第四十七話
群衆の歓喜は止むことがない、夜を昼に変えるような激しさで高まり続ける。
「おめでとうございます、最後の凄まじいラッシュは圧巻でした。問題を用意した我々としても――」
司会者の声、観客の声、控えのテントから聞こえる仲間の声。
「負けた……この、私が」
それに混ざって、劉信の声が。
「なぜ……なぜです。体力を温存していたようには見えなかった。それに最後の数十分の押し、確かにあとから考えれば、あのタイミングで押せたかもしれない。しかし、あの精度で……」
滝の真下にいるような声の中で、劉信の声だけが不思議な存在感をもって聞こえた。睡蝶は上気した顔をそちらに向ける。
「分からないネ……だんだん、頭が冴えてきて、呼吸が落ち着いてきて、時間がゆっくり流れるみたいな境地に……」
「……そうですか、あなたは、やはり我々とは……」
その独白のようなつぶやきは、やがて僅かな笑いを含み始めた。
消耗しきった体で、片目を閉じるような顔のまま笑う。
「劉信……?」
「何が……何が神の力でしょうか。まるで不明瞭、不公平、不条理、不可逆、そして不完全! このような非力さで神を名乗るなど不遜の極み。なんという浅はかさ! だから妖精の王などにいいようにされるのです! 何たる醜態でしょうか! どれほどの人間が巻き込まれたことか!」
あちこちで声が上がる。
劉信の奇妙な様子のためではない。何人かが遠くを指差し、手を口に開けてわなないている。
その先を見れば、火柱が。
炎の柱が空を赤く染める。何かに惹かれているのか、その周囲を旋回するように妖精の群れが。
「! まさか! 妖精は対処できてたはずネ!」
「人心掌握術ですよ」
劉信が言う。学生たちはざわめきと混乱の中にいて、舞台だけが喧騒から切り離される。
「学生たちの心を操るなど造作もないこと。門を封鎖していた虎窯の学生たちに暗示をかけたのです。乾燥した藁に石炭、干し草、ルビーのかけら、赤蜥蜴のウロコなどを集め、今宵、日付が変わると同時に妖精を喚べと」
「ど……どうして、そんなことを」
「ゼンオウ様の勅命などもはや関係ない。もうこんな大学など要らない。負けた今となっては官位も要らない。すべて燃えてしまえばいい。あの地下も灰と瓦礫で埋め、何者も上がってこれぬようにする。それで初めて、私の胸の中に生まれた闇が、くろぐろとした憎悪がわずかに慰められるのですよ」
火の手は次々と上がっている。シュテンの東半分を埋め尽くすほどの勢いで。
「焼け落ちた木炭にも赤煉精は寄ってくる。もはや全てを灰と成すまで狂騒の止むことはない」
「劉信……」
睡蝶が、この文官について知っていることはいくらもない。
優秀な人物であり、おどけた振る舞いをすることで敵を作らず、高齢の役人たちとも上手く付き合っていた、その程度だ。
その男の中に、これほどの闇があったのか。破壊衝動が眠っていたのか。
己が作られた存在だったことが、それほどに耐え難かったのか。
怒るべきだと思ったが、感情が湧き上がってこない。胸をせり上がる感情は悲しみだけだ。
そしてもはや、言葉が意味を持つ段階は終わろうとしている。
劉信はもはや城には戻れない。戻すわけにはいかない。劉信と睡蝶が撚り合わされることが無くなった以上、劉信はどこにも行き着かない。彼はすでに、全てを失っている。
劉信との距離は果てしなく広がっている。もはや相互に理解することなど不可能なほどに。
「劉信」
せめて、最後に一言だけ。
この男に言葉を送ろう、そう思った。
「どうか死なないで。どこへ行っても、何が起きても、あなただけの幸せを見つけるために生き続けて」
「……」
劉信はそれをどう受け取っただろうか。
皮肉な言葉、幼稚な言葉、あるいは取り繕うような言葉と取られても仕方がない。
だが、今の一瞬。
睡蝶と目を合わせていた劉信は、一瞬だけ表情から激しさが取れた気がした。ほんの一秒ほど、子供のような顔で睡蝶と見つめ合えた、そんな気が。
劉信は顔を背け、回答台を離れて群衆の中に消えゆかんとする。もはやギャラリーもちりぢりに逃げていて、スタッフも火から離れるように走り去っている。
「……そこ、テントにいるネ、虎煌!」
「はい」
虎煌は多少驚いた様子でテントから出てくる。睡蝶は一度もこちらを振り向かなかったはずだが、なぜ自分に気づいたのか、という顔だ。
「他の虫たちはどうしてるネ」
「学内に散っていたはず。建物の解体や、妖精への対応を」
「対応してた学生たちを避難させたいネ。赤煉精を呼んだ学生も死なせるわけにいかない。あなたも協力してほしいネ。ここにいる人たちは私が」
「わかりました」
かつては虎の毛皮を被って威厳を出していた人物は、まるで一兵卒のように睡蝶に従っていた。一礼して燃え盛る大学へと駆けていく。
「ユーヤ、他のみんな、避難するネ、私についてきて」
呼ばれて、ユーヤたちもテントを出る。
「睡蝶よ、大変な燃えようじゃぞ……。火の粉がハイフウの街まで飛ぶのではないか?」
「ハイフウの緋色の瓦は火に強いけど、絶対に安全とは言えないネ……。でも今はとにかくシュテンを出るネ。あの火事ならさすがに門を開けるはず。西側の釉月門から出て」
出る、と言われて「三悪」は顔を見合わせる。
「いや……広場にいたほうが安全だろ、もし街に火事が起きたら」
「危険ネ。あの火は大きすぎる。この広場にだって草は生えてるし、燃えるものがなくはない。火そのものがこちらに来る可能性があるネ」
「火そのもの?」
「火災旋風……だな」
ユーヤが言う。
火災旋風とは大規模な火事の際、炎をともなう旋風が発生する現象である。その発生条件やメカニズムはユーヤのいた世界でも正確には分かっていない。ユーヤの記憶では、河川敷に避難していた民衆を襲った例もある。
「そう、火の竜巻。過去のいくつかの大火事……ブルギオール大火災などでも伝わってるネ。今はとにかく火元から遠くへ逃げたほうがいいネ」
「わかったわ、じゃあ私がみんなを誘導する、桃と陸も……」
猫がそう言い出したところで、睡蝶の首がふと動いて西を向く。
「……まずいネ」
「? どうしたの睡蝶」
睡蝶の姿が消える。
真上に飛んだのだ、と気づいたときには仕切りのロープを飛び越えていた。回答台に手をついて飛んだものか。
「ん、そういえば西のほうが騒がしいわね……何かあったのかしら」
「行ってみよう」
ユーヤはそう言って駆け出し。他の人々に追い抜かれつつ後を追った。
広大な大学とはいえ走れば狭い。数分で門のあたりにたどり着く。
西の門は縦横30メーキはある巨大さであり、柱には龍が巻き付くような彫刻、門には巨大な三日月の浮き彫りがあった。
集まりつつあるのは二万人の人間。まだ広範囲に散ってはいるが、門の前には千人以上集まっている。
「なんで開けないんだ!」
「ふざけんなよ! あの火柱が見えねえのか!」
誰かが怒号のように叫ぶ。
門をがんがんと叩く者もいる。
「だめだ! 開けられぬ! そこで待機せよ!」
門の向こうからは返答と、金属の触れ合うような音。
鎧を着た軍人がいるのだろう。その指揮官らしき人間が声を張り上げている。
「あの炎が見えねえのか! 火事なんだぞ!」
「この門の付近に燃え種はない! それより蜂蜜の蒸気が街に流れ出すのを防がねばならぬ!」
「やべえな、門を開けない気だぜ」
陸が背後の炎を振り向きつつ言う。火災は赤い外套をひるがえす魔王のよう。実際よりも遥かに大きく感じられる。
「私が交渉するネ」
前に出るのは睡蝶である。
しかし千人余りの目を血走らせた男たちが怒鳴っている、そこに踏み込む彼女を猫が止めようとしたが。
「退くネ!」
大砲のような、という形容すら浮かぶ声。学生たちが矢で打たれたように身をすくめる。興奮と綯い交ぜになってよろめく者すらいた。
振り返る学生たちは、ほとんど反射的に道を開ける。けして睡蝶から危険な気配が出ていたわけではないけれど、なにか大きくて丸いものに押しのけられるように道が開けた。
その門もまた赤。月を冠する門だけあって暗い赤だったが、それに手をついて声を放つ。
「聞いてほしい、学内にゼンオウ様がいるネ」
ざわめく気配。だが言葉は返らない。
「蜂蜜の蒸気は学内から出ている。門を開けたらありったけの藍晶を使って灰気精を呼ぶネ。それで蒸気は薄められる。火も消し止められるネ」
「し、しかし、我々の判断だけでは」
「火の手は限定的だけど火勢が強い。このままだと火の竜巻が起こる可能性があるネ。あれは身を隠しても逃げられない。高熱の空気が食道と肺を焼いて人を殺す。万が一起きたら何人死ぬか分からないネ」
背後の学生たちも息を呑む。門の向こうは明らかに悩んでいる様子が見えた。分厚い材木を隔てていながら、睡蝶の言葉に呑まれていると感じられたのだ。
だが。
「む……無理なのだ」
「なぜ……何なら学生たちが無理やり破ったことにすればいい、あなたの責任にはならないネ」
「あ……開けられぬのだ。この釉月門は外側へと開く両開き型だが、す、すでに外側から鉄杭を打ち込んである。こ、これを引き抜くだけで一時間はかかる」
ちい、と舌打ちの音。
「何本打ち込んだネ!」
「に、20本あまり。長さ3メーキの鉄杭を斜めに打ち込んである」
「おい、やべえぞ」
「ど、どうする、今から他の門に行くか」
「他の門は火の手が回ってる可能性があるし、どうせ同じように封鎖されてるんじゃ……」
そのような声を聞きつつ、睡蝶はさすがに汗をにじませ壁に額をつける。周りではざわめきが悲鳴に変わりつつある。
「……外にいる武官、そして兵士も、門から離れるネ」
え、と誰かが声を漏らす。
「今から門を破壊する。藍晶で妖精を呼ぶ用意をするネ」
「ど、どうするのだ。木槌や鋸で壊せる門ではないぞ」
「いいから退くネ、ずっとずっと、後方へ……」
睡蝶が構えを取る。
足を前後に開き、腰を落として右手掌を門にぴたりと当てる。柔らかな赤子のような手、手のひらを水のように門に密着。
「おい、掌底で壊す気だぞ」
「そんな馬鹿な……鉄杭で固定してるんだろ? 牛が体当りしたってびくともしないはず……」
「星羅八稈、気脈相通ず」
ぞく、と足の先から冷気が流れる。
それは戦慄だった。正体不明の威圧感が体を震わす。武の心得のないユーヤすらも。
「すなわち賢、琅、士、單、鳴、兎、空、円、星辰直列たりて星の惑わず」
ざり、と砂を噛む足。息を吸い、そして長く吐くことの三度。
集中が周りに伝播する。音は遠くなり、妖精の光は目に入らない。門の他には何も意識されないほどの集中。その厚みが、外に打たれた鉄杭の冷たさが、睡蝶の背中を通して感じられるような。
「……通星掌」
「――溌」
瞬間。
全員の目から、門が円形に消えたように思えた。
音と衝撃によって時間が飛ぶような感覚。気がつけば、門はやはり消滅している。
門を構成していた木材は粉砕され、鉄杭は地面ごと爆散して広範囲に飛散している。
門の向こうにはかなり距離を置いて軍人たちが見えた。みな鎧で武装していたが、多くは腰を抜かし、あるいは気を失って倒れている。
木片や鉄杭が当たったわけではないようだ、と見て、睡蝶は口を開いた。
「もっと……遠くへ逃げないと……危ないネ……」
がく、と膝をつく。
さすがに全精力を使い果たしたのか、その場に膝立ちになる。周りから学生たちが支え、他の学生たちが門を抜けて外へ出ていく。
「すげえ……! 信じられねえ!」
「こ……この厚みの木材をふっ飛ばしたのかよ、しかもあの子、さっきまで24時間……」
「と、とりあえず外に逃げるぞ、あわてるな、一気に通ろうとせずに……」
「……見事なものだな」
脇から聞こえたその声に、ユーヤがはっと目を向ける。
そして周りの学生たちも気づく。門を抜けようとしていた者も、いくらかは足を止めてしまう。
それは老人。
百余年を生き、このラウ=カンの王である人物。
ゼンオウが人々の間を進み出て、睡蝶の背後に立つ。王族だけが持つ気配に圧倒されてか、あるいは先程の睡蝶の掌底を見たためか、他の人間は近づけずに人垣を形成する。
睡蝶は左右から支えられつつ、ゆっくりと振り向く。
「……ゼンオウ、様」
「睡蝶よ、なぜそこまでする」
そのように言う。質問の意味も、なぜゼンオウがここにいるのかも、誰にもわからない。その脇を抜けて人々は門を出ていくが、皆が振り返ってその奇妙な光景を見ようとする。一秒だけでも。
「この大学がそんなに大事か。儂にとっては禁書管理地を隠すための蓋にすぎん。そしてあの火の手は儂の人生を焼き尽くす火だ。儂の人生とは恥を塗りつぶすことの繰り返しだ。過去も未来も混沌としている。目を覆いたい過去、否定がひそむ未来。何が正しいのか、どう考えるべきなのかも判然とせぬ。すべて消してしまいたいのだよ。楽になりたいのだ。それがそんなに気に食わぬのか」
「ゼンオウ様……」
よろめきつつ、睡蝶は立ち上がる。名もなき学生たちに支えられながら。
「ゼンオウ様、未来とはクイズのようなもの」
「……」
「あるいは過去も同じ。何が起きたのか、これから何が起きるのか、誰も正確には分からない。それはクイズにも通じる。何が出題されるか、自分は何を知っているのか、正確には分からない。だから備えている。毎日知識を蓄えて、早押しを研ぎ澄ましている」
「……」
「立ち向かうことこそが、未来」
ゼンオウは表情を変えない。ただ静かに睡蝶を見つめる。
「何も分からないことは恐怖ではあっても絶望ではない。限られた人生で、あらゆる不確定なことに立ち向かうのが人生。消してしまっては立ち向かうことも出来なくなる、だから……」
「わかった」
老王は袖のたるみの中に腕を入れる。じゃら、と音がして、取り出されるのはいくらかの青い石。
「それは……」
反応するのは近くにいたユーヤ。その一粒一粒があまりに大きいために、それを宝石として認識するのが遅れた。
おそらく、平均して200カラット以上。
大粒のアクアマリンを握り込んだ手が天に掲げられ、それに誘われるように妖精の影が。
「雨を降らせよ。天を黒雲で満たし、炎を鎮め、蒸気をかき消す、地を溢れさせるほどの豪雨を」
そしてゼンオウは振り向き、東へ、まだ火の手をあげる大学の方へ歩いていく。
「ゼンオウ様、待って――」
その睡蝶の言葉は途切れてしまった。
滝のような豪雨がシュテンの全域に降り注ぎ、声も、気配も、あらゆるものを雨一色に塗り込めていった。




