おじさん、しらない?
鼻唄を歌いながら千鳥足でやってくる男はゆっくりと下り坂になっている小道を歩いていた。
右に行ったり、左に行ったりと定まらない足取りだが前進しているので幾分か良い。
月明かりの中でも解る赤ら顔と、とろりとした眼が泥酔状態であると知らせてくれた。
男が小道を下りきって右へと曲がるとそこには開けた場所になっている。
さらさらと流れる水の音が静かな森に響き渡り、肥沃な大地の匂いを濃厚に漂わせていた。
驚くべきことに彼らは水を引き込み、山の中に畑を開墾して豊かな実りを得ていたのだ。
だからこその感謝の歌だったのか。
ルピナスは得心しつつも彼らがこの土地に根付こうとしている意地をそこに見た気がした。
捨てざるを得なかった今までの生活に対する執着と、新たな土地で身を立てなければならない強い覚悟。
人を襲い、奪い、苦しめ、力で切り開かなければならないほど彼らは追い詰められていたのか。
「くそ、同情したら駄目だろっ」
頭を振って下手な情けを捨て去ろうとするが、なかなかそれは上手く行かない。
未だにどうしたらいいのか解らぬまま、ノアの作戦に協力をする他ない自分はいざという時に竜族もノアも失ってしまいそうで怖い。
なのにノアはあっけらかんとしており「大丈夫。上手く行かなかった時は別の手を考えればいいんだよ」と笑顔でさっさと歩き去って行った。
たったひとりで森の木立の中から男の様子を見ているのは不安で、知らず膝が震えるくらいなのだからどれだけ肝っ玉が小さいのかと情けなくなってくる。
「別の手つったって、」
互いに命があればいいが、物事に絶対は有り得ない。
色んな可能性があり、色んな不安要素が潜んでいるのだから。
「頼むから」
祈るような気持ちで男の姿を目で追う。
男はふらふらしながらも畑の縁を歩き、水の音がする場所へと向かっていた。
掌に汗が滲んで気持ちが悪い。
妙な緊張感と心臓が早鐘を打ち吐き気までするのだから頭も体も変になりそうだ。
喧嘩っ早い性質のルピナスだが、人族と向き合うことはこんなにも恐ろしいことなのだと初めて知った。
竜族との戦いで命の危機が目の前にちらついたとしても、ここまで恐怖に慄いたりはしない。
「しっかりしろ、俺がしっかりしてねえとまずいんだ」
自分に言い聞かせて、鼓動を落ち着かせようと深呼吸している内に男は水源へと辿り着いた。
ぎくりと胸が跳ね上がり痛みすら感じる。
男がしゃがみこんで両手を涼やかに流れる水へと沈め、酔っている癖に頭を前方へと下げた。
そのまま後ろから突き飛ばせば水の中へ落ちて溺れ死んでしまうかもしれない。
恐ろしい想像に縮み上がって寿命が短くなる気がした。
山から吹き下ろしてきた風が畑に実るシフの穂を揺らして、静けさの中に一抹の騒々しさを演出する。
男がふと顔を上げて、掬い上げた水を飲むことなくゆっくりと畑を見た。
「えい、くそ」
ルピナスは約束していた場所に温度と空気の量を調節した青白い炎をぽっと出現させた。
そしてもうひとつ、またひとつと風に揺らめきながら燃え上がる子供の拳大の炎を浮かべる。
「―――――っひ!?」
悲鳴が喉の奥で凍りついたかのように呼気だけが男の大きく開いた口から洩れ聞こえた。
目は丸く見開かれ、色を失った顔色を見るだけで気の毒になる。
ぴちょん。
ぽとん。
濡れた音がどこからともなく響いて来て男が慌てて辺りを見回すが、周りを森で囲まれたこの場所では反響してその出所を探ることはできない。
「うっ、ひぃ――――!!」
膨らみ始めたシフの穂の隙間から男を見ている目があることに気付いたらしい。
丸くて大きな瞳は闇の中で炎の光を受けて青く底光りしている。視線が合うと笑ったのか目が細められた。
『おじさん、ぼくのあししらない?』
小首を傾げたせいで一瞬密集する茎に隠れて顔が見えなくなる。
だが逆に赤黒い液体に濡れた頭部が目に映り、男はぶるぶると震えながら後退した。
ばしゃっ――。
「――――ぎゃあ!!」
男は左足を水場に落とし、急に態勢を崩して尻もちを着く。
辛うじて水の中へと転落するのは免れたが、突然のできごとに動転して喚き散らしながら地面を転がった。
「悪かった!おれが悪かったよ!!頼むから、」
『おじさん、ぼくのからだしらない?』
「おれじゃない、お前を殺したのは。違う。でも、」
お前の死体は山の反対側に埋めたから、そこに行けばいいと告げて男は泣き叫びながら必死でそちらの方へと指を向ける。
『しんだからだはいらないからおじさんのからだ、ぼくにちょうだい』
がさがさと音をたてて小さな五指がゆっくりと伸ばされた。
真っ直ぐに。
縋る様に。
「ひえええ……」
情けない声を上げて男はがくがくと顎を揺らし、膝を打ち合わせて失禁した。
その姿に憐れみすら感じられルピナスは「やりすぎだろ」と舌打ちする。
ノアの迫真の演技に男は本物の幽鬼であると思い込んでいた。酔っていたせいもあるだろうが、乏しい月明かりしかない状況とルピナスの炎の演出があるお陰で真実味を持たせることに成功している。
誰であろうとも信じるだろう。
しかも人を殺めているという罪悪感を少ながらず抱いている相手なら尚のこと。
潜んでいた木の影から飛び出して男の元へと駆けつけたが、既に泡を吹いて気絶してしまった後だった。
「ああー……」
気の毒になりルピナスは男の脇を抱えて水の中へ連れて行く。
鼻につく臭気を漂わせている腰から下を浸けて洗い流してやっていると、シフの畑から出てきたノアが「うまくいったね」などとのたまうものだから鋭い一瞥を投げてしまう。
「なに?なんで怒ってるの?」
不満そうな顔で尋ねてくるノアの顔は左半分赤紫色の果実で汚れている。
頭部も同じ物を擦りつけて血で濡れているように見せかけているのだが、太陽の下で見れば赤く見えないのに夜の闇の中では本物のように見えた。
「やりすぎだ。ここまでする必要があるのか?」
思いがけず冷たい言い方で責めてしまったが、ルピナスは全く後悔していなかった。
実際は脅かして仲間の元へと逃げ帰らせ、この場所から追い出そうという計画だったはずだ。
それを、気を失うまでやるなんて。
「なんで?逆にどうして誉めてくれないのかぜんぜん解らないんだけど!」
「――――誉める?」
「そうだよ!ルピナスにはこいつらをこらしめるだけの力があるのに、それはできないっていうから一生懸命考えたのに」
だがノアも一歩も引かなかった。
正しいことをしているのだと思っているのだから当然といえば当然だろう。
「みんなが傷つかずに、平和で安全な方法を考えたんだ!なのに、ルピナスは悪い奴の味方ばかりして」
「味方はしてないだろ」
「してるよ!他にどうすればよかったのさ?野盗が悪いことしているのに見て見ぬふりをしてりゃよかったの?それじゃぜんぜんなんにも解決しない。人はみなどんどんひどくなっていくんだ。悪いことしても、それが悪いことだって解らなくなる。だからどこかで誰かがそれは間違ってるって教えてあげないといけないのに」
誰も教えてくれなかった。
誰も止めなかったから。
「父さんは死んだんだ!」
「おい、ノアどういう」
意味なのだろうか。
ルピナスが協力的じゃないことを怒っているのだと思っていたが、突然話が事故で死んだという父親の話へと変わっている。
怒りという感情に支配されてノアは罵る様に言葉を続けた。
「ろくでもない父さんだったけど、本当は優しい人だったんだ。ただ弱かっただけで。人のものを勝手に借りたり、食べたり、使ったりして嫌われて。みんなから嫌われてるんだからもうどうだっていいんだってヤケになって」
大きく息を継いでノアは泣きそうに顔を歪めたが決して泣かなかった。
「村長の馬を黙って持ち出して、乗り回してたら暴走して落馬して簡単に死んだ。笑える。最高に笑える最期だったよ」
毅然とした表情でルピナスを見上げてくる。
血糊のような果実の汁がべったりと着いた顔で美しく微笑んで。
それは子供らしくない壮絶な笑みだった。
「ノア……」
「笑ってよ、ルピナス。お前の父さんはおかしな奴だなって」
懇願されたがとても笑えるわけがない。
母親はきっと愛想を尽かして父親を捨てたのだろう。
そして腹を痛めて産んだ子をそんな男の元へと残していった。
自堕落な父親との生活の中でノアは苦労したに違いない。
無断で人のものを使ったり持って行ったりするたびに頭を下げ、周囲の人間に「あんたも大変だね」と同情半分嫌味半分で言われれば「平気」と笑顔で跳ね除けて。
父親の世話や尻拭いをすることでノアが成長し、一番大事な時期を親の愛情を注がれることではなく逆に注ぐことで満足していたのだとしたらとても悲しいことだ。
「誉めて欲しい」というのは今まで報いられることのなかった頑張りに対する純粋な気持ちの表れなのだろう。
「お前は、ほんとに」
――竜族も人族もみんなが幸せなほうがいいよね。
そう言ったノアの気持ちや言葉の重さが漸く胸に迫って来て。
「なんで早く言わないんだ」
「なにを?生い立ちが可哀相なこと?そんなこといってどうなるのさ」
いったところでなにも変わらないのにと強がるノアを腕を伸ばして抱き締めてやる。
小さな頭を胸に抱きそっと撫でてやりながら「今までよく頑張って来たな」と囁く。
薄い身体がびくりと跳ねて小声でルピナスの名を呼ぶ。
「どんな生い立ちだろうが変わりゃしないだろうがな、それでも誰にもいえずにずっと抱え込んでいるよりよっぽどいいだろ」
「…………十歳は子供じゃないんだ」
だから大人のように振る舞えないといけないというノアの理屈は一般的では無い。
子供が声を押し殺して泣くのを堪えようとすることも、酸いも甘いも噛み締めた顔で笑う顔も絶対させてはならないことだった。
「子供でいいんだ。お前は、まだ子供なんだから」
「だめだよ、それじゃ母さんにいらないっていわれる」
「そしたら俺が面倒見てやるから、心配すんな」
普通なら子供を連れて出るだろう母親が父親の元にノアを置き去りにしたのは育てる気がなかったからか、自信がなかったからだろう。
父親の死を理由に訪ねてきた子供を母親が受け入れるかどうか。
きっと難しい。
母親に再度“いらない”と通告されることはノアにとってなによりも深い傷になる。
それでも故郷のウィージの村を出る決意をしたのは、きっと居心地のいいものでは無かったからに違いない。
父親の親戚なりいたはずで、全く庇護してくれる者がいなかったわけではないだろう。
肩身の狭い思いをしたのか、面と向かって嫌味を言われ続けたのか。
母親の元へと行くことを決意するだけの理由があったに違いない。
だからその勇気に敬意を表して。
「赤竜の里に連れて行ってやるから安心しろ」
ノアが小さく頷いたのを確認して、ルピナスは抱擁を解いた。
そして水場に沈み溺れかけている男に気付いて慌てて引き上げると「あっぶね」と胸を撫で下ろしたのだった。




