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第七話 (過日の2)





草森葵という人物が何回生であるのか、どんな学部に所属して、どんなことを専攻しているのか、七沼は聞いたことがなかったし、彼女が語ることもなかった。


――草森と呼ばないで。


要求されたことはそれだけ。あまり好きな名字ではないという。


いつの事だったか、世田谷区にある図書館で草森と出会った。そこは雑誌専門の図書館であり、一万種類以上の雑誌を収蔵している。

閲覧室の彼女は机に雑誌を詰み、無造作にページをめくり続けていた。


「葵さん」


呼びかけると彼女はこちらを見て、眼鏡をかるく持ち上げてから微笑む。


「七沼くん、クイズの調べもの?」

「ちょっと芸能問題のウラ取りに……それは?」


置いてあった表紙を見る。マンホールと下水道についての雑誌らしい。


「変わった雑誌だね」

「そう? 割と発行部数多いのよ」


積んである雑誌を手に取ってみる。新興宗教について、刑務所について、塗装技術について、SM風俗について……。


「なかなかディープな雑誌だね……あるってのは聞いてたけど」

「知らない世界に触れられて面白いよ」


草森葵を知る人たちは、彼女こそ正真正銘の乱読家だと思っている。一日の読書数が己の身長を超えるとか、本の重みで家を倒壊させたとか、そんな噂で語られる存在。


「そっちのリュックは? なんだかぎっしり入ってるけど」

「これ? ビデオだよ。図書館の帰りに返却する予定なの」


しかしそれだけではない、と七沼は思う。

彼女は映画マニアでもあり、漫画好きでもあり、スポーツファンでも、政治通でもある。およそ彼女の興味をひかないものは世界になく、可能な限りそれを吸収し、知っておこうとする。生きている時間のすべてを使って、考え得る限りの効率で。


「……もしかして、昨日も遅くまで見てた、とか?」

「うん」


それは少しの後ろめたさと、気まずさの混ざった「うん」だったと感じる。おそらく徹夜だったのだろう。彼女がどのぐらい寝ているのか、一日にどれほどのメディアを吸収しているのか誰にも分からない。


「……ビデオ、僕が返しておくよ。重そうだし」

「悪いよ」

「いいから」


半ば強引にリュックを掴む。持った瞬間に肩が抜けそうなほど重かったが、やせ我慢して背負う。


「葵さん、あまり無理をしないようにね……体が一番大事だから」


あまり人のことは言えないという自覚はありつつ、そのように言う。草森葵は曖昧に笑うのみだ。


「しょうがないの。知識欲って言うのかな、それが止められなくて。何かを知り続けてないと世界から置いていかれるような気がして、そう考えると眠くもならないし、集中できるし」

「葵さん」

「分かってるよ、ちゃんと寝るから」


草森葵とは何者なのだろう、と七沼はいつも思う。

彼女はクイズの大会に出たこともないし、クイズ番組にハガキを出したこともないという。誰にも負けぬ知識を持っているのに、それを誰とも競い合おうとしない。


あるいは、それは知識人の本来の姿なのか。

マニアとは誰にも知られず、誰にもひけらかさず、己の興味だけを追求し、埋没していくのか。


「葵さん……だから自分はクイズ戦士じゃないって言ってたの? 興味の対象が、クイズ的な知識だけじゃないから。あらゆるものに向いてるから」

「……そうだね。でも、それだけじゃない」


草森葵は立ち上がり、七沼をそっと盗み見る。度の強い眼鏡の奥で、その瞳は大きく、そして揺らめいて見えた。


「私は決して、テレビに出てはいけないの。誰の目にも触れてはいけない。どんな褒賞を得て、どんな未来に進むかは家が決める、そういう家なの」

「……! そんな! もう昭和じゃないんだよ! 今どきそんな家なんて」


閲覧席にいた何人かの視線がこちらを向く。七沼は構わず言いつのろうとしたが、草森が静止する仕草をとる。


「私は、特別な家の子だから……」


そして蚊の鳴くような声で、わずかに呟かれる名。

草森ではない家名、しかし七沼はもちろん、この国のほとんどの人間が知る名前。


「……まさか、そこの娘だっていうのか。いや、だからって……」

「七沼くんには、分からないよ」


そして草森は雑誌の束を持ち、それを書架へと戻しに行く。


七沼には何も言えない。

身分違いという言葉がまだ生きているのか。

家に縛られる人生に干渉することは可能か。


何も知らない。

何も分からない。


この世の理不尽さと戦うには、七沼はまだ、あまりにも若かった――。







目にも鮮やかな朱色の門と、その両側に続く朱色の板塀。それが大学をぐるりと囲んでいる。


塀は分厚い樫材であり、高さは3メーキ以上。頂点部は三角に尖って乗り越えられぬようにできている。門の数は少なく、ユーヤたちの入る正門は黒山の人だかりだった。


「すごい人だけど、いつもこうなのか?」

「今は学祭の時期だから特に多いネ。入る側は真ん中、出る側は外側を歩くネ」


そして門をくぐれば、一気に喧騒のパノラマ。

大通りの両側に屋台が並んでいる。焼き菓子に風船、飲み物の屋台にお面売り、輪投げにトカゲ釣り、クイズを出してる店もある。

学生の他に家族連れや、海外からの旅行者などもいて、人の波はまさに岩を打つ荒波のごとく。三人がしっかりと固まっていなければ、すぐにばらばらにはぐれてしまいそうだ。


「ふむ、これが華虎祭ファンフーツァイか。映画で何度か見たが、実際に歩くとより一層うるさいのう」


カーディガンを腰に巻いた少女、双王こと雨蘭ウーランは物珍しそうにしている。ユーヤとてそれは同様だった、睡蝶スイジエについていくだけで精一杯である。


ちょっとした広場には大道芸人がいて芸をしている。教室でも催し物があるらしく、案内看板やポスターが無数に並んでいる。紙の花などで自らを飾った男女が両脇から客寄せの声を投げてくる。


「すごい人出だな……よりによってこんな時期に学祭なのか」

「学祭は年に三回あって、今は華虎祭ファンフーツァイの祭りネ。妖精王祭儀ディノ・グラムニアの終了と同時に始まって一か月続くからしょうがないネ」

「……もしかして、年に三か月はこんな感じなのか?」

「パルパシアでもそんな感じじゃぞ。祭りは何度やっても良いものじゃ」


どうも行く先々で祭りやイベントに出くわしてる気がする。この世界はやたらと祭りが多いようだが、生活に余裕があるからだろうか。それとも気質の違いだろうか。


「うわ……あっちの子とかすごいな、水着じゃないか。あんな格好で出店でみせやるのか?」

「あれは大人のお店の客引きネ、シュテンの南西部に歓楽街があるネ」

「確認するけど大学だよな?」


やがて大通りを過ぎ、いくつか大きな教室棟の脇を抜ければ、学生らしき男女が増えてくる。帯でまとめた本の束を持っていたり、飲食店の軒先で何かの議論に興じてる光景に妙な懐かしさがあった。


「だから虎窯フーヨウは虎を煮込んだ鍋のことだよ。強いものがさらに虎を食らって強くなるという表現だ」

「いや虎が煮込まれたような黄金色の鍋のことだろ。金彩きんさいようといって内部に高貴で神秘的なものが潜んでいるという比喩で……」


「ゼンオウ様は姿が見えないけど、やはり病気なのかな」

「噂ではご乱心のがあるとかで、南澄ナンチュンの離宮で静養に入ったとか……」


そんな会話を聞きつつ歩く。

やがてたどり着くのはシュテンの東の端。朱の板塀を背負って、でんと構えるのは二階建ての木造の寮である。入り口わきに井戸があり、洗濯物がいくつか干されている。屋根は四種類の瓦が組み合わされた独特の模様、窓枠には細かい彫りものが、庭の飛び石は亀の形に彫刻されていた。


「ここネ、この星丘寮シンチウリャオにしばらく逗留するネ」

「なんだか温泉宿みたいだな」

「ここは賃貸型の寮ネ。短期留学のためとか、遠くから模試のために紅都に来た人が利用するネ。最低限の家具もあるはずネ」

「ウィークリーマンションみたいなものか……どうりで宿みたいだなと」

「まあ何でもよいわ、荷物を置いてさっそく祭りを見て回ろうぞ!」


と、脇を見て足を止める雨蘭。見た方向に誰もいない。


「? どうしたんだ?」

「……いや、合いの手を打ってくれる相方がおらぬので、なんか調子狂うというか……」

「珍しいネ、双王にもそういう事あるネ」

「パンツが右半分しかないような感じじゃ」

「そんなもの想像したの生まれて始めてネ」


ともかく、双王は活を入れるように胸を張る。


「まあ良い! とりあえず部屋を確認してから祭りじゃ!」

「夜はパレードもあるらしいネ、生で見るのは初めてネ」


調査という自覚があるのか無いのか、雨蘭と睡蝶はそのまま中に入っていく。

ユーヤも後に続こうとしたが、つと入り口で立ち止まって周囲を見る。


ごみごみした入り組んだ町並み、増設と改修を繰り返した建物。歴史があるというより、生命のうごめきに似ていた。それは何かしらのツケを押し付けられたような、このシュテン大学の膨張に追いやられ、端の部分が小さく畳まれたさまを思わせる。


ふと視線が一箇所で止まる。

井戸で何かを洗っている子供がいたのだ。手押し式のポンプからは控えめに水が出ていた。


「それは……」

「ん、なんだよ、やらねえぞ」


その子供はシャツ一枚にすりきれた短ズボンという姿であり、木のタライで茶色い筒状のものを洗っている。


「それ、たしか渗透脆シェントゥツァオ

「違う、これは水脆スイツァオだよ」


井戸水はびしりと冷たそうで、その中で少年の細腕が動く。茶色い筒状のパンからはわずかに色のついた水が流れ、排水用の溝を流れていく。


「料理じゃないの?」

渗透脆シェントゥツァオってのは元々スープをしたパンってのは知ってるだろ、これがそうだよ。料理屋はふつう捨てるけど、よく洗えば食えるんだよ」


確かに、城で食べたものはスープを濾した残りではなく、最初からスープを染み込ませた一品料理だった。ではこれが本来の姿なのか。


「……ねえ、一口だけ売ってくれないかな」

「なんだよ、物好きだな」


少年は大げさにため息をついて、ユーヤが差し出した小銭を受け取ると、パンの一部をちぎって渡す。

水を含んだ綿のような手触り、口に含むとまずじゃりっと舌に来る苦味がある。

そして他に何もない。イカダの下を泳ぐ魚のようなパンの気配。隣に座る嫌な上司のようなしつこい苦味。そして皮のわずかな噛みごたえ。


「うん……なかなか」

「強がるなって、うまいわけないだろ」


ユーヤは頭を掻いて苦笑する。


「ところで君は……シュテンの学生?」

「はあ??」


言われた少年は目を丸くする。まさかそんな問いかけをされるとは思わなかったのか、どれだけ世間知らずな男かと憐れみの表情すら浮かべた。


「あのな、シュテンには色々なやつが住んでんだよ。何せ食いもんが豊富だからな」

「そうか……ここは一つの街だったね」

「そうだぜ、クイズに強ければのし上がれる街だ」


クイズ。

それが世界の隅々まで浸透した世界とはいえ、唐突に出てきた言葉にはっと意識が鮮明になる。


「クイズ……クイズが強ければ、得なことがあるんだね」

「もちろん! 俺もいつか、のし上がってやるさ、「三悪さんあく」みたいにな!」

「三悪?」

「そうさ! 圧倒的なクイズの実力者って聞いてる。端っこに住んでる連中にとっちゃ伝説だよ」


少年はユーヤの肩越しの方向を指差す。その方角はシュテンの北西。ユーヤの記憶では確か、学生の集団に占拠されてるあたり。


「詳しくは知らねえけど、三悪がシュテンを、いや、ラウ=カンって国を変えてくれるって聞いてる。もっとずっと大勢に開かれた学校になるってな。俺たちみたいな貧乏人も学校に行けるようになるって、そのためにゼンオウ様と交渉してくれてるって」

「……そうなのか」


じゃあな、と少年は濡れたパンを抱え、とっとと走り去ってしまった。引き止める暇もない潔い別れである。


「……三悪、か」


西を眺めれば、中天の丘を越えた太陽が西の空にかかっている。


地平線の果ては赤の線。大学をぐるりと取り囲む巨大な板塀が見える。


ここは閉じられた世界のようでもあり、変わりゆく時代の突端でもあるのか。

そんなとりとめのない思考に満たされつつ、ユーヤも寮へと入っていった。


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