い。
心の中で秘かに願っていればいいこと。
立ち上がりニスは来た道を引き返す。
ナシスから離れ気配も消えた頃、足が自然と急ぎ始める。
止まない雨がニスを急き立て、心の洞に愛という名の水を注ぎ込んで来た。
酷く一方的で成就しない想いは募らせ、溢れさせたところでニスを満たしはしないのに。
たった二度しか訪れていないはずのその家を迷うことなく見つけ出せるのは最早醜い執着心でしかない。
それでも愛する者の元へと来られたことを喜ぶ。
合図もせずに戸を引き開けて一歩入ると、寝室の方から押し殺した嬌声と息遣いが聞こえてきた。
戸締りもせずに情事に耽るとは成程近所でふしだらな女といわれるだけはあるだろう。
しかも夜遅くまでニスの相手をしていたはずなのに、朝早くから別の男と性交するとは呆れを通り越して尊敬に値する。
それだけ必死なのだ。
彼女は日々の糧をこうして得ているのだから。
「ナタリー」
女に跨り腰を振っていた男が突然の闖入者に驚き固まった。
喘いでいたはずのナタリーは困ったように微笑んで「人に見られて興奮するとは言ったけれど、これはいくらなんでも度を越してる」と上半身を起こす。
「普通なら男女が抱き合っているのを見たら、そっと離れて見なかったふりをするものなんだけど……竜族にはきっと通じないのね」
「ナタリーこれでは話が違うだろ」
「仕方ないでしょ?相手は竜族様よ、人の常識など通じないんだから」
男が狼狽えて繋がったままの部分とその先にいる女の顔を交互に見る。
このまま続けるべきか、それとも中断して出て行くのか迷っているようだ。
そんな男に侮蔑を含めた一瞥をくれてから寝室に踏み込み女の名を呼ぶ。
「話がある」
「この状況で話?あなたの感覚には驚かされることが多いけれど、今回が一番衝撃的だわ」
呆れた顔で笑うのでそう驚いているようには見えないが、ナタリーは自分で腰を動かして男から離れて「また今度埋め合わせするから」と囁く。
「今度があるならな。さあ、さっさと出て行け。ついでにお前が持ってきた献上品も必要ないから持って帰ってくれ」
「なっ、なんだ!?なんでお前にそんなことを言われなきゃならん!」
憤慨した男は自分が全裸であることを忘れているのか、寝台の上で立ち上がりでっぷりとした腹を晒す。
昨日見た男は精悍な若者だったが、今日の相手は中年の小太りの男だ。
本当にどんな男でも寝るのだと知り激しい嫉妬が駆け巡る。
「ニス、ちょっと止めて。問題を起こさないで」
後で自分が困るからだろうか。
そんなことを心配しているナタリーを、右腕を伸ばして抱き寄せると見せつけるようにして口づけする。
「おま、お前な!」
美味しい所を持って行かれた上に、目の前で官能的な口づけを交わされては男が激昂するのも解る。
だが今は邪魔をしないで欲しかった。
なんの手土産も持たずに雨に打たれていたニスを家の中に引き入れて見返りも無く床を共にしてくれたナタリーの優しさに付け込んで拒まれぬことをいいことに豊かな乳房を揉む。
甘やかな吐息と鼻から抜ける高い声がニスの鼓膜を打ち、雨音がほんの少しだけ和らいだ。
「く、見てられるか!!」
怒鳴り声を上げた男は寝台から飛び降り、着ていた服を手早く身に着けると足音高く出て行った。
ちゃんと持ちこんだ品は持って帰っただろうかと危惧していると、ナタリーが唇を離して軽く睨んでくる。
「明日から食べるものに困ったらどうするのよ」
「心配ない。俺と共に竜の国へと来ればいい」
「は?どうしてそうなるのよ!?」
初めて女が動揺して声を荒げた。
いつもいいように乱されていたニスがそのことに微かな優越感を得られたことは女には伝わっていないようだ。
そのことに安堵して美しい裸身を隠そうともしない女を寝台に座らせてニスは恭しく頭を垂れる。
「ずっと俺の頭の中で雨が止まないのだ」
「知らない、そんなこと」
あなたの頭の中のことまで責任取れないと唇を子供のように尖らせた。
「雨が止まないからずっとお前を思う。忘れられずに」
その言葉にハッとした顔になりナタリーは漸くニスの視線を正面から捉えると、怯えたように膝を抱えて身を縮こまらせる。
「お前が子を産めない身体であることも知っている。それでも構わないといったなら俺の愛を受け入れてくれるか?」
きゅっと口を引き結び、ナタリーは答えないが聞く耳が無いわけではないらしい。
ちゃんと耳を傾けて、真剣に聞いてくれている。
「竜族は生涯ひとりしか愛することができない。それなのに、俺はなんの約束も無い相手を愛してしまっている」
「ナシスにしなさい、あの子はいい子よ。きっとあなたを幸せにしてくれる」
「できない。俺が愛しているのはナシスでは無く、ナタリーだからだ」
今更愛する人を変えることはできないのだ。
ナタリーが零した「溺れればいい」という呪いは、愛して欲しいという気持ちの裏返しだ。
肌を合わせている間だけは自分だけを愛して欲しいと。
孤独だったのはニスだけでなく、ナタリーもだった。
だからこそ互いに強く惹かれたのだろう。
「恙なく生活を送るために男から貢いでもらっていたのなら、相手が俺独りになったとしても問題はないはずだ」
竜の国はこの町に負けず劣らず豊かだ。
飢えなど無い。
生活に困ることも無い。
「今のようなことをしていればいずれ身体を壊す」
眠る時間も無く男を抱いていれば遅かれ早かれその日は来る。
その時に寄り添ってくれる男はいない。
抱けない女など見向きもされなくなる。
「……繁殖のための伴侶探しでしょ。それをわざわざ子を産めない女を選ばなくてもいいのに」
それとも。
「優しい青竜さんは愚かで哀れな女に同情して、関係を持ってしまった女を捨てられずに尽くすの?言っておくけどそれは愛じゃないわ」
「俺は同情なんかするほど心根は優しくない。見苦しく嫉妬して、独占したいと思う愛に飢えた獣だ」
「ふふ、いい男に求婚される日が来るなんて考えてもみなかったけど……とても気分のいいものなのね。しかも若くて可愛いナシスよりも子を産めない私を選ぶなんて」
すごい優越感だわと笑ってナタリーは何故か泣いた。
「真に愛する人と共に生きたい。俺にとってお前が喜びの雨であり、乾いた心と身体に愛を注いでくれた至上の女だ」
「成程、最高に気分がいいわ。青竜を跪かせて愛の告白を聞くだなんて」
冗談めいた口調でナタリーがそっと寝台の縁から顔を寄せてくる。
誘われるままに唇を重ねると愛しさが更に込み上げてきた。
「お前を護る。孤独から」
そして愛を欲しがるだけ与えよう。
「お前だけを愛している」
「きっと後悔するわ」
「しない」
短く断言して立ち上がりながらニスは女を押し倒す。
額に、鼻に、唇に、顎に、耳朶に、首筋に、胸に、脇腹に――そして子を宿す柔らかな腹にそっと口づけて。
竜族には愛する者に祝福と呼ばれる奇跡の力を一度だけ与えることができる。
万能ではないが、大概のことは叶えられると聞いていた。
それを受け入れてくれるかどうかは女次第だが、今は無理でもいつかナタリーに諦めている子供という宝を与えてやれればと思う。
ニスの勝手な願いなので彼女の意思は解らない。
勿論このまま二人で生きていければ他になにもいらないが、ナタリーが喜ぶことならばなんでもしてあげたかった。
「床の上ではいつも悦ばされるばかりだからな……」
「う、ん?なに?」
「幸せにする」
そして大切にすると誓う。
ナタリーは泣きながら「ばか」と返事をする。
「雨はあなたよ、ニス」
肩から流れ落ちる長いニスの水色の髪を肌に受けてナタリーが目を細めた。
手を伸ばして指を絡め「優しく私に降ってくる、恵みの雨」飽きずに見ていられると囁かれれば理性など無くなってしまう。
今日はナタリーの寝顔を見られるだろうか。
それが見られたならきっとこの恋は成就したということだろう。
「頑張らねば」
「あはは、頑張って」
明るい励ましの言葉には余裕がある。
それでも何度果てても、もう枯れることはないと思えばこそ愛は次から次へと湧いてくるのだ。
愛の水脈に降り注ぐのは喜びの雨。
永遠に降り続きニスを溺れさせる。
それでいい。
互いの肌が心地よくてそれだけで熱くなる。
貪るように与えて、奪うように愛して。
雨は止まない。
永遠に。
青竜ニスの物語が終わりました。
続いては緑竜のカルセオ。
彼の朗らかさが次の物語を明るくしてくれると信じております。




