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異世界ショコラティエの甘い革命~チョコレートが存在しない世界でカカオを育ててバレンタインを流行らせます~  作者: 黒崎隼人


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2/12

第2話「香りの錬金術」

 一週間という時間は、永遠のように長く感じられた。


 その間、僕は一日に何度も小屋へ足を運び、木箱の中身をかき混ぜた。発酵を均一にするための「切り返し」という作業だ。


 蓋を開けるたびに、鼻を突く匂いが変化していくのがわかる。


 最初は甘酸っぱい果物の香りだったのが、次第にツンとした酢酸の匂いに変わり、やがてそれに混じって、ほのかに深みのある、大地の香りが漂い始めた。


 そして今日が、運命の乾燥初日だ。


 僕は小屋から木箱を運び出し、天日干し用の台の上に広げた。


 中身を見た瞬間、僕は拳を握りしめた。


 豆はふっくらと膨らみ、表面は美しい赤茶色に変わっている。ナイフで一つ割ってみると、断面には綺麗な筋が入っており、中心部までしっかりと色が回っていた。


「……成功だ」


 僕の声が、震えていた。


 発酵は完璧だ。微生物たちは素晴らしい仕事をしてくれた。


 だが、ここで気を抜くわけにはいかない。次は乾燥だ。水分を適度に抜かなければ、保存が利かないし、次の焙煎の工程にも進めない。


 太陽の下、竹ざるに広げた豆を丁寧に並べる。


 急激に乾燥させると豆が割れてしまうし、遅すぎるとカビが生える。空模様を常に気にしながら、手で優しく転がして、まんべんなく日光を当てる。


 その様子を、父のガンツが見ていた。


「ルカ、それが例のオニノミか」


 太い腕組みをして、父が近づいてくる。


 僕は作業の手を止め、姿勢を正した。


「うん。正確には、カカの実って呼んでるけどね」


「色は悪くねえが……本当に食えるのか?」


「まだ今は無理だよ。ここからさらに加工しないと」


 父は疑わしそうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。


 以前なら「農作業に戻れ」と怒鳴られていただろう。けれど最近の父は、僕の作業を黙認してくれている。


 それは僕が農作業の手を抜かなくなったからかもしれないし、あるいは僕の目に宿る真剣さに、何かを感じ取ってくれたからかもしれない。


「無理はするなよ」


 父はそれだけ言い残して、畑の方へ歩いていった。


 その背中を見送りながら、僕は心の中で感謝した。無関心や反対がないだけで、どれほど救われるか。


 乾燥作業は五日間続いた。


 豆の水分が抜け、一回り小さくなり、カラカラと乾いた音がするようになる。


 いよいよ、焙煎だ。


 ここからは香りの錬金術の時間だ。


 僕は台所のカマドに火を入れた。鉄製の分厚いフライパンを用意し、乾燥した豆を投入する。


 弱火でじっくりと、豆に熱を入れていく。


 木べらで絶えず豆を動かし続ける。焦がしてはいけない。けれど、芯まで火を通さなければ、あの香りは生まれない。


 パチッ、パチッ。


 豆が爆ぜる音がし始める。


 その瞬間、台所に劇的な変化が訪れた。


 煙とともに立ち昇ったのは、酢酸の匂いではない。


 それは、懐かしく、かぐわしく、そして圧倒的な存在感を持つ香り。


 チョコレートの香りだ。


「きた……!」


 目頭が熱くなるのを感じた。


 この世界に来て十四年。夢にまで見たあの香りが、今、目の前にある。


 それはまだ荒々しく、野生味に溢れているが、間違いなくカカオの香りだった。


 騒ぎを聞きつけたのか、母さんが台所に入ってきた。


「あら、ルカ。何か焦がしたの? ……って、何このいい匂い」


 母さんは目を丸くして、鼻をクンクンと動かしている。


「焦げ臭いけど……なんか、すごく美味しそうな匂いがするわね。香ばしくて、ちょっと甘いような」


「これがカカの実の本当の香りだよ、母さん」


 僕は興奮を抑えきれずに答えた。


 焙煎を終えた豆を冷まし、皮をむく。


 現れたのは、黒に近い焦げ茶色の中身。カカオニブだ。


 これを、すり鉢に入れる。


 現代の機械があれば一瞬でペースト状にできるが、ここにはそんなものはない。自分の腕と、石の重さだけが頼りだ。


 ゴリ、ゴリ、ゴリ。


 力を込めて、豆をすり潰していく。


 摩擦熱で豆に含まれる油分――ココアバターが溶け出し、次第に粉末がペースト状に変わっていくはずだ。


 しかし、これが想像以上に重労働だった。


 三十分も続けると、腕がパンパンになり、汗が滴り落ちてくる。


「くそっ……こんなところで……」


 腕の感覚がなくなってくる。それでも手は止めない。


 滑らかになれ。もっと滑らかに。


 そう念じながら、ひたすらすり棒を回し続ける。


 やがて、ザラザラしていた粉末が、ねっとりとした艶を帯び始めた。黒い液体のような光沢が、鉢の底に生まれる。


 カカオマスの完成だ。


 僕は震える指で、その黒いペーストを少しだけすくい、なめてみた。


 ……苦い。


 強烈な苦味と、酸味。そして豊かな香り。


 砂糖が入っていないカカオ100%の状態だから当然だ。現代人なら「ハイカカオ」として楽しめるかもしれないが、この世界の人にとっては毒に近い味だろう。


 ここに、砂糖を加える。


 手元にあるのは、市場で買ってきた安物の黒砂糖だ。精製度が低く、雑味が多いが、今はこれしかない。


 砂糖を細かく砕き、カカオマスに投入する。再びすり潰し、混ぜ合わせる。


 ジャリジャリとした砂糖の粒子が、次第にカカオの油分と馴染んでいく。


 粒子を舌で感じないレベルまで細かくするには、何十時間というコンチング(練り上げ)が必要だが、今はまず「食べられる形」にすることが先決だ。


 ある程度馴染んだところで、型に流し込む。型といっても、木を削って作った四角い枠だ。


 トントンと底を叩いて空気を抜き、冷暗所に置く。


 温度を下げるために、再び魔石を使う。今度は「吸熱」の特性を持つ水属性の魔石だ。これを箱の周りに配置し、簡易的な冷蔵庫を作る。


 固まるのを待つ間、僕は台所の床にへたり込んだ。


 全身の力が抜け、指一本動かせない。


 けれど、心は満たされていた。


 完成したのだ。


 この世界で最初の、チョコレートが。


 ***


 夕方になり、作業を終えたミナが遊びに来た。


「ルカ、いる? なんか家の中からすごい匂いが……」


 彼女が居間に入ってくると同時に、僕は冷やしておいた木枠を持っていった。


「ミナ、ちょうど良かった」


「え、何それ? 黒い……板?」


 ミナは不思議そうに僕の手元をのぞき込む。


 枠から外したそれは、少し歪で、表面もざらついている。市販のチョコレートのような鏡のような光沢はない。


 それでも、それは紛れもなくチョコレートだった。


「食べてみてほしいんだ。これが、僕がずっと作りたかったものだ」


 僕は一口大に割った欠片を、ミナに差し出した。


 彼女は少しひるんだ様子を見せたが、僕の真剣な眼差しに意を決したように頷き、その黒い欠片を口に入れた。


 一秒、二秒。


 ミナの動きが止まる。


 モグモグと口を動かし、そして、目が大きく見開かれた。


「……!」


 言葉にならない声が漏れる。


 彼女は口元を手で押さえ、驚きと喜びが入り混じったような表情で僕を見た。


「何これ……すごい」


「どう? 美味しい?」


「うん、美味しい! 美味しいよルカ! 最初はちょっと苦いと思ったけど、すぐに甘くなって、口の中でとろけて……こんなの初めて!」


 ミナの瞳がキラキラと輝いている。


「香りがすごいわ。口の中から鼻に抜けて、いつまでも美味しい匂いが残ってる。それに、食べると何だか、心が温かくなるような……」


 彼女は二つ目の欠片に手を伸ばした。


 その笑顔を見た瞬間、僕の苦労はすべて報われた。


 たった一人でもいい。


 誰かを笑顔にできるなら、それは立派な菓子だ。


 僕は安心の息をつくと同時に、強い決意を抱いた。


 いける。


 これなら、この世界でも通用する。


 まだ試作品だ。砂糖の質も悪いし、口どけも悪い。改良の余地は山ほどある。


 けれど、この「黒い宝石」は、必ず人々を魅了する。


「ミナ、もっと食べる?」


「食べる! 全部食べていい?」


「さすがに全部は食べ過ぎだよ。鼻血が出るぞ」


「えー、ケチー」


 笑い合う僕たちの横で、窓の外には一番星が輝いていた。


 小さな農村の、小さな台所から。


 甘くてほろ苦い革命が、今まさに始まろうとしていた。

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