第九話
木造りの夜景を歩く。
到着したのは野外ステージから扇型に広がる空間であり、ステージ上では大勢が楽器の調整をしている。弦が二本のひょうたん型の弦楽器や、手を小手のようなもので覆って叩く太鼓。ホルンに似た木管楽器もある。
睡蝶はまずテントの方に行き、整理券を一枚貰ってくる。
「これでいいネ。始まるまで少し時間があるから。本をあたっとくネ」
「料理に整理券が出るのか、よほど人気なんだな」
丸テーブルに差し向かいで座り、睡蝶はいくつか本を紐解く。ユーヤが題名を追ってみれば、宮廷所蔵の美術品について、公文書館での書物の扱いについて、それに書簡集など。
「これは王立博物館の館長の書簡集ネ。本というより公文書で、貸し出し不可だったけどまあそこは何とか」
どうにかして盗み出したのだろう。別にユーヤにそれを咎める気もなく、睡蝶も悪びれる様子はない。
睡蝶はパラパラと素早くそれをめくる。
「でもなんかダメそうネ、仕事についての話はほとんどなくて、友人との美術談義が多いネ」
「すごいな、そのペースで読めてるのか」
「これでも七十七書を極めたネ。このぐらいの本は10分で片付けるネ」
よく見れば勉強している学生も多い。確かに祭りの時期ではあるが、それとは別に学生としての営みも粛々と行われているようだ。ユーヤとしては目立たなくて済むと安堵するところである。
「七十七書……それは何なんだ?」
睡蝶は伊達眼鏡を鼻のあたりに下げて、ユーヤをちらりと見て言う。
「世界で最も権威ある書。ラウ=カンの誇りとされてる書籍群ネ。古代から現在までで特に価値がある本を選定したもので、自然科学や政治学、芸能から昔話まで網羅してるネ。公的試験はすべてそれから出題されるネ」
「あれだな、科典とか言ってたやつ」
「そうネ、おもに役人になるための試験。世界最高難度とも言われる試験で、高級官僚になるための課程は競争率数千倍とも言われるネ」
空を見上げて指を振り、物語を語るように話す。
「かつては貴族に独占されていた高級官僚の地位を、広く一般に開放したネ。ゼンオウ様が若かりし頃に打ち出した制度で、以後80年あまり、優秀な人物がたくさん登用されたネ」
「そうなのか。あのゼンオウ氏が始めたことだとは……」
思えば、この大陸は130年ほど前まで大乱期と呼ばれる混乱の時代があった。それを終結させ、大陸を支配したのが妖精の王であるという。
ゼンオウ氏は公称100歳以上。クイズと妖精の支配する時代にあって、その大半を見てきた人物と言えるのか。
「天才とか神童と呼ばれる人でも八割が限界だけど、実は過去に満点を取った人物が二人いるネ。ちなみに12科目で1750点が最高点になるネ」
「もしかして、君か」
「ふふん、そう、私と劉信ネ。私は非公式な試験だったけど、劉信が満点を取ったときは新聞にも載ったネ」
「すごいな……七十七の書籍というとかなり広い範囲なのに」
「「草目聞記」なんかは全十八巻、2000ページ以上あるネ。だから七十七書の総体は膨大な量になるネ」
「……その若さで、本当に大したもんだ」
音楽が始まる。
伝統的な楽器を使いながらも、リズムは躍動的で音色は鮮やかだった。光と音の乱舞が、ユーヤたちのテーブルまで届いている。
空を舞う妖精たち。拍手と声援の重なり。ユーヤの知るどんな音楽とも違う、それでいてどこか懐かしい心地。
特定の何かへの郷愁ではなく、大学時代という黄金色の時間。かつて自分にもあったはずの熱気に満ちた時代。それを思い起こすための心の震えだろうか。
「ゼンオウ様は言ってたネ。お前は完璧だって」
「完璧……」
「そう、何一つ欠けることのない満月のような人間。ゼンオウ様はそういう理想の人間を求めていた。私はゼンオウ様の求めるままを完璧に満たした。だから妻となれたネ」
――完璧なんて
瞬間。頭の奥に走る痛み。
心臓が余分に鼓動を打つような。息を吸いながら吐くような不安定な身体感覚。
――完璧なんて存在しない
――人間がどれだけ学んでも、この世界の情報を知り尽くすことなんかできない
――だから私は絶望している。それでも学ぶことを、知ることをやめられない自分に
――ただひたすらに、絶望している……
「ユーヤ、どうしたネ?」
「……いや、別に」
幻想は色濃く、それでいて一陣の風のように一瞬のことだった。もう風景は祭りの夜に戻り、耳には心地よい音楽が、目の前には睡蝶がいる。自分が何の幻を見ていたかの記憶すら、夜風に吹き散らされそうになる。
「なんだか、完璧、というイメージを何度も聞く気がするな」
「そうネ。ラウ=カンでは人はいつか黄金の繭に包まれ、完璧に至るとされる。だから完璧なものを求めるネ。だから完璧の象徴である黄金を大事にする。完璧な知性、完璧な容姿、そして万勝不敗のクイズ王」
王宮でも聞いた話だ。王は死ぬことがなく、山に入ってより高位の存在となる。
ユーヤの世界にも似たような話はあるだろう。生まれ変わりを繰り返して完全無欠な境地に至る。不完全な卑金属を、完全なる鉱物である金に変える――。
「ユーヤ!!」
耳元で大声を出されたので、びっくりして腰を浮かす。
「うわ、雨蘭」
確かにそれは双王の片割れ。コギャル風の格好で憤慨している。
「こんなとこで何をしておる! さてはこの女狐としけこむ気じゃったな!」
「しけこむ言うな」
ユーヤが突っ込み、睡蝶もがっかりした様子で本を閉じる。
「残念、見つかってしまったネ。でもよくここが分かったネ」
「ふふん、学食の料理長が大陸の七舌なことは有名じゃ。ユーヤを誘い出すならパンツかパンと相場が決まっておる」
「……前々から言おうと思ってたけど、君の中で僕はどんな奴になってるんだ」
と、そこで雨蘭はユーヤの目を見て、少し考えてから答える。
「ドスケベの化身……?」
「誰がだ! そんな事があったか今まで! 一度でも!」
「男などドスケベかムッツリスケベしかおらんじゃろ」
「……そう強く言い切られると反論が難しいが、とにかく変なこと言いふらさないでくれ……」
「はいはい、そんなことよりそろそろ料理が始まるネ」
睡蝶は広場の一角、テントが並ぶあたりを示す。何人もの人間が忙しそうに働いており、恰幅のいい女性が仕切っているように見えた。あの人物が七舌なのだろうか。
「あれが評判の膨月ネ、いい匂いがしてきたネ」
「ポンユエ……」
「その整理券は四人まで使えるんじゃろ、我も食べるぞ」
連れ立って店頭へ向かう。
それは鉄板で焼かれるクレープのような生地。ヘラを使って手際よく焼かれ、料理人の脇に積み上げられている。値段は5枚で120ディスケットだそうだ。
「一人前は10枚ぐらいネ、また並ぶのは面倒だから多めに買っておくネ」
「安いなあ、それじゃ3人で40枚ぐらい買おうか」
皿は陶器の角皿である。そこに極薄のパンケーキのようなものを大量に重ねて、三人は何やら人だかりのできてる方へ。
「これは……煮立ってるな」
それは大量に並べられた寸胴鍋のようなもの。上に網が置かれており、網目の大きさは1辺15リズルミーキほどである。鍋の下では炭火が燃えている。
「どうやって食べるんだ?」
「こうするネ」
長い金属製の箸。それで一番上の一枚を器用にすくい取ると、黄金色に煮立っていた壺にそれを突っ込む。そして箸を何往復か。
「あ、まさか、パンのしゃぶしゃぶ!」
「しゃぶしゃぶ? よく知らないけどこうやって泳がせてから引き上げるネ」
それは蜂蜜を煮たもののようだった。蜂蜜をそのように煮立てることも驚いたが、もっと驚いたのは引き上げた直後の生地である。
小麦色だった薄手の生地がボコボコと有機的に膨らむ。月面のようなカルメラ焼きのような。箸を押し返す勢いで膨張している。
そして立ったまま、大きく口を開けてかじってみせる。その食べっぷりが若々しいと感じた。
「うん、甘さ控えめの蜂蜜がよく合うネ。シュネス産の「金色砂丘」に違いないネ」
「熱で生地が膨れてる……。ポム・スフレみたいに生地の中の水蒸気が膨らむのか? それとも発酵の関係だろうか」
大きさとしてはどら焼き程度、食べてみれば軽くフワフワとしていて、いくらでも食べられそうに思える。
そしてよく見れば寸胴鍋の数は途轍もない。およそ百あまりの鍋がずらりと並び、内部に様々な色の液体がぐつぐつと煮えている。
料理人は10人以上。鍋をかき混ぜたり、炭を動かして火力調整したりで忙しそうだ。
「こっちのは野菜のポタージュか。こっちはチーズだな。魚介の匂いもする……。見たことない色のスープも」
「人が多いから気をつけるネ」
整理券を配られた理由を理解する。バイキングのように様々な鍋に生地を漬けていくので、一度に楽しめる人数に限界があるのだ。
鍋の上にかかった網は誤って倒れかかったときの安全のため。長い箸は網をすかして生地を挿し込めるように、と計算されている。
「こっちのは辛そうだな……お、こっちは甘く煮た豆のスープか。善哉みたいで懐かしいな」
あちこち目移りしてしまう。周りの学生は慣れているようだが、それでもこの膨月には心躍るものがあるのか、みな笑い合いながら鍋を選んでいる。
もしユーヤがもっと冷静なら、客の多くがカップルなことにも気づいただろうか。
「うん……でもちょっと食べづらいな。この長い箸は扱い慣れてないから」
「ふふん、ユーヤよ、この膨月には食べ方に裏技があるのじゃ、知っておるか」
「裏技……?」
それはさすがの職能というべきか、これをクイズと判断した瞬間に冷静さが訪れ、脳の奥から情報が引き出される。長い箸に関する寓話。
いわく、地獄の亡者は三尺三寸の箸を手にくくりつけられ、うまく食事が取れずに飢えて苦しむ。
しかし天国では、互いに食べさせ合うために飢えることはないという。
「あ、まさか」
そして視野の端でも捉えた。恋人同士が箸を絡めあってる姿を。
そしてはっと二人を見れば、どちらも野獣のような眼で箸を構える。
「ささ、ユーヤ、あーんするネ」
「いや待って、大丈夫自分で食べられるから」
「遠慮するでない。ほらこっちは嘛旺鳥の卵を溶いたスープじゃ。高級品じゃぞ」
「いらないから、やめてほんとに、もう精神年齢的にきついからそういうの」
があん。と。
巨大な音が鳴り響いたのがその時。
周りから歓楽の声が消える。戸惑いの気配。今の音が何だったのか正体を探しているのだ。
「おい! 壁が光ってるぞ!」
誰かが叫ぶ。見れば紫色の光が眼に入る。
それはシュテン大学を囲む壁。高さ3メーキから4メーキほどの高さのその壁で、頂点部分が発光しているのだ。
それは網膜の奥を刺すような、強い紫色の光。
「純紫衝精!」
睡蝶が声を上げる。そして周囲に広がるどよめき。
「それは何だ?」
「灰簾石……特に透明で紫の濃い石、タンザナイトと蜂蜜で呼べる妖精ネ」
「タンザナイトは、確かタンザニアの石という意味……ん、いや、そうか、自動翻訳が働いてるんだった。僕にそう聞こえてるだけか」
「あの妖精は半径1メーキ以内に接近した生物を、痺れるような衝撃とともに吹っ飛ばす効果があるネ。一度呼び出すと100時間ほど有効だから、防犯のために使われたりするネ」
よく見れば、線状の光に思えたのは無数に並んだ光球である。距離があるために見えないが、その光球の中に妖精がいるのだろうか。
雨蘭がぐるりを見渡して言う。
「シュテンを囲んでおるぞ! 信じられん。タンザナイトはそこまで高価な石ではないが、いったい何万匹呼んだのじゃ!」
「シュテンの塀にそういう仕掛けがあるのは知ってるネ。塀の中に石と結晶状の蜂蜜が埋め込んであって、どこかで一斉に呼び出せる……。このシュテンは何かあったときに要塞になる、と聞いてるけど……」
があん、とまたどこかで音がする。
今度は多くの者が気づいた。大通りの果てにある門で、巨大な鉄扉が降ろされたのだ。それは巻き上げ式になっており、音からして相当な重量があるようだ。
「ラジオを!」
空にいんいんと響く音。微妙に歪んでいる。どこかで拡声の妖精を使っているのか。
「ラジオを広播太声に合わせろ! ラジオがない者は静かにして耳を澄ませろ!」
襟をかがる赤い当て布。学朱服の男たちが大声で叫んでいる。周りの学生たち、あるいは残っていた観光客などは、逆らいがたい気配を感じてラジオに集まる。
そして、あちこちから流れ出す、その声は。
『――シュテン大学を封鎖した』
『繰り返す。我々は虎窯。シュテン大学を封鎖した……』




