ゼノン・コウン
薄い肩。震える瞳。
ーーーこんな形で、この子と再会したくなかった。
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薄暗い地下室は、埃と湿気、黴のにおいで満たされていた。部屋の隅には使い込まれた作業台、壁には本棚が並ぶ。
今日は何日だろうか。ふと浮かんだ考えを、すぐに打ち消す。―――どうでもいいことだ。
すべきは思考だ。求めるべきは、催惑樹の種を滅ぼす手段だ。
手元に視線を向ければ、ごぽり、と小さな鍋の中、紫の液体が泡立っている。毒々しい煙を放つそれに、催惑樹の種を放り込む。
去年隣の領の地下で見つけた、1000年前存在した植物の樹皮。毒性と魔力を含んだというそれを粉状にし、他の材料を混ぜ、火を付けた。
この液体がどうか僅かでも魔力を含んでいてくれ、そうしてこの種を壊してくれ、と願う。
既に絶滅している種である、この樹皮の在庫はこの鍋にある分で最後だ。なくなればまた、別の手段を探すしかない。
どうか、と瞳を伏せる。この忌々しい種を壊せるなら方法は何でもいい。
あの子が国外にいたとしても、種を飲んでいないとしても。18歳になる前にこの種を壊し、催惑樹を滅ぼさなければ。
鍋の取っ手を持つ、自らの手を睨みつける。樹の根が這う、醜く悍ましい手を。
この身はもう、人ではないと理解している。食事も睡眠も必要とせず、腕に魔物を宿した者が、人間でなどあるものか。
煙が立ち、吸えば息苦しさに喉が詰まる。構わない。あの魔物さえ滅ぼせるならば、いつ死んでも良い。樹が滅んだ、その瞬間に俺の心臓が止まったとしても。
けれど。ーーーけれど。
ただ一つ、望むことがあるならば。
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「兄さま?」
小さな声に、目を開ける。暗い部屋の中、ミラが俺のベッドをのぞき込んでいた。
白いシーツは柔らかく、カーテンの隙間から月光が差し込む。
どうしたの、と起き上がって彼女に返事をする。ミラは不安気に、俺を見下ろしていた。
夢を見ていたらしい。地下にいたころの、夢を。
ーーー催惑樹は滅ぼされた。
国外に逃げたはずのミラがカミドニアに残っていて、よりによって教会の地下牢に閉じ込められていたり、アルドゥールの王太子の魔道具や、催惑樹の雌株になり得た、もう一人のいとし子が存在したり。
ミラとその少女の間に、なぜか友情が築かれていたり。
様々な人間が関わり、思惑は交差し、けれど結果として、樹は滅ぼされた。白い炎に覆われる王都の光景を、俺は生涯忘れないだろう。
樹の終わりが俺の終わりだと覚悟していたけれど、この子の白い炎は俺の腕に生えた根も燃やし、俺を生かした。
ゆえに今、ミラも俺も生きていて、この腕にも根はない。
そうなれば当然、この先の人生を考える必要がある。大国の王太子とその恋人の誘いによってアルドゥールに行くことを決め、着いたのが、一月前のことだった。
ーーー衣食住。いずれも人間であるならば、なくてはならないものだ。
アルドゥールに着いた直後、ラインハルトから、城で働くならば王城に住むこともできる、と言われた。俺の新しい職場は、王城内にある魔法研究所だ。間違いなくそれが一番便利だったのだろうが、断った。
その代わりに小さくても良いから、と王都で家を探していたら、城に住まないなら代わりに、とぽんと屋敷を与えられた。2階建てで窓の多い、どこかコウン子爵領の実家に似た屋敷だった。使用人もつけると言われたが、それは流石に断る。
ミラにも王城に部屋を用意するという声は掛かっていたけれど、俺とぐるりとこの家を見て回ったこの子は、この屋敷で暮らしたい、と言った。
それは、言葉にはしなかったけれど、俺も望んでいたことだった。
∮
窓の外は暗い。まだ夜更けと言える時間だろう。ミラの顔は暗闇で分かりづらく、けれどその手は握り込まれている。
冷たい床に触れる彼女の裸の足が、心許なく見えた。
「起こしてごめんなさい。私も起きちゃって、そうしたらこの部屋から声が聞こえて……。魘されている、みたいだったから」
「うるさかったかい? 寝室は隣だしね……。ごめんね」
いつも通り、目覚めは良くない。自分の額は、うっすらと汗ばんでいた。繕うように笑みを浮かべて応える。
「いいえ。ほんの少しも、うるさくなんてなくて、ただ、私が………ええと、」
言葉を切って、ミラは視線を彷徨わせる。何も言わずに、続きを待った。
しばらくの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「あの……兄さま、一緒に寝てもいい?」
「え」
瞬きをする。確かに昔、それこそこの子が子爵家に来てすぐは、共に寝たこともあったけれど。
年齢、互いの性別、その他諸々。断る場合に相応しい理由を思い浮かべたが、打ち消す。世間の良識などよりも、目の前の妹の不安気な顔の方が、よほど重要だった。
なによりも。この子のお願いを、俺は断れたためしがない。
∮
真新しいベッドは広く、隣にミラが潜り込んでも、まだ余裕があった。薄い肩に、同じ毛布を掛ける。
一緒に寝ても良いか、と聞かれて頷いたけれど、眠れないだろうなと思う。それはこの子も、同じではないだろうか。
薄い黄色の瞳は、俺を見ている。
「ねえ、兄さま。どんな夢を見ていたの?」
「……さあ。もう、覚えてないよ」
小さな、潜められた声。そう、と唇が動いた。
「……あのね、兄さま。私もこの時間になると、どうしても目が覚めるの。今までずっと、このくらいの時間に起きていたから」
目を見開く。そんなこと、少しも気が付かなかった。
言葉と裏腹に、ミラの声は穏やかだった。
「学園や教会の召使をしていた頃は、朝の五時には働き始めていたから、もう起きてなきゃいけなくて。今日の仕事はなんだったかしら、着替えなきゃって目が覚めるの。……今は、寝坊したっていいのだけれどね」
だから今も起きちゃったの、と彼女は続けた。月光に照らされた顔は、笑っているようにすら見えた。
―――どうして今、それを言うのか。笑えるのか。その答えに、すぐに思い至った。
この子は、たとえばエレノア嬢が相手なら、眠れない、なんて言わないだろう。大国の王太子の婚約者となり多くの人間に期待される彼女に、心配をかけるような真似はしない。
けれど、俺には話すのは。ミラ自身が眠れないことが不安である、というよりも。
「……………俺もまだ、眠るのに慣れないんだ。睡眠自体必要なかったから、ずっと違和感があって。身体がまだ、慣れていないんだろうね」
「そう。―――ねえ、手を握ってもいい?」
俺が眠れないことに気がついて、同じだ、と寄り添おうとしてくれているのか、この子は。
もちろん、と手を差し出す。嫌なわけがない。
ミラの手は小さく、ひんやりしていた。
「兄さま、朝になったらいつもの……大通りの、青い屋根のパン屋に行かない? 明日から新商品が出るって、新しいパンが並ぶらしいの」
「そうなんだ。じゃあ、そうしようか。……林檎が使われたパンが、あると良いね」
この子は、林檎が好きだから。そうね、と小さな返事。
眠気などなかったはずなのに、瞼が重くなる。つないでいない方の手で、毛布越しに彼女の肩に触れて、とん、とん、と軽く叩く。懐かしかった。
「おやすみなさい、兄さま」
おやすみ、と唇を動かす。
∮
大国アルドゥールは、文化や生活水準、教育レベルでカミドニアを大きく上回る。
魔法以外の技術の発展により国が栄えた歴史があるため、この国における魔法の重要度は低い。ゆえに魔法に興味を持つのは、余程の物好きか歴史学者くらいだ。
魔法の探究者たちは、この国を始めとした多くの国で、長く日の目を見なかった。ゆえに、カミドニアを揺るがす聖樹の暴走は、アルドゥール、そうして世界にとって、大きな衝撃だった。
強大な魔物が今の時代に実在し、それは魔法でしか滅ぼせなかった。あと少し歯車が狂えば、世界が滅んでいたかもしれない。
その事実は各国を驚かせ、すみやかにその国に存在する魔法の扱いを見直させた。
今存在する自国の魔法的存在は適切に管理されているのか、その正体を正しく把握できているのか。カミドニアのような魔法信仰ではない国でも、その国の魔法学者たちはありとあらゆる資料をひっくりかえすことを命じられたと聞いている。
無論当事者であるラインハルトとエレノア嬢は大量の外国の使者などに対応していたし、彼らの忙しさは今も、俺たちの比ではないだろう。
けれど王城の魔法研究所は、閑古鳥が鳴いていたかつてに比べれば、今死ぬほど忙しいらしい。自国の魔法に関する対応はもちろん、おもにカミドニアから譲り受けた、魔法の資料のために。
「おはようゼノンさん、ところであれ知らない?水流による魔力循環機構に関するやつ……。いや噴水式じゃなくてもっと小さいの、水差し?っぽい形の資料」
「どうぞ。小型のならこちら、中型はいま、財物管理局に貸し出しています。ある魔道具の管理について応用できないかとのことで」
「ねえ待ってここにあったやつを持って行った人誰!?杖型の魔力置換型の記録用具!!返して!」
「今多分ライファスさんが持っていますね。……ペンと間違えている?みたいですし」
「なあゼノン!この資料にある魔道具についてどう思う?動く自立思考型機構なんて、絶対重要な拠点とかに配置されて要人の護衛や拠点の防衛を行っていたと思うんだ!」
「…………愛玩動物だと思いますよ。いま第二倉庫に仕舞われているはずの当時の日記に、この魔道具に関する記述がありました。頭を撫でれば喜び、魔物の骨が好物で、円盤を投げれば取ってくるそうです」
王城西棟にある、魔法研究所。魔法の研究に生涯を捧げると決めた者たちのなかでも、優秀な一握りのみが入職を許されるそこが、俺の新しい仕事場である。
この国の大学を卒業も、正規の試験も受けてもいない人間が研究所の一員になるのは先輩方にとっては気に食わない事では、と一瞬考えたが、彼らはあっさりと俺を受け入れた。なんせこの研究所、上から下まで魔法馬鹿か研究馬鹿しかいない。彼らにとっては知らない顔より同時に手に入れた大量の資料の方がよほど重要であり、知らない顔がある程度それに関する知識を持っているなら、喜んでその知識をむしり取る。
―――カミドニアの魔物と、ついでにゼノン・コウンによって、アルドゥールの魔法の研究は200年進んだ。あるいは、400年巻き戻った。そう言われているらしい。催惑樹と同列に並べられるのは不本意だが、まあ事実だろうな、とも思う。
ここに勤めるとミラに話したとき、彼女は心配そうに俺を見た。当面の生活費に、とラインハルトから渡された金の桁を考えれば、一生働かず生きていくことも出来るのだ。六年も閉じこもって繰り返したことをまだ続けるのか、負担になってはいないか、と彼女の目は語っていた。
けれど、この日々は案外、性に合っている。もとより学生だった頃も領地運営のための社交や交渉術よりも研究の類が好きであったし、あの六年の間正気を保っていられたのも、催惑樹への憎悪はともかく、魔法を調べ研究する、知識を身につけること自体は好んでいたことも大きい。
当面の目標は現代の道具を媒体にした魔法の再現と、 平研究員からの昇格である。
自らの研究を進め、合間に先輩方からの質問に答える。昼頃に、ゼノンさん妹さんが、と声を掛けられた。
「どうしたの、ミラ。……届け物?」
「ええ。エレノア様のところに居たら、財物管理局の人も来て。丁度ここに返すものがあるって話していたから、預かってきたの」
扉からひょこりと顔を出したミラが、俺の机までやってくる。王城の侍女の服を着た彼女が差し出したのは、中型の水流による魔力循環機構の研究書だった。公の場では様を付けるようになった友人の名と共に、紙束を差し出される。
―――ラインハルトがエレノア嬢を連れ帰った時、熱烈な歓迎でもって彼女は迎えられたらしい。アルドゥールの王家の男の一途さはこの国の貴族には有名な話で、エレノア様に振られたならもうラインハルト様は生涯独身だったでしょう、とどこかで聞いた。
不敬と紙一重な話が俺の耳にも届くほどに、王城でのラインハルトのエレノア嬢への溺愛は有名だった。
エレノア嬢付きの侍女は、絶対にエレノア嬢を逃がすなラインハルトとくっつけろ、と彼の兄姉から厳命を受けているらしい。
エレノア嬢もその歓迎に元来の優秀さで応えているが、それでも彼女が一番うれしそうな顔をするのは、カミドニアから連れてきた友人と関わるときだった。エレノア嬢が喜べばラインハルトが喜び、エレノア嬢はミラのことでよく喜ぶ。エレノア嬢の侍女たちはあの手この手でミラを呼び出し、なんなら同じ侍女に勧誘している。
下働きならともかく王城の侍女なんて相応しい家柄も教養もないから、とミラは断固として断っているらしいが、いつからか侍女の仕着せを着せられているあたり、根負けするのはどちらだろうか。
ミラに無理強いしないならどちらでもいいが、と考えながら差し出された紙束を受け取る。
ふいに、彼女の視線が俺の机に向けられていることが気になった。
「どうしたの?」
「机の上の、書類が気になって……魔法語?」
「ああ、うん。今の俺の研究でーーーあの時の、リベンジかな」
同じ紙を覗き込む。俺の机の上の羊皮紙には魔法語と、それを囲う円や模様が書き込まれている。
ミラがアルドゥールの宝剣や着火板がなければ魔法を使用できないように、魔法を使用するには媒体が必要である、というのは魔法研究者の中では常識だ。
かつての時代は、身の回りのほとんどのものが媒体か魔道具であり、ゆえに簡単に魔法が使えた。そうして媒体や魔道具を作るにも、必ず魔法が使われた。
故に、殆どの魔法が失われた今は、魔道具あるいは媒体を作ることも出来ず、数百、あるいは数千年前の道具をそのまま使うしかない。カミドニアで催惑樹を滅ぼした時も、あの国中にあるだけの着火板をかき集めた。
催惑樹と戦ったあの時、媒体を加工だけではなく量産できたなら、もっと容易く樹を燃やせただろう、と思う。そうして魔道具は難しくとも、媒体ならば再現できないだろうか。
魔法語の組み合わせと、今まで学んだ知識と。樹を腕に生やしていたとき聞こえていた催惑樹の言語を魔法語に当てはめ、理論を作る。ただの紙とインクで着火板と同じことが出来ないか、というのが俺の研究内容だ。
そうなの、とミラは紙をぺらり、と持ち上げる。紙の端が揺れて、陣が描かれた中心が、光を放つ。
「「 え 」」
ぼう、と。
二人が見守る中、紙が燃えた。
現代の紙に、現代のインク。それが、彼女の魔法の媒体になった。催惑樹とも、ラインハルトの魔道具とも、着火板とも違う。
――――――現代世界で、魔法を再現した。
それは、まごうことなく。
頬を冷汗が伝う。白い炎は紙だけ燃やし、彼女の指先にわずかに残り、燃え尽きた。きょとんとした顔で、ミラは燃えた紙を見ている。そうしてふいに、顔色を悪くした。
「ご、ごめんなさい兄さま!燃やしちゃって、これ、研究につかう、とても大事なものよね……?!」
「…………これ自体は、ただの紙だから、何も問題ないよ」
けれど、これは。そうしてここで、魔法研究所の研究室で、それを起こすと。
前を見る。
―――研究所中の人間の視線が、ミラと起こった魔法に、向けられていた。
数十秒の、沈黙。
「ゼノンさん。………あの、その、妹さんは」
一人が口火を切った。ゆらり、と研究員たちが、こちらに近づく。
そうして。
「………ねえねえねえねえ今のどういう理屈?!」「ゼノンさんの紙ってこの間理論を話してくれた魔法陣よね?!同じ紙は残っている?それに妹さん……!ねぇあなたちょっと魔法研究所での仕事に興味ない!?」「にゅーうーしょく!にゅーうーしょく!」 「ミラちゃん、だっけ?カミドニアの聖樹は白い炎で燃えたって聞いたけれど、やっぱりあなたが関わっているの!?最初は殿下とゼノンさんがそうしたのかと思っていたけれど、今起こったのも白い炎だったし……。いとし子っていう文化?もカミドニアにはあったんでしょう?あの時の事、くわしく教えて!」「ちょっとこの研究手伝ってくれない?この棒にぐっと魔力をこめてくれるだけで良いから!!」「まあ待て、まずは研究同意書のサインが必要だろう?ほらこの紙と、ついでに隣の入職届にサインを、ほら早く」「ようこそ魔法研究所へ!ゆっくりしていってね」「でもこの子、確か王城の侍女じゃなかったっけ?」 「たーいーしょく!たーいーしょく!」
「―――――――――散れ!!!!」
餌を投げ入れられた鴨の群れのごとく迫りくる研究者達に、ミラは怯えた顔をして、そっと俺の後ろに隠れる。
ミラを背に庇って叫んだ。たちまち起こったブーイングに、知るか、と叫び返す。
素晴らしい知識欲をお持ちの方々だが、少々どころではなく倫理観に欠けたところもある。この人達の中にミラを放置すれば、瞬く間に研究同意書と入職届にサインさせられ、全身調べ尽くされかねない。
ーーー俺の、当面の目標は現代の道具を媒体にした魔法の再現と、 平研究員からの昇格、だった。
けれど現代の道具を媒体にした魔法の再現は出来たようだから、とりあえず今は権力が欲しい。
今先輩方を散らすためにも、ミラに選択肢を用意するためにも。
王城の侍女でも、魔法研究所の研究員でも、それ以外でもなんでも良い。この子がなりたいものになれるように、選びたいものを選べるように。
そのために、ちゃんとした立場とある程度の収入が欲しい、と思うのだ。
いま俺の服の裾をつまむ彼女が、何一つ不自由なく過ごせるように、幸せになれるように。
笑っているミラを見たい。出来れば、隣に居られれば嬉しい。
それが、俺がかつて望んだことであり、この先の人生でも、一番重要なことだった。




