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異世界ショコラティエの甘い革命~チョコレートが存在しない世界でカカオを育ててバレンタインを流行らせます~  作者: 黒崎隼人


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第1話「黒い実の森」

登場人物紹介


◆ルカ

現代日本でパティシエを目指していた記憶を持つ少年。貧しい農村の三男坊として生を受ける。前世の記憶にある「チョコレート」の再現に執念を燃やす。穏やかな性格だが、菓子作りに関しては一切の妥協を許さない職人肌。


◆ミナ

ルカの家の隣に住む少女。活発で心優しく、ルカの「謎の農業実験」を唯一応援してくれる理解者。甘いものが大好きだが、この世界には粗悪な砂糖菓子しかないため、ルカが作る新しい菓子に興味津々。


◆ガンツ

ルカの父親であり、厳格な農夫。作物を育てることの厳しさをルカに教える。奇妙な木のカカオに熱中する息子を心配しつつも、その熱意を静かに見守っている。

 湿った土の匂いが、鼻先をくすぐる。


 朝霧が立ち込める森の中は、ひんやりとした静寂に包まれていた。足元の枯れ葉を踏む音が、カサリ、カサリと小さく響く。


 僕はクワを肩に担ぎ直し、深く息を吸い込んだ。肺の奥まで冷たい空気が入り込み、眠気を優しく覚ましてくれる。


 この世界に生まれ変わって、もう十四年が経つ。


 ルカという名の少年として生きる毎日は、決して楽なものではない。ここは電気もガスもない、中世レベルの文明しかない辺境の農村だ。朝は太陽と共に起き、夜は月明かりの下で眠る。そんな素朴な暮らしの中で、僕にはどうしても忘れられないものがあった。


 それは、チョコレートだ。


 前世の記憶。パティシエとして厨房に立ち、温度と香りに神経を研ぎ澄ませていた日々。あの艶やかな黒褐色の輝きと、口の中で滑らかに溶けていく至福の甘み。そして何より、カカオだけが持つ、あの官能的で奥深い香り。


 この世界には、砂糖はある。小麦もある。牛から乳も搾れる。


 けれど、チョコレートだけが存在しなかった。


 似たような菓子すらない。王都から流れてくる噂話を聞いても、そんな黒い菓子の話は出てこない。どうやら、この大陸にはカカオ豆を食べる文化そのものがないようだった。


『ないのなら、作るしかない』


 それは執念に近い、渇望だった。


 僕は村外れにある雑木林の奥、大人たちが「苦味の森」と呼んで敬遠する場所へと足を向けていた。


 村人たちはこの森を嫌っている。ここに生える植物はどれも渋みが強く、薪にするくらいしか使い道がないからだ。しかし、僕はこの森の独特な植生に、ある可能性を感じていた。


 高温多湿な気候、日陰を好む植物群、そして何より、落ち葉が腐葉土となって積み重なった、栄養豊富な土壌。


 藪をかき分け、道なき道を進む。


 枝葉が腕を擦り、朝露が服を濡らすが、構わずに進んだ。


 やがて、目的の場所にたどり着く。


 巨大なシダ植物の陰に隠れるようにして、その木は立っていた。


 幹から直接、ラグビーボールを小さくしたような形の果実がぶら下がっている。赤紫色をしたゴツゴツとした皮は、まるで爬虫類のウロコのようだ。


 村では「オニノミ」と呼ばれている植物だ。中身はドロドロとした白い果肉に包まれており、そのまま食べると強烈な酸味とエグみがある。鳥ですら、あまり寄り付かない不人気な果実。


 だが、僕は知っている。


 このオニノミこそが、カカオの原種に近い植物であることを。


 僕は慎重にナイフを取り出し、熟して地面に落ちそうになっている実を一つ、切り取った。


 ずしりとした重み。


 手のひらに伝わる感触に、鼓動が早くなる。


「……待っててくれよ」


 誰に聞かせるわけでもなく、僕はつぶやいた。


 この殻の中に、宝石が眠っている。磨けば世界を変えるほどの輝きを放つ、黒い宝石が。


 僕はその実を麻袋に入れると、近くの倒木に腰を下ろした。


 ここに来るまで三年かかった。


 最初は、ただの子供のわがままだと思われていた。農作業の手伝いをサボって森へ行く僕を、父であるガンツは何度も叱りつけた。


「オニノミなんか集めてどうする。あれは食えたもんじゃねえぞ」


 父の言うことはもっともだ。実際、生のカカオ豆は渋くて苦くて、とても食べ物とは思えない味がする。


 けれど、僕は諦めなかった。


 農作業の合間を縫って森に通い、土壌を調べ、日当たりを観察した。野生のままでは収穫量が安定しないし、味もばらつきがある。だから僕は、この森の一部を勝手に開墾し、秘密の農園を作ることにしたのだ。


 邪魔な雑草を抜き、土を耕し、落ち葉を集めて肥料にした。水はけを良くするために水路を掘り、日差しが強すぎるときは大きな葉で覆いを作った。


 地味で、果てしない作業だった。


 誰も見ていない。誰も褒めてくれない。


 それでも、チョコレートの味が記憶にある限り、手は止まらなかった。


 ガサリ、と近くの茂みが揺れる。


 僕は反射的にナイフを構えたが、現れたのは見慣れた茶色の髪だった。


「あ、いた。ルカ、またこんなところにいたの?」


 ひょっこりと顔を出したのは、隣家のミナだった。


 彼女は手籠を腕にかけ、少し呆れたような、それでいて親しげな笑みを浮かべている。


「ミナか。驚かせないでくれよ」


「ごめんごめん。でも、ルカが朝からいなくなるから、おばさんが心配してたよ。朝ごはん、まだでしょ?」


 そう言って、彼女は籠から黒パンとチーズを取り出した。


 ミナは僕の秘密を知っている数少ない人間だ。といっても、僕が異世界から来たということは知らない。ただ、僕が「オニノミ」を使って、誰も食べたことのないお菓子を作ろうとしていることだけを知っている。


「ありがとう。ちょうどお腹が空いてたんだ」


 パンを受け取ると、ミナは僕の隣にちょこんと座った。


「で? 調子はどうなの? その……カカの実、だっけ?」


 僕はオニノミのことを、前世の記憶に倣って「カカの実」と呼んでいた。


「悪くないよ。今日収穫したやつは、今までで一番色が濃い。たぶん、熟成度が高いはずだ」


「ふうん。私には、ただの不気味な果物にしか見えないけどね」


 ミナは肩をすくめたが、その瞳には好奇心の色が混じっている。


 彼女は村一番の甘党だ。祭りの日だけ市場に出回る、砂糖を固めただけのザラザラした飴玉でさえ、宝物のように大切になめる。


 そんな彼女に、本物のチョコレートを食べさせてあげたい。


 滑らかで、香ばしくて、心がとろけるような本物を。


「見ててよ、ミナ。絶対に美味しいものに変えてみせるから」


「はいはい、期待してるわよ、未来の大菓子職人さん」


 ミナは笑いながら、僕の背中をバンと叩いた。


 痛くはない。むしろ、その手の温もりが、冷えた体にじんわりと染み渡るようだった。


 僕はパンをかじりながら、目の前に広がる森を見つめる。


 この世界にはまだ、バレンタインデーなんて言葉はない。


 愛や感謝を、甘い菓子に込めて贈る習慣もない。


 なら、僕が始めればいい。


 この森から。この一粒のカカの実から。


 まずは収穫した実の発酵だ。ここからが本当の戦いになる。カカオ豆は、ただ収穫しただけではチョコレートの香りを持たない。発酵というプロセスを経て初めて、あの芳醇な香りの前駆体が生まれるのだ。


 失敗すれば、ただの腐った豆になる。


 成功すれば、魔法への入り口が開く。


 僕は残りのパンを口に放り込み、立ち上がった。


「よし、戻ろう。今日は忙しくなるぞ」


「手伝う?」


「いや、今日は臭くなるからいいよ。発酵作業だからね」


「う……またあの酸っぱい匂い?」


 ミナは顔をしかめて鼻をつまむ仕草をした。


 その反応も無理はない。発酵中のカカオは、強烈な酢のような匂いを放つ。村の人たちが怪しむのも当然だ。


 けれど、その匂いの先にこそ、奇跡があるのだ。


 僕は麻袋を担ぎ、ミナと共に村への道を歩き出した。


 朝日が木漏れ日となって降り注ぎ、僕たちの足元を照らしている。


 長く険しい、けれど甘美な挑戦の道のりが、ここから本格的に始まろうとしていた。


 ***


 納屋の裏手、人目につかない場所に作った小さな小屋。


 そこが僕の研究所だ。


 中には自作した木箱が並んでいる。通気性を考え、底にはスノコを敷き、側面には小さな穴を開けてある。


 僕は収穫したカカの実を割り、中の白い果肉ごと豆を取り出した。これを木箱に入れ、バナナの葉によく似た大きな葉っぱで蓋をする。


 ここからの温度管理が命だ。


 低すぎれば発酵が進まず、高すぎれば豆が死ぬ。


 この世界には温度計がない。頼れるのは自分の感覚だけだ。


 手のひらを木箱にかざし、中の熱を感じ取る。


 まだ冷たい。


 僕は小屋の隅に置いてある、小さな魔石を取り出した。これは生活魔法具に使われる安価な石で、わずかな熱を発するだけのものだ。普段は冬場に足元を温めるために使われるが、僕にとっては重要な温度調整装置だった。


 魔石を箱の下に配置し、位置を微調整する。


 じんわりとした温かさが伝わってくるのを確認して、僕は小さく息を吐いた。


「……頼むぞ」


 祈るように箱を見つめる。


 微生物たちが働き、糖分を分解し、熱を生み出し、豆の成分を変化させていく。目には見えないミクロのドラマが、この箱の中で繰り広げられるのだ。


 扉の隙間から、一筋の光が差し込んでいた。


 空中に舞う塵が、光の中でキラキラと輝いている。


 それはまるで、まだ見ぬチョコレートの粉雪のようだった。


 僕は静かに小屋を出て、扉を閉めた。


 一週間。


 それが、最初の答えが出るまでの時間だ。

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