第10話「審判の天秤と甘い奇跡」
領主の館は、重厚な石造りの威圧感で僕たちを見下ろしていた。
案内されたのは、天井の高い広間だった。磨き上げられた大理石の床に、コツコツと僕の靴音が響く。隣を歩くマルセルは、いつも通りの涼しい顔をしているが、その手が微かに汗ばんでいるのを僕は見逃さなかった。
部屋の最奥、一段高い玉座に座るのは、この地を治める領主・バルトロメオ伯爵だ。豊かな髭を蓄え、鋭い眼光を放つその姿は、歴戦の武人を思わせる。
そして、その傍らには、先日店に現れたあの神官が立っていた。
冷ややかな視線が、僕を射抜く。
「面を上げよ」
重々しい声が響き、僕は顔を上げた。
隣には、僕が作った特製の木箱を抱えたミナが、緊張で震えながら控えている。
「そなたが、巷で噂の菓子職人、ルカか」
「はい、左様でございます」
「ふむ。……神殿より、苦情が届いておる。『その菓子は人々を惑わせ、勤勉さを奪う悪魔の果実である』とな」
伯爵の視線が、神官へと向けられる。神官は恭しく一礼し、口を開いた。
「閣下。あのような黒い塊に、若者たちが熱中しております。甘美な味に溺れ、信仰を忘れ、ただ享楽にふける……これは由々しき事態です。あのカカの実と呼ばれていた植物は、かつて『忌まわしき実』として封じられたもの。それを掘り起こし、広めるなど、まさに異端の所業」
神官の言葉は、氷の刃のように冷たく、鋭かった。
僕は拳を握りしめる。
異端。その言葉の重みは、この世界では死に等しい。もしここで否定できなければ、店は潰され、僕たちは路頭に迷うどころか、罪人として裁かれることになる。
マルセルが口を開こうとしたが、僕はそれを手で制した。
これは、僕の戦いだ。
「伯爵閣下、反論をお許しいただけますか」
「許す。申してみよ」
僕は一歩前に出た。
深呼吸をする。肺の中に、冷たい空気が満ちる。
「神官様は、享楽とおっしゃいました。確かに、私の作る菓子は甘く、人をとりこにするかもしれません。しかし、それは人を堕落させるためのものではありません」
「ほう? では何だと言うのかね」
神官が鼻で笑う。
「それは、『絆』を深めるための触媒です」
僕はミナに合図を送った。彼女は震える手で木箱の蓋を開け、中身を伯爵に見せた。
そこには、一粒ずつ丁寧に金紙で包まれた、最高級のトリュフチョコレートが九つ、整然と並んでいた。
「食べていただければ、わかります。これはただの甘味ではありません」
伯爵は興味深そうに眉を上げ、従者に毒味をさせた後、一粒を手に取った。
口へと運ぶ。
カリッ、という薄いコーティングが割れる微かな音が、静寂な広間に響いた。
次の瞬間、伯爵の表情が固まった。
中から溢れ出したのは、とろけるようなガナッシュ。カカオの濃厚な香りと共に、地元で採れた果実のリキュールが鼻をくすぐる。苦味と酸味、そして深みのある甘さが、複雑なハーモニーを奏でていく。
伯爵は目を閉じ、吐息を漏らした。
その顔に浮かんだのは、怒りでも軽蔑でもなく、深い追憶の色だった。
「……懐かしい味がするな」
伯爵がポツリとつぶやいた。
「幼き頃、母上が作ってくれた木苺のジャムのような……いや、もっと洗練されているが、根底にあるのは温かさだ」
彼はゆっくりと目を開け、僕を見た。
「これが、悪魔の果実か?」
「いいえ、閣下。それは大地の恵みと、人の知恵が生んだ結晶です」
僕は真っすぐに伯爵を見据えた。
「神官様は、これが人を惑わせると言いました。しかし、見てください。街の人々は、この菓子を自分だけで楽しむのではありません。大切な誰かに贈るために、列を作っているのです」
僕は続ける。
「夫から妻へ。親から子へ。そして、秘めた想いを持つ者から、想い人へ。言葉にできない感謝や愛情を、この甘さに託して渡すのです。それが、どうして罪になるのでしょうか」
神官が顔をしかめた。
「デタラメだ! そのような習慣、教義にはない!」
「教義になくとも、人の心にはあります」
僕は声を張り上げた。
「『星神教』の教えには、『隣人を愛し、互いに支え合え』とあります。私の菓子は、その教えを形にしたものです。冬の寒さの中で、誰かを想って贈り物をする。その心の温かさこそが、神の御心にかなうのではないでしょうか」
広間が静まり返った。
神官は言葉に詰まり、顔を赤くして震えている。
伯爵は、手の中の包み紙を見つめ、やがてフッと笑みをこぼした。
「……一本取られたな、司祭殿」
「か、閣下!」
「よいではないか。民が互いに贈り物をし、絆を深める。領主として、これほど喜ばしいことはない。それに、この味……確かに、疲れ切った心には薬となる」
伯爵は二粒目を手に取った。
「ルカと言ったな。この菓子、我が領の名産品として認めよう。神殿へも、私から奉納品として贈らせてもらう。神も、たまには甘いものが欲しかろうて」
その言葉は、事実上の勝利宣言だった。
神官は悔しげに唇を噛んだが、領主の決定には逆らえず、不満げな表情で一礼して下がっていった。
肩の力が一気に抜けた。
へなへなと座り込みそうになるのを、マルセルが背中を叩いて支えてくれた。
「よくやった、ルカ。最高のプレゼンだったぞ」
小声でささやく商人の声は、珍しく震えていた。
ミナを見ると、彼女は涙を浮かべて、何度も頷いていた。
帰り道、馬車の中で、僕は窓の外を流れる景色を眺めていた。
雪解けの水が、光を浴びて輝いている。
「ねえ、ルカ」
ミナが僕の袖を引いた。
「あの時言ったこと、本当?」
「ん? どれのこと?」
「『秘めた想いを持つ者から、想い人へ』ってやつ」
彼女はいたずらっぽく笑いながら、けれど少しだけ頬を染めていた。
「……本当だよ。これからは、そういう日があってもいいと思うんだ。一年に一度、勇気を出して想いを伝える日が」
「ふうん。じゃあ、私も勇気を出さなきゃね」
「え?」
「なんでもなーい!」
ミナは笑って誤魔化したけれど、その横顔は、春の日差しのように明るかった。
こうして、僕たちのチョコレートは領主公認のお墨付きを得た。
それは同時に、この世界に新しい文化――『想いを贈る日』が正式に根付いた瞬間でもあった。




