家に帰ろう
ゼルの高かった熱は翌日の夜中に下がり始め、明け方を迎える頃には随分良くなっていた。
それでも微熱というには高く、二日も続いた高熱のせいで体力は底をついていた。
意識は混濁したまま、寝ているのか起きているのかも定かでは無い状態のゼルにすり下ろした果実や果汁を水で割ったものを与えながらエリスと交互に看病を続け、日に日に弱っていく様子に何度粉末の熱冷ましに手が伸びたか解らない。
二日も苦しめていた高熱は下がっているのだから、今更熱冷ましを飲ませてなんの意味があるのかと互いを慰め合い、諭し合いながらゼルが目覚めるのをひたすら待った。
そんな日々を同じ屋根の下で過ごしていると一番初めに交わした「不用意に触れない」という約束は、疲れ果てたエリスの背中を優しく叩いて労わったり、ぐったりとしたまま身動きひとつしないゼルの姿を見て涙ぐんでいる彼女の手をぎゅっと握って励ましたりしている内に自然とないものとして扱われていった。
エリスは拒まなかったが、弱っている女性の気持ちに付け込んでいるようでやはり後ろめたく、今傍にいるのがアリウムじゃなくてもきっと同じように拒まなかっただろうと思えばふつふつと暗い感情が湧き上がってくるのを抑えられなかったことに酷く打ちのめされた。
恋人という立場を預かりながら、やはり二人の間には甘い雰囲気や触れ合いもなく、それが偽りの仲であることを如実に表していて悲しい。
ただ友情とは違う名づけようのない信頼関係が育っているのは確かで、辛い経験を一緒に体験することで芽生えた絆は最早家族のようでもあった。
今まで服用していた薬を断ってから一週間後の朝、漸くゼルは薄らと目蓋を押し上げて掠れた声を上げた。
病み衰え、更に痩せた彼はエリスとアリウムの姿を視点の定まらない瞳で確認すると安堵したように口元を緩めた。
果物を与え、丸薬を口に含ませると苦みに顔を顰めながら水と共に嚥下する。
そしてまた眠りについたが、今までよりも呼吸が落ち着いており新たな薬を飲ませることに成功し、エリスもまた意識を失うようにして眠りに落ちた。
漸く安心して睡眠を得られたエリスを両腕に抱え上げて寝台まで運び、布団をかけて立ち上がりその寝顔を見下ろす。
長い睫毛が作る緩やかな曲線の下に疲れが滲むように隈が浮き、元々ふっくらとはしていない頬が色を失いくすんでいる。
形はいいが小さな鼻、そしてピンク色の可愛らしい唇はほんの少し開いていて穏やかな寝息を立てていた。
白いスカーフの下から金茶の髪が枕に散り、呼吸するたびに上下する柔らかな膨らみを一度も触れないまま去ることに後ろ髪を引かれる思いを抱きつつアリウムはそうっと囁いた。
「エリス、貴重な時間をありがとう」
共に過ごした時間はどれもアリウムには得難い思い出だ。
それらを思い返すことで心の虚ろを少しは埋めることができる。
「俺の役目はこれで終わり」
そっと身を屈めて前髪に覆われた額に口づけを落とす。
微かに身じろいでエリスがなにごとか発したが、明瞭さを欠いていて彼女の思いを知ることはできなかった。
「ちゃんと幸せになるんだよ」
そうでなければ困る。
本当に好きな人と結ばれて、元気になったゼルと一緒に大好きな染色を続けて欲しい。
可愛い子供を産んで、素直じゃないエリスを心から愛してくれる男と温かい家庭を築いてくれればそれだけで良かった。
「エリスの幸せだけが俺の願い……だから、さよなら」
どうか笑っていて――。
別れの瞬間を覚えておくのは辛すぎる。
早く忘れたくて空を全速力で駆け抜けて黒竜の里へと帰ったが、結局誰もいない家は静かで喪失感に耐えられず逃げ込んだ先は兄の家。
戸を叩くと飛び出してきた姪っ子は「あむ!」と舌ったらずに名を呼んで足元に纏わりついてくる。サラサラの銀の髪を撫でて抱き上げると、熱烈な口づけで歓迎してくれた。
「もう、本当にニコはアムくんが大好きだなー……。ほら、困ってるでしょ?飴ちゃんあげるからこっち来なさい」
クスクス笑いながら義姉が手を伸ばして無理矢理引き剥がすと、ニコは奇声を上げながら抵抗するが結局は大好きな飴に釣られておとなしくなる。
「兄ちゃんは?」
いつもなら誰かが訪問して来た際には飛んできて、義姉に他の竜族が近づくのを牽制するのに留守なのか気配がない。
「お義父さんに呼ばれてあっちの家に行ってるけど……なにか用事だった?」
「いや、別に。ただ珍しいなって思っただけ」
「私はもっと他の黒竜の人たちとも交流してみたいんだけどね。竜族ってなんであんなに嫉妬深いの?」
素朴な疑問を投げながら義姉は台所へと入って行き、その後をニコがとことことついて行く。
短いスカートの裾から覗く銀色の鱗に包まれた尻尾が見えていて、歩くたびに左右に揺れていた。
竜族は雄しか産まれない種族で、雌であるニコは竜族の中では特別な存在だ。
ゆくゆくは巫女として全ての竜族のためにその身と力を捧げなければならない。
今はまだ幼く愛らしいが、成長すれば竜族の頂点に立ち傅かれる立場となる。
「そのニコを里のみんなはおもちゃみたいに扱うんだからなぁ」
成体である里の竜族たちは幼体には威厳を持った接し方をするが、ニコにだけは特別甘い。
甘いだけでなく面白がってまだ飛べないニコを高く放り投げたり、振り回したりしてその反応を楽しんでいるのだ。
まあ姪っ子も声を上げて笑っているくらいだから随分と大物なのだろう。
その度に義姉は青くなって我が子を取り戻そうと躍起になり、自分の伴侶が他の竜族の元へと駆けだして行くのを見て慌てて追いかける兄の姿が必死さで憐れを誘うが、それすらも里の竜族には一種の娯楽のひとつとして定着しているようだった。
「ごめん。兄ちゃんがいないなら俺、帰るよ」
「えー?どうして?いいじゃない、ゆっくりしていけば」
小柄な義姉は顔の作りも小さくて成人した女性には見えないが、兄よりも六歳上だというから驚きだ。
頬を膨らませて唇を尖らせている様はまるで子供である。
ニコが足元で同じ表情を作って不満そうにアリウムを見ていたから思わず笑ってしまう。
「兄ちゃんが留守にしている間に家に上がり込んで楽しくお茶してたって聞いたらいい気しないでしょ?」
「そんなことないよ!アムくんならいつだってウェルカムなのに!」
「ウェルカムって……どういう意味かは解らないけど、もし俺が逆の立場だったら嫌だからさ」
時折こうして聞き馴染の無い言葉を口にするのは、義姉がグリュライトではない別の世界から来た人族だからだ。
「いつでも来ていいよってこと、なんだけど……。やっぱり天使のアムくんでも、大切な伴侶が例え兄とはいえ仲良くするのは嫌なのかー……」
何故か酷く落ち込まれてしまい、義姉の中でどれだけ純粋で優しい印象として自分が描かれているのかと苦笑いする。
自分はそんなに純粋でも、優しくも無いのに。
成体になってもアリウムは初めて会った幼体の時のままなのか。
「だから帰るよ。じゃあまたね、ニコ」
「あむ、ばいばい」
小さな手を掲げて指をにぎにぎと動かす仕草はとても可愛い。
「本当にまた来てね」と念押しをしながら玄関先までついて来た義姉に頷いて約束し、幸せな空気で満たされた家を後にした。
どれほどの時間と日が過ぎたのかあまり覚えていない。
あれから伴侶を探しに行く意味も必要も無くなってしまったアリウムは、ただ無為に家に閉じこもり怠惰な生活を繰り返していた。
心配した義姉がニコを連れて何度か訪ねて来てくれたが、楽しく談笑することはおろか声を発することすら苦痛で布団にくるまって不貞寝をしてやり過ごした。
だがそれで終わらせてもらえるわけも無く、次にやって来たのは兄と父だったから無理矢理布団を剥ぎ取られて引きずり出されたのは言うまでもない。
「……………………放っておいてよ、俺のことなんか」
床に胡坐をかいてそっぽを向くと珍しいものでも見たと言わんばかりに兄と父は顔を見合わせて緊張感を漂わせ始める。
「おい、アムどうしたんだ?変なもんでも食って腹でも壊したのか?」
「おい止めろ、クソ親父。真面目に対応しろ!息子の一大事だぞ!?」
「お前はそういうが、アムがこんなにくさってるのを見たのは初めてなんだ。俺もどうしたらいいか正直迷う」
「あのな!迷ってないで、なんとかしろっ」
「じゃあお前がなんとかしろ」
アリウムへの対応を決めかねて押し付け合っている兄と父の声は大きくて煩わしい。
言い合っている仲裁をするのも、反論するのも面倒で寝台の上に戻り耳を塞いで丸くなる。
固く目を閉じて嵐が通り過ぎるのを待とうとしたが「ふざけんなっ。なに逃げてんだ!」と兄が寝台に飛び乗って来て腕をぐいぐい引っ張られた。
なにがなんでも放っておいてはくれないらしい。
急に腹が立ってきて兄の手を振り払いながら身を起こし感情のままに叫んだ。
「兄ちゃんも父さんも運命の女性と一緒にいられるんだから俺の惨めな気持ちなんて解らないよ!」
あまりにも悲痛な響きだったからか、それとも両目から溢れて止まらない涙に憐れんだのか。
兄も父も綺麗な顔を歪めて目を反らした。
「俺は、一生独りなんだ……。誰からも愛されずに、孤独なまま終える運命に決まってるんだからどこにも行かずに寝てても良いんだよ!」
「――――いや、よくないだろ!?」
気を取り直した兄が即座に否定するが運命は覆すことはできない。
「伴侶探しの旅に倦みたくなる気持ちも、振られて辛い気持ちも解るがそう悲観的にならなくても、」
父も我に返ってアリウムが自棄になっている理由を推測しながら宥めようと言葉を連ねるが、そのどれもが微妙に的外れなのを理解していない。
伴侶を求めてさすらう旅が嫌になったのでも、可愛いなと思っていた女の子に振られたから不貞寝していたわけでもないのだから。
「俺はね、ちゃんと運命の女性を見つけたよ。だけど一緒には行けないって断られた。彼女は竜族にも、俺にも、恋愛にも興味ないって――」
始めは心底迷惑そうで、何度も通って行くうちにそれが困惑に変わり、約束を重ねるうちに信頼へと変化した。
破ってしまった約束で失った信用が、ひとつの困難を乗り越えたことで愛情や友情とは違う情へと昇華したがそれはアリウムが欲しいものでは無い。
「エリスがいいんだ。エリス以外の女の子はいらない」
でも手に入らないから。
諦めるしかないのだ。
どんなに彼女の幸せを望んでも、その相手がアリウムでないのなら手放しで祝福はできない。
こんなに卑しくて、心が穢れていることをエリスに知られずに済んで良かったと思う。
「――――死にたい、兄ちゃん。俺、」
「……アム」
「エリスがいないと生きてけないよ」
他にはなにもいらないのに。
一番欲しいものだけこの手は届かない。
「恐いよ、」
幼体みたいに泣きじゃくるアリウムを兄はじっと見下ろして、奥歯を噛み締めたのか頬が強張り口角が下がった。
「―――――温い!」
「へ?」
兄が徐に開いた口から出た言葉は短く、そして叱咤するように鋭い。
慰めや優しさの欠片も無い口調にアリウムは間抜けな返答をするしかなかった。
「いい加減にしろ!お前は銀竜か?違うだろ!立派に成長した黒竜だろうが!一緒にいられずに死を望むくらいなら玉砕覚悟でもう一度求婚して来い!それで駄目なら俺がお前を楽にしてやる」
「兄ちゃん?」
「解ったらさっさと支度して行って来い。その間に俺はお前をどうやって殺すか方法を考えておいてやるから」
心配せずに行って来いと言われて喜んでいいのか、悲しんでいいのか解らずに促されるまま服を着替えて顔を洗い、急き立てられるかのようにして家から出された。
「俺の家なのに……」
恨めしく思いながら一瞥したが、これで行かずに帰ったら次は兄同伴でエリスに求婚をすることになるのは間違いない。
それだけは勘弁だ。
覚悟を決めてアリウムは闇の支配する里の果てを目指して飛び立った。
接点を超えてグリュライトへと入ると冷たい雨が降っていた。
眼下に広がる景色の中に葉を落とした木々が多くあるのに気付き、今は雨期である水の月なのだと知る。
エリスと出会ったのは確か風の月の終わり頃だったから、次の実り多い地の月を過ぎて水の月へと季節が移ろったということは一カ月以上経過していることになった。
「……そんなに塞ぎこんでいたんだ」
知らない間に季節が過ぎていることに驚き、どれだけ時が過ぎても彼女への想いは薄らいだりはしないのだとまた胸が切なく疼く。
折角着替えても雨に濡れるのならば意味は無かった気がするが、一カ月以上も着っ放しの服でエリスと再会するのも見っとも無い。
いくら振られるために会いに行くのだとしても少しくらいはちゃんとした格好をしていた方がいいはずだ。
しとしとと降る雨と曇天の空のせいで世界は灰色に沈み、ひっそりと次に訪れる雪と氷に包まれる寒い闇の月へ準備をしているかのようだった。
町へ着く頃にはすっかりずぶ濡れになったアリウムは重く湿った紐を引っ張って鐘を鳴らす。
鳴り止む前に滞在申請をして許可が出るまで二、三日かかることを思い出しうんざりしながら空を仰ぐ。
雨期の間は殆どが雨で、風邪を引くほど軟な作りではないが張り付いた衣服が気持ち悪いのはちょっと我慢ならない。
天候を理由に町長が直ぐに許可を出してくれるとも思えず、大きく嘆息すると小屋から顔を出したのは前にも対応してくれたあの男だったので目を丸くする。
「竜族専属の担当者なの?」
普通は交代制だがこの町では違うのだろうか。
雨の音で聞き取れないのか男が小首を傾げて耳に手を当てるので「また会ったね!」と叫ぶと「お前、今まで放っておいてなにしてたんだ!」と怒鳴り返された。
「えっと……なんで怒られてるのか解らないんだけどー……」
頬を指で掻いて戸惑っていると「速く来い!」と乱暴に手招かれて更に訳が解らなくなる。
「手続きは!?」
「なにいってんだ!必要ないだろ!?さっさとしろ!」
“必要ない”の一言にアリウムの頭は真っ白になった。
竜族が町を訪れる時には必ず申請を出し、町長の許可がなければ入ることは許されない。
これは必ず守られるべき人族と竜族の約束事だ。
「じゃあ、俺はまだ」
その括りから外れて面倒な手続き無しで訪問できる方法はひとつだけ。
「エリスの恋人なの?」
一体どういう心境でアリウムとの仲を解消していないのか解らない。
エリスにとってそのことが邪魔になる可能性の方が高いのに、真面目な彼女は竜族との仲をたった数ヶ月で破談にすることが耐えられなかったのだろうか?
理由など挙げればきりがないほど沢山浮かぶ。
それでも淡い期待に心躍らせる自分は愚かで、とんでもなく間抜けなのかもしれない。
「さっさと行かないと手遅れになっちまうぞ!?」
「ちょっと、手遅れって――?」
切羽詰った男の声で漸く尻に火がつく。
「エリスは二つ先にある町の工房に修行に行っちまうんだ。お前がぼやぼやしてちっとも迎えに来ないから、」
「修行って、ゼルは!?」
病を抱えた弟を放ってエリスが町を出て他の町へと行くはずがない。
丸薬を飲ませることでゼルの命が救われたのだと勝手に思っていたが、もしかしたらあの後容体が悪化してそのまま――。
「嘘だよね!?」
想像などしたくもない答えがアリウムの足を動かした。
男がなにやら喚いているが知ったことでは無い。
必死で駆けて泥水を跳ね上げ、びしょ濡れになりながら雨の中を急ぐ。
薄暗く、重苦しい雰囲気の景色は暗澹たる未来を思わせているようで胸が痛む。
ひりひりと、焼け付くかのように。
「――――こんなことなら、最後まで見届けるんだった」
悔やんでも仕方がないが、あれ以上一緒にいたらアリウムは感情を抑えられずにエリスを無理にでも手に入れようとしてしまう。
勿論エリスに抵抗されればアリウムにはなにもできない。
ただその行為に及んだことで二人の間に埋められない溝ができてしまうのが怖かったのだ。
修復できない関係になるのが一番恐ろしかった。
でもそんなことがなんなのか。
愛しい人が孤独と不安に陥っている時に傍にいてあげることのほうが重要なはずなのに。
自分の劣情や独り善がりの感情に振り回されて本当に大事なことを見落とし、あまつさえ逃げ出してしまうなんて最低なやり方だ。
自分は振られたのだと被害者ぶって、なんの努力もせずに閉じ籠って。
「俺って本当に、ばかだ」
何度も何度も間違って。
恐くて、不安で、苦しくて。
「エリスっ!!」
謝っても許して貰えないかもしれない。
そもそも今更なにしに来たのだと罵られ、再び拒絶されるかもしれないのに。
やっぱりエリス無しでは世界は色を失ったままで。
「エリス!?いないの?」
雨が降っているからかピタリと閉じられた戸を引き開けてしんっと静まり返った工房を見渡すが、そこにはエリスの匂いも気配も無く朝から染め物をしていた形跡すら無かった。
湿気を帯びた土間に足を踏み入れ応えが返らないことに絶望的な思いで膝を着く。
「なにもかも、遅かった……?」
季節が移り変わる程放っておいたアリウムにはやり直すことも、最後の機会を与えられることもないのか。
膝を着いた箇所からじわじわと土間に水が黒く染みて行く。
張り付いた髪や服はじっとりと雨が染み込んで、ぽたぽたと水滴を落としている。
その中にアリウムの瞳から流れた涙も一緒になって悲しみが深まっていく。
「ああ……」
全てが終わりに向かって時を刻んで行くのを感じる。
竜族の中で伴侶を得られずに一生を終える者は少なくない。
その中にアリウムも仲間入りするだけのことだ。
だから大丈夫だ――――。
「誰かいるの?」
居住空間へと続く戸が開き、怪訝そうな声が響いた。
濡れた地面の匂いや、埃っぽい雨の匂い、湿った衣服の匂い、その他のどんな匂いも打ち消して甘く芳しい芳香がアリウムを誘う。
視線は吸い寄せられるように声と香りのする方向へと向けられ、すぐにでも傍へと近づきたいと思う気持ちと拒絶を恐れる感情の狭間でその場になす術も無く肉体は留まるしかない。
「――――アリウム!?」
工房の中にずぶ濡れで座り込んでいる竜族にエリスは目を丸くして驚愕し立ち尽くす。
少し痩せたように見えるが悲しみに塞ぎこんでいる様子は無く、最後に見た顔よりは隈も無く健康そうだ。
そのことに安堵して「出発は今日なの?」と尋ねた。
水を弾く外套を着て膝下の長さのスカートの下から覗く長靴を見れば、彼女が旅装を整えていることに嫌でも気付く。
エリスがはっと頬を強張らせて一瞬目を反らしたが、きゅっと唇を引き結んでもう一度アリウムの方を見つめる。
「そうよ、貴方が来るのが今日でなければいいと思っていたけど……いいえ。違うわね。貴方はもう二度と戻ってこないと思っていたのに」
「迷惑だった?」
肯定の言葉を聞くのは恐かったが、もう逃げることはできない。
きっとこれがアリウムにとっての最後のやり直す機会だから。
「……………………解らない」
十分な時間をかけてエリスは答えたが、否定でも肯定でも無かったことに安心して秘かに嘆息を零す。
そして聞くのが恐い質問をひとつ恐る恐るする。
「ねえ、エリス。あの後、ゼルはどうなったの?」
少しは元気になったのか、それとも病は進行し手の付けられない所まで行ってしまったのか。
不安が顔に出ていたのか、エリスが少し申し訳なさそうに眉を下げて小さく顎を左右に振った。
「ゼルの病状が気になるのなら何故あれから一度も顔を出さなかったの?」
「それは、」
「ゼルはずっと貴方を待ってたわ。必ず戻って来るからって……それなのに」
「ごめん」
「謝るくらいなら最初からしなければいい。貴方はいつだって中途半端で、優しくて」
「エリス?」
徐々に声が震え涙に濡れた悲しげなものになる。
大きく息を継いだエリスは悔しそうに顔を歪めて洟を啜った。
「お礼も言わせないまま勝手に消えて、私たちの、私の気持ちも知らないで、漸く整理がついて前に進もうって決めた時にのこのこ現れて、一体なんなのよっ」
「えっと……黙って消えたのは別れが辛かったからで、戻って来たのはもう一度」
求婚するためで――。
「はあ!?それこそ大迷惑よ!どうせそうやって期待させておいて、また私の前から消えちゃうんでしょ?どれだけ私を苦しめれば気が済むの!?竜族って本当に口ばっかりの女たらしなのね!!」
信じられないと泣きじゃくるエリスはまるで子供のように頭を振った。
その所作に驚き、そして彼女らしからぬ仕草に甘く胸がときめく。
「期待してたってことは、俺のこと嫌いじゃないんだよね?」
「なに言ってるのよ、今更。私の気持ち知ってるくせに」
濡れた睫毛の下から茶色の瞳で軽く睨まれたが、残念ながら未だにエリスの真意は読み解けない。
困惑したまま彼女を見つめて首を傾げる。
「――――どういうこと?俺エリスから好意を匂わされたこと一度も無いと思うけど」
「うそ。ちゃんと言った」
「良ければその時の言葉を聞かせてもらえるかな?」
改めて聞かせて欲しいと言われて逡巡しながらもエリスは口を開く。
「…………私は相応しくないから貴方は他の可愛い娘と幸せになりなさい。私が嫉妬して悔しがるくらいにって」
「…………今のどこにエリスの気持ちが表れているのか聞いても良い?」
「え?逆にどうして解らないか聞きたいくらいなんだけど」
アリウムにどうやら伝わっていないと気づいたエリスは急に焦り始め、どこを間違えてしまったのか解らずに思考が空回りしているようだ。
「えっと、えっと」と繰り返すしかできない所に激しい動揺が見える。
「姉さんはアムのことが好きだけど自分には勿体無いから身を引いて諦める。だから他の娘と幸せになって欲しい。その代わり醜く嫉妬の炎を燃やして悔しがるくらい幸せになってくれないと困るからねって言ったつもりみたいだよ」
思わぬ所からの助け舟にエリスはぱっと顔を輝かせて大きく頷き、そしてアリウムはその愛らしい表情に一瞬見惚れて、はたと我に返って第三者の声に慌てて顔を上げる。
そこには二本足で立っているゼルがいて、相変わらずの穏やかな笑みを浮かべていた。
「――――ゼル?」
「死んでいるかもしれないと思っていたでしょ?残念だけど、生きてるよ」
冗談を言いながらゼルは重そうな荷物をひとつ手にしてアリウムの前まで歩いてくる。
その危なげない足取りに彼が宣言通りに病に打ち勝ち、以前より元気になっていることが解って鼻の奥がつんっと痛くなった。
「残念なんかじゃない、素直に嬉しいに決まってる」
「そう?でも僕はね、ちょっと怒っているんだ」
「ゼル――」
姉が心配そうに弟の名を呼ぶ。
一体なにを言い出すのかと。
「姉さんが解り辛いのもあるけど、あまりにもアムが鈍すぎて」
大仰に息を吐き出してゼルがどんっと荷物を土間に下す。それは旅行用の鞄で、中に色々な身の回りの物が入れられているのだろう。
多分旅装を終えているエリスの手荷物で間違いない。
「二人は僕の意識がないと思っていたのかもしれないけど、熱で魘されている最中にいちゃつかれて正直なにしてんだって思ったよ」
「やだっ、見てたの」
羞恥に身悶えながら赤面したエリスは逃げ場を探して視線を彷徨わせたが、結局どこにも隠れる場所など無く諦めて深く俯く。
アリウムも気まずい思いで目を伏せ、せめてゼルの不満を受け止めようと黙る。
「でも一番腹立たしかったのはアムの不甲斐無さだ」
声を低めて幾分荒っぽく吐き出された言葉は十分自覚のあるものだったので猛省するしかない。
「僕に『竜族は思いを寄せる女性に拒絶されると、その思いの分だけ痛みとして跳ね返ってくる』って教えてくれたのはアムだったはずだよね?」
会話したことを覚えていたので頷くと「だから鈍いっていってるんだよ」と呆れられる。
まだ解らないのかと言いたそうな顔をしているが、アリウムにはさっぱりゼルの言わんとしていることが理解できない。
だとしたらやはり鈍いといわれたとしても仕方がないのか。
「アムは姉さんに求婚するくらい好きなんだよね?」
「勿論!」
好きなんてそんな生易しい感情では無い。
それを口にしたらエリスに気持ち悪がられそうだったので我慢し、その思いを短い言葉に籠めて応えた。
「それなら姉さんが嫌だって思っていたら口づけた時にアムは相当な痛みを受けたと思うんだけどね?実際はどうだった?」
言われて初めて気づく。
エリスは冷ややかな目で唇を奪っているアリウムを見ていたが、その時に痛みや衝撃は微塵も感じられなかった。
つまり。
「エリスは拒んでいなかったって、こと?」
ゼルを見上げると「よくできました」と微笑まれる。
「その時点で気づくべきだったね。姉さんはアムに好意を持っているか、もしくは口づけくらいはしても構わないと思っていたって」
「でも、一緒には行けないって」
アリウムを打ちのめしたあの言葉はどう説明するのかとエリスを見れば、照れ隠しのように不貞腐れた顔をする。
「……ゼルを置いては行けないっていっただけで、行きたくないとはいってないわ」
「じゃあ――――」
今までのことは全てアリウムの取り越し苦労で、間違った道を勝手に暴走して突き進んでいただけだったのか。
なんという間抜け。
「でも姉さんがもう少し解りやすく言葉を選んでいたらここまでこじれることは無かったと思うのだけどね」
苦笑いしてゼルはアリウムの肩をポンッと叩く。
「僕という障害が無くなったんだからもう遠慮することはないんだ。だからアリウム、このまま姉さんを連れて行ってよ。ちょうど荷物もまとめていることだしね」
「ゼル!なにを」
「姉さん。いい加減に素直にならないとアムも愛想を尽かしちゃうよ。あれだけ寂しいって泣いていたくせに」
うぐっと言葉に詰まってエリスが恨めしそうに弟を眺める。
ゼルは涼しげな顔で「いつでもアムが戻ってこられるように恋人を解消せずに待っていたのは誰かな?」と小首まで傾げた。
「でも、修行先の工房は父さんがお世話になってた人の所で今更行けないなんていえない」
苦しげに最後の抵抗をする姉をやんわりと微笑みで制して「そこには僕が行くから大丈夫」と請け負った。
「本当は最初からそのつもりだったんだ。無理をしなければ染め物の仕事ができるくらいには回復したし、いつまでも姉さんのお荷物じゃ格好つかないしね」
だから気にせずにアリウムと一緒に行って欲しいと懇願されて、エリスは止まっていた涙を一筋零した。
「さて、これで恩返しできたかな?」
「十分すぎだよ、ありがとう」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせたゼルに感謝を述べるとアリウムは少し離れた場所にいるエリスに手を差し伸べた。
「エリスの気持ちに気付けなかった鈍い俺を許してくれる?エリスの幸せを心底願って離れたんだけど、やっぱり俺は君がいなくちゃ生きられなくて。エリスが他の人と幸せになるのも本当は嫌で。未練たらたらで、どうしようもなくて情けない俺だけど君を想う気持ちは誰にも負けないと誓えるから」
約束も思い出も沢山これから重ねていきたい。
不器用で真面目なエリスと共に歩きたいから。
「俺と一緒に黒竜の里へ来て欲しい。必ず大切にする」
「――――だめ、それだけじゃ」
エリスは差し出された掌をそっと両手で包み、身を屈めると肩を震わせて頬を寄せた。
また一粒零れた涙の滴がアリウムの指先に落ちる。
「約束して、もう二度と黙っていなくなったりしないって」
「約束する。二度とエリスを離さないから」
左腕でエリスの身体を引き寄せると委ねるようにして体重を預けてくる。
その重さは幸せを運び、確かな実感として温もりを伝えてきた。
「それから他の娘と抱擁したり、優しくしたりしないで」
エリスの唇から出てくる嫉妬と束縛の言葉がくすぐったくて、アリウムは相好を崩しながら「エリス以外の女の子には興味ないよ」と囁く。
「それから月に一回はゼルに会わせて」
「…………善処する」
「それから、」
「ちょっ、まだあるの!?」
最初から制約ばかりでは先が思いやられる。
それでもアリウムは惚れた弱みでエリスの願いをできるだけ叶えようと努力するだろう。
「アリウム、私も貴方が――」
その後の言葉を勿体無くて誰にも聞かせまいとそうっと唇を寄せて独り占めしたのだから竜族とは本当に独占欲の強い生き物だと改めて感じながら喜びに身を震わせる。
再び色づき始めたアリウムの世界はエリスという伴侶を得て完成へと至り、そしてまた新たな未来への始まりの時を刻み始めたのだ。
もう誰も待っていない家へと帰らずに済む。
闇と静寂に支配された孤独な住家はこれからきっと笑顔溢れる素晴らしい愛の巣へと変わるだろう。
永遠の愛と約束と信頼の名のもとに。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
アリウム編終わりです。
思いがけず長くなってしまいました。
予定では八話くらいで終わるはずだったのですが、おかしい……。
次回からはクレマ編となります。
引き続きお読みいただければ幸いです。




