第3話「路地裏の商談」
カカオマスの製造に成功してから半年。
季節は巡り、収穫の秋が訪れていた。
僕はこの半年間、ひたすらチョコレートの改良に明け暮れた。
課題は山積みだった。
まず、砂糖の問題だ。安価な黒砂糖では雑味が強すぎて、カカオの繊細な香りを殺してしまう。僕は父に頼み込んで、隣町まで荷馬車を走らせ、比較的高価な「白砂糖」に近い精製糖を手に入れた。お金は、森で採集した薬草を売って貯めたへそくりを全部つぎ込んだ。
次に、口どけの問題。石のすり鉢での手作業には限界がある。そこで僕は、村の鍛冶屋のオヤジさんに頼んで、簡易的な「石臼」を作ってもらった。粉を挽くためのものではなく、ペーストを練り上げるための専用設計だ。
動力は水車だ。
幸い、僕の家の近くには小川が流れている。僕は廃材を組み合わせて小さな水車を作り、それを石臼に連結させた。これで二十四時間、休むことなくコンチング(練り上げ)が可能になった。
村人たちは、川辺でゴトゴトと回り続ける奇妙な装置を不審がったが、ミナが「ルカの発明だから大丈夫!」と笑顔で説得してくれたおかげで、なんとか撤去されずに済んだ。
そうして出来上がったのが、『試作二十八号』。
艶やかな光沢(テンパリングにも成功した!)、絹のような滑らかな口どけ、そして白砂糖によって引き立てられた、上品で奥深い甘み。
これを持って、僕は町へ出ることにした。
目指すは、ここから馬車で二時間の場所にある商業都市「アルン」。
そこの朝市で、試験販売を行うのだ。
「気をつけて行けよ、ルカ」
出発の朝、父さんはぶっきらぼうにそう言いながら、荷馬車の御者にお金を渡してくれた。僕の分の運賃だ。
「ありがとう、父さん。……これ、お土産」
僕は包みに包んだチョコを父さんに渡した。
「……フン、甘いもんは苦手だがな」
そう言いながらも、父さんは包みを大事そうに懐にしまった。
隣では、ミナが大きく手を振っている。
「頑張ってねー! 全部売り切ってきてよ!」
「ああ、任せてくれ!」
僕は手を振り返し、荷台に乗り込んだ。
馬車が動き出す。見慣れた村の風景が遠ざかっていく。
初めての町。初めての商売。
不安がないと言えば嘘になる。心臓は早鐘を打ち、手には汗がにじんでいる。
けれど、鞄の中に入っているチョコレートの重みが、僕に勇気をくれた。
大丈夫だ。この味は、絶対に裏切らない。
アルンの町は活気に満ちていた。
石造りの建物が並び、通りには多くの人と馬車が行き交っている。市場には野菜や果物、織物や陶器など、様々な商品が所狭しと並べられていた。
僕は市場の管理人に場所代を払い、隅っこの小さなスペースを確保した。
布を敷き、その上に商品を並べる。
一口サイズに切り分け、綺麗な葉で包んだチョコレート。
看板には、炭でこう書いた。
『新作菓子・ショコラ 一枚・銀貨二枚』
ショコラ。この世界に馴染むように、響きの良い言葉を選んだ。
銀貨二枚は、一般庶民なら数日分の食費に相当する値段だ。ただの平民の子供が売る菓子としては破格の高値だが、高価な精製糖を使った原価と手間を考えれば、これでも利益はギリギリだ。
準備は整った。
あとは客を待つだけだ。
しかし――。
「……売れない」
太陽が真上に昇っても、僕の前で足を止める人はいなかった。
真っ黒な見た目が災いしているのだろう。「焦げているのか?」「泥団子か?」といったヒソヒソ声が聞こえてくる。
試食を出してみても、誰も警戒して手を出そうとしない。
「坊主、そんな泥団子に銀貨二枚だと? 正気か?」
隣で野菜を売っているおじさんが、からかうように声をかけてきた。
「違います。これはお菓子です。すごく美味しいんです」
「菓子だって? そんな黒いのがか? ハッ、世も末だな」
悔しさに唇をかむ。
見た目で判断されるのは予想していたが、ここまで見向きもされないとは。
その時だった。
「おい、そこの少年」
低い、しゃがれた声が聞こえた。
顔を上げると、一人の老人が立っていた。
仕立ての良い服を着ているが、どこか着崩していて、目つきは鋭いタカのようだ。手には豪勢な杖を持っている。
「はい、いらっしゃいませ!」
僕は慌てて立ち上がった。
「その黒い塊……。微かだが、嗅いだことのない香りがするな」
老人は鼻をひくつかせ、値踏みするように商品を見下ろした。
「はい! これはショコラという菓子です。カカの実という果実を加工して作りました」
「カカの実……? あの不味いオニノミか?」
老人は眉を片方上げた。知っているようだ。
「はい。でも、特殊な製法で苦味を消し、香りを引き出しました。だまされたと思って、一口いかがですか?」
僕は試食用の欠片を差し出した。
老人はしばらく僕の目を見ていたが、やがて太い指でチョコをつまみ上げ、口に放り込んだ。
噛み砕く音。
老人の眉間に刻まれていた深い皺が、一瞬で消え去った。
鋭い瞳が、さらに大きく見開かれる。
「…………ほう」
短い感嘆の声。
老人は杖をつき直し、姿勢を正した。
「滑らかだ。舌の上でほどけるように溶ける。それにこの香り……香ばしさの中に、花の蜜のような甘さと、果実のような酸味が複雑に絡み合っている。……そして何より、後味の余韻が素晴らしい」
的確すぎる食レポに、僕は驚いた。ただの通行人ではない。
「少年。これを全て買おう」
「えっ……全部、ですか?」
「ああ。全部だ。言い値でいい」
老人は革袋を取り出し、一枚の硬貨を取り出した。銀貨ではない。黄金に輝く、金貨だ。
「そ、そんなに頂けません! 銀貨二枚で……」
「馬鹿を言え。これだけの逸品、端金などで買えば俺の舌が笑われる。釣りはいらん、これは技術料だ。受け取れ」
老人は金貨を一枚、僕の手に握らせた。商品の値段の数倍、いや数十倍の価値がある。
「あ、ありがとうございます!」
「礼を言うのは俺の方だ。久しぶりに、心が震えるものを食った」
老人は商品を全て包ませると、最後にニヤリと笑った。
「俺はマルセル。この街の商人ギルドで、少しばかり顔が利く男だ。……少年、お前、もっと広い場所で勝負する気はないか?」
マルセル。その名を聞いた瞬間、隣の野菜売りのおじさんが「ヒッ」と息を呑んだのが聞こえた。
僕はゴクリと喉を鳴らす。
どうやら、とんでもない大物を釣り上げてしまったらしい。
「……あります。僕はこの菓子で、世界中を驚かせたいんです」
「いい目だ。気に入った」
マルセルは懐から一枚の名刺――羊皮紙のカードを取り出し、僕に渡した。
「来週、ギルドに来い。お前のその『ショコラ』について、もっと詳しく聞かせてもらおうか」
そう言って、老人は風のように去っていった。
手の中には、ずっしりと重い金貨。
そして、未来への切符。
僕は震える手でそれを握りしめ、空を見上げた。
やった。
第一歩だ。




