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竜の花嫁たち  作者: 151A
喜びの雨
36/48

溺れる


 ザアザアと音を立てて雨が降る。


 鈍色の曇天から勢いよく落ちてくる雨粒は密集した人家の軒下から軒下への僅かな移動ですら髪や服を濡らしていく。


 ここ数日晴れており、日の出ている間はナシスと共に過ごすことが多かった。

 彼女は晴天の似合う娘で、物事をはっきりと口にしつつも男女の触れ合いに関しては相変わらず疎い。

 共にいると雨上がりの空のように清々しく、心が洗われるような気がするのだが、無自覚に誘っているかのような言動をするのでニスの悪戯心に火を着けることも多々あった。


 そういうやり取りが意外にも楽しくてこの町で身体を重ねた印象的な女のことをすっかりと忘れていたのだが、今朝方から降り始めた雨と音を聞いた途端にいいように遊ばれてしまった女を思い出した。


 雨が女の記憶を呼び覚ます。


 きっと雨さえ降らなければあの女のことなど思い出さなかっただろうし、女々しく初めて会った軒下を目指して出歩くことも無かっただろう


 愚かなことをしている――――。


 水煙を上げながら降り続ける雨に誘われるようにニスはただ女の家へと向かっていた。

 女の顔さえはっきりと思い出せないのに、身体だけは彼女を覚えているのかしきりと疼きを訴える。


 速く交わりたいと、啼き喚いて喧しい。

 ナシスとでは経験できない一時を求めてうろつく己を嫌悪し、責めながらも足は止まるどころか更に加速する。


 最低だ。


 雨を呪い、己を憎み、快楽を求める。

 雄としての本能と生理的な欲求は理性を簡単に打破して、純粋で真っ直ぐな欲望のみが突っ走っていた。


 我慢が利かないなど欲求不満の盛りのついた獣と同じ。


「所詮、獣」


 竜は人の形をしているが獣であるのだと言訳せねば今の自分の欲求おもいを正当化できないのだ。


 恥ずかしながら。

 それでもいいと逸る気持ちがニスをそこへと誘った。


 雨が作った薄布の向こうに記憶通りの家が浮かび喜色をのぼらせたが、その戸口で抱き合う人影を視線に入れて凍りつく。

 白い右腕が男の髪を弄り、もう片方の手が精悍な男の頬から顎にかけられている。

 深く激しく口づけを交わす男女は着衣が乱れ情交の後を色濃く残していた。

 匂い立つような女の色香と未だ冷めやらぬ熱情が溢れた男の目は雨の中で誰かが見ているかもしれないという遠慮はなにひとつ感じられない。


 見られても問題の無い間柄なのか。

 恋人同士、もしくは夫――否、夫なら情事の後で戸口から出て行くことはないはず。


 では恋人か。


 ならば何故あの日ニスと床を共にした?


 遊びだと互いに理解していても、実際に恋人と激しく口づけている現場を見れば心が騒ぐ。

 勝手に女を責めて、怒りに頭が真っ白になる。


 女が口づけを止めて正面から男を覗き込み「じゃ、またね」と誘いの文句と共に別れの言葉を囁いたのでさえ少し離れたニスにも聞こえた。


 多分聞こえたのではなく、唇がそう動いたから聞こえた気がしたのだろう。


 男は名残惜しそうに身を離し小さく頷いてなにごとか言っているようだが、こちらからは顔が見えないからどんな睦言を口にしているのかも解らない。


 どうでもいい。


 見ず知らずの男が愛しい女に囁く寒い言葉など聞きたくも無かった。

 ただ女の顔には明るい笑顔があり、少し気だるげに戸に凭れかかっている。

 そんな様すら息を飲むほど美しくそして魅力的だった。


「……惑わされている」


 女の色香に。

 ニスもあの男も。


 男が息を飲む音が聞こえ再び女をその腕に抱こうと伸ばされるが、女はさりげない仕草でその軌道の先から身体をほんの少しだけ移動させて拒む。


 あからさまでは無いが、はっきりとした拒絶に男は落胆して肩を落とす。

 伸ばした手を軽く上げてそれを別れの挨拶とすると、雨の中へと駆けだしてそのまま消えて行った。


 無念だろうが既にあの女を抱いたのだからまだいいだろう。

 柔らかな肉の弾力と温もりに加えて、女の巧みな技術で何度も絶頂を味わったことのあるニスからしてみれば羨ましいばかりだ。


 触れたい。


 抱かれたい。


 “抱きたい”では無く“抱かれたい”と思ったことは初めてだった。

 「溺れればいい」と呪詛めいた女の言葉が耳に蘇り、ニスはぶるりと震える。


「そんなところでなにしてるの?青竜さん」


 笑い含みの明るい声がこちらに向けられはっと面を上げた。少女めいた紫の瞳が眇められて途端に手練れた女の顔を覗かせる。


「………………見ていた」

「なあに?また飽きもせず雨を見ていたの?」


 物好きねと続けられた女の言葉をニスは首を振って否定した。

 雨に濡れた髪から水滴が散る。


「口づけていたのを、見ていた」

「あら、そっち?見ていたのならそれとなく教えてくれないと。誰かに見られてるって思ったら激しく燃えるし、感じちゃうんだから」


 女が横髪を耳にかける仕草でスカーフを着けていないことに気付いた。

 波打った髪が顕になり、無造作に肩や胸元へと流れている。

 白い首筋や浮き上がった鎖骨、美しい曲線を描く肩や盛り上がった胸、くびれた腰から下はスカートに阻まれて見ることはできないが、一度見たことのある見事な脚線美は忘れようも無い。


「どっちにしろ物好きね」


 時を忘れて雨を眺め続けることも、他人の口づけを盗み見することも。

 離れていては雨音に邪魔されて声を張り上げなければならず、そうなると必然と近所に住む者たちに会話を聞かれることになる。


 ニスは普通の声で話をするために軒から軒を移動して近づく。


「物好きはどっちだ」


 見られていて興奮するとのたまう女の方が変わっているのだ。

 いや、正直というか。


「それは否定しないわ。この町ではふしだらな女で通っているから別に今更って感じだけど」

「…………さっきの男は恋人じゃないのか?」


 ふしだらな女で通っているというからにはそれなりの理由があるだろう。

 とっかえひっかえ男を変えたり、同時に何人もの男とつきあったりと不実なことを繰り返しているのかもしれない。


「生活を恙なく送るために貢がせて、その見返りに誰とでも寝るような女よ?恋人なんているわけない」


 貢がせ見返りに誰とでも寝る女と自らが証言するが、そこに自身に対する蔑みも悲しみも無かった。


 不幸の影も。


 恋人ではないと聞いて安堵している自分がいることに焦りながら、必死でナシスの顔を思い出そうとする。


 薄茶色の真っ直ぐな髪、それを覆う綺麗な色をしたスカーフは解けないようにといつも結び目がしっかりと結ばれていた。


 水色の瞳は真っ直ぐで純粋だ。

 丸顔のナシスは十八だというが少し幼く見え、はにかんで笑うと更に子供っぽく見える。

 瑞々しい肌や雰囲気、成熟しきっていない上に男を知らない身体は時折酷く無防備で欲望に負けて押し倒したい時もあった。


 ゆっくり教えて欲しいと懇願されたことだけでなく、手荒なことや同意のない不埒なことはしたくないと思えるくらいにはナシスに惹かれているのは確かだ。


 それなのに努力しなければ娘を思えないのだから勝敗はついている。


 ニスは目の前の名前も知らぬ女に強く、激しく執着していた。


 それは感情というよりも身体の要求に近く、そこに好意のようなものがあるのか甚だ疑問だ。

 だがナシスでは与えられぬものを彼女が与えているのは紛れも無い事実。


「悪い男ね。噂とは違うわ」


 呆れたような口調とは裏腹に、女は艶やかに微笑んでいる。

 綺麗で真っ直ぐな指が雨に濡れて頬に張り付いたニスの髪を丁寧に払う。

 その熱い指先が既に疼いている身体に劣情を刻みつけて行く。


「あなたも、悪い女だ」

「それは自覚があるからまだいいけど、あなたは違うでしょ?」

「――――俺も、多少の自覚はある」


 ナシスの悲しげな顔が脳裏に浮かんだ気がして胸がチクリと痛んだが、それよりも速く、強く女の指が心と身体を支配する。


「どうだか。一度寝た女だから次も簡単に抱かせると思ったら大間違いよ、青竜さん」


 耳朶の下から顎の先まで女の指が滑って行き、ニスの下腹部がびくりと反応した。

 そんなことは女には周知の事実なのかくすりと笑う。


「河原で可愛い若い娘と口づけてたって聞いたわよ。人目をはばからずに」

「…………見ていたのか」

「まさか。見ていたひとがいたのよ。御親切に教えにきてくれたわ、魚を持って」


 含みを持たせた“魚を持って”にカッと身体が熱くなる。

 冷静さが特徴の青竜だが、この女の前に出ると心を乱されてばかりだ。


「その男とも、寝たのか?」

「だとしたらどうなの?あなたは私の恋人ではないのよ?責められる謂れは無いし、お伺いを立てる必要も無いわ。妬くのは勝手だけれど、それを押し付けるのは反則」

「妬いてなど――――」


 否定しようとして、自身の中に渦巻くどす黒い感情が嫉妬であるのは間違いない。

 途中で止めたニスを女はふわりと微笑んで見上げてくる。


「ナシスはずっと青竜が町に来るのを待ってたから、絶対にあなたを口説くだろうと思ってたけど……誘惑するにはまだまだ経験も技術もないか」


 年上の女の余裕すら見せてナシスの若さを揶揄した。


「溜まっているのなら力にはなるけど、それがあの娘をどれだけ傷つけるか覚悟の上かしら?」


 そっと胸元に女の掌が乗せられる。

 どくりと跳ね上がった鼓動は心臓だけでなく下半身に集まっている熱にも影響を与えた。


 我慢などできそうにない。


 覚悟があるかと聞かれても女の魔性の魅力の前ではまともな判断などできる訳も無いのに。


 酷い女だ。

 誘いながら覚悟を促す。

 溺れてしまえと言いながら最後の最期でニスの心と理性を試す。


「雨さえ降らなければ、」


 ここになど来なかった。


 女を忘れたままでいられた。


 言外に籠められた言葉を女は理解しているようで、爪先立ちながらニスの首に腕を撒きつけてくる。


「私も、雨を見てあなたを思い出したわ」


 その言葉すらよくできた誘い文句だった。

 導かれるように女の唇に口づけを落とす。

 直ぐに深くなっていく口づけは、ナシスの時とは違いニスに満足と緩やかな背徳感を呼び起こした。


 それすらも心地よくて。


「私雨に濡れているいい男は、大好物なの」

「……俺は淫らな女が好きなのかもしれん」


 耳元で女は笑い「男はみんなそうよ、青竜さん」と囁いた。

 ニスはそっと唇の上を舌先でなぞりながら「ニスだ」と名を告げる。身体を知っていながら互いの名を知らないのは妙に落ち着かない。


 女は甘い吐息を洩らした後で「ナタリー」と上擦った声で応えた。

 名を知って初めて女の顔が鮮やかに脳裏に刻まれた気がする。


「ナタリー」


 熱く抱擁しながらニスは戸口から女を中へと押し込んだ。

 後ろ手に戸を閉めて、乱れていた服を急かれるように脱がせていく。


「…………溺れて、今だけは」


 乞うように女が喘ぐ。

 乱暴に己の服も脱ぎ捨ててニスは呻く。


「既に、」


 溺れていると耳に吹きこめば、ナタリーは腰をくねらせて歓喜に震える。

 快楽だけを求めながら交わることになんの意味があるのかと虚しく思う一方で、身体だけでも誰かと繋がっていたいと思っている孤独な心がニスを唆す。


 雨音が激しく屋根をうち、窓を叩く。


 二人の吐息と熱と混ぜ合わせて昇華させながら、ただ激情のままにぶつかり合うことは案外容易いことだった。


 今ここには孤独に啼いている獣と、それを受け入れてくれる優しい女がいるだけ。


 雨が乾いた大地を潤すように、愛に飢えたニスの身体をナタリーが仮初めの愛で満たしてくれている。


 外で振り続ける雨のように、激しく。


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