第四十五話
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「……睡蝶の成長」
つぶやくのは雨蘭。斜め前にいる老王は椅子に深く腰掛けたまま、老いてなお頑健な、あるいはかたくなな気配を背中から放つ。
「パルパシアの双王よ。ここから先の話においては、ある一つの告白が必要になる」
「……」
「ここまでこの国の内実を見てきたなら分かるはずだ。地上と地下にある城、虎の姿をした古き神、そこから見出されるものとは何か」
「……分かるとも」
奇妙な一瞬だった。
分かる、と言った瞬間に多くのことが繋がった気がする。心の奥では推測できていたのに、今の今まで目を逸らしていたような感覚。
「金様燈路だ」
老いたる王が山に入り、金の繭に包まれて高位の存在となるという話。ラウ=カンにおける一つの理想。
言葉が思考に先んじる。舌で紡ぎながら確信に至る。
あれは現実に起こっていること。
「ラウ=カンの代々の王は、魂を束ねた存在であると――!」
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華彩虎は地下の城に隠れるようになり、その精神は混迷の中にあった。
だが、百年ほど前まではまだ意思の疎通が可能だった。ラウ=カンの王に伝わっていた秘儀を行えるほどには。
先代の王が世を去るとき、儂とともに地下の城に降りた。
仙虎と相対し、儂は黄金の繭に包まれたと感じたのだよ。
だが、それだけだ。
己に変化が起きたとは思えなかった。記憶の混乱もなかった。ただ先王にはもう二度と会えないという感覚だけがあった。
今にして思えば、それこそが金様燈路、ラウ=カンに伝わる秘儀だったのだ。
随分と長い間、忘れていたのだよ。
思えば儂が学才に恵まれていたのも、人並み外れて長く生きているのも、金様燈路の影響やも知れぬ。
気づいた瞬間には衝撃ではあったが、それはただ驚いたというだけだった。儂は王であり、考えられる全てを持っていたのだ。生まれに秘密があろうと、今さらどうしようもない。儂の心ひとつに留めておけばいいと考えていた。
……そう、考えていたのだよ。睡蝶が育つまでは。
思い出すのは、暗く冷たい地下の城。
あらゆる書物が集められていた禁書管理地。
儂が数ヶ月ぶりにそこに降りたとき、睡蝶は図書室にいた。
あらゆる本を開いて、それを読みふけっていたのだよ。
乳母を任せていた者は放任がちで、睡蝶の行いに気を留めていないようだった。
儂は、睡蝶の目に知性の光を見た。
儂はいくつかの質問をして、睡蝶はその全てに明快な答えを返した。
信じがたいことだ、まだ7歳か8歳の子供が七十七書を極めようとしていた。
しかもその興味は留まるところを知らず、世俗的な本、物語の本、医学、数学、難解を極める哲学書、あるいは画集までに手を伸ばそうとしていた。
儂は戦慄した。
この儂が長い歳月をかけて至った場所に、その娘はわずか数年で達しようとしていたのだ。
もしそれが天稟の成せる業なら。
ごくまれに生まれうる人の可能性だと言うなら。
儂が……このラウ=カンの王たちが営々と紡いできたことはどうなる。
そうだ。
どうにもなりはしない。
この世で最も優れた者が王などと、誰もそんなことは考えておらぬ。王は血脈の果て、血筋あってのものだ。
儂は睡蝶の才を喜ぼうとした。あれが16を超えようという頃。出自を秘したまま我が妻とした。お前は儂の理想の人間であると、そう言ってな。
だが。
儂にとってのもう一つの誤算があった。
それは、あの王子。
ハイアード獅子王国に生まれた、あの王子の存在だ。
数年前。儂はようやくあの男の異能に気づいた。
あれもまた、何らかの超常により知力を得ている。
そして長い時間をかけて華彩虎から聞き出したのだ。妖精の鏡の存在を、ハイアードのそれが仙虎の力を宿していることを知った。
儂は絶望したのだ。
あの王子は、あまりにも格が違った。
ただ異能というだけではないのだ。その力を左右するのは、やはり人間としての器なのだと知った。
睡蝶と、あの王子と比べて、この儂のなんと矮小なことか。歴代の王たちの系譜のなんと浅ましく醜いことか。
神の力を借りてまで、なぜこんな思いをせねばならぬ。ラウ=カンの王の系譜とは何だったのだ。
……。
だから儂は、劉信らを作った。
まだ束ねる数が足りぬだけだと思おうとした。この数年で多くの人間を束ね、劉信を、虎煌を、甲虫を、羽虫を、鱗虫を、土虫を、糸切虫を作った。そしていずれはその全員を束ね、究極の一人を作ろうとしたのだ。このラウ=カンの王であり、世界の覇王たる完全無欠の一人を……。
だが、今年のことだ。
あの王子が妖精の世界に去ったと聞いた。多くの人間が鏡のことを知ったと。
もう間に合わぬ、そう思った。
この世界は妖精の禁忌を知った。それが幻想や伝説ではないことを知ってしまったのだ。
あの日、王子が世界から消えた日に、時代は切り替わってしまったのだ。
かつての王たちの侵した禁忌が、己に押し寄せるのを感じた。
いつか、誰かが地下の城に至るだろう。
仙虎に触れ、金様燈路の真実に触れるだろう。
それだけは、知られたくなかった。
それが最後の望み。
ラウ=カンを八十余年、治めてきた儂の、最後の望みがそれだったのだ――。
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「後のことは、お前たちの知っている通り」
ゼンオウは長い独白を終え、疲れ果てたような声でつぶやく。
「儂は過去の記録を根こそぎ焼こうとした。シュテンには地下の城を封印するための仕掛けがあった。あの蜂蜜の蒸気がそれだ。それを使ってこの大学を灰の山と成し、地下の城を完全に覆い隠そうとしたのだ。誤算だったことは、虎煌たちが勝手な動きをしていたこと。クイズサークルを乗っ取り、大学を封鎖して交渉など……」
それは彼らが自由意志を持って行動していた証拠。
あまり正確に言及できないのだろうか、その点についての言葉は少なかった。
「分かるか、異世界人よ、パルパシアの双王よ」
そして重い荷を持ち上げるように、ゆっくりと意図的な憤怒を浮上させる。
「儂が消し去りたかったのは全てだ。醜い過去。そして、未来という形容しがたいものを消したかった」
すべてを灰にしてでも。
その覚悟が眼球の奥に見えた。
「儂はすべてが憎く思えてきた。完全な存在に至るという金様燈路は不完全であり、大学に生まれる新しいものはやがて儂を追い抜いていく。過去の歴史も、未来の可能性も下らぬ。すべて灰にしたかった。何もかもが儂を責め立てるように思えて――」
ゼンオウは数度、咳をして背を丸める。
雨蘭からはその背は小さく見えた。大陸にその名を響かせる知の魔物。海千山千の妖怪と恐れられるゼンオウは、寒さに身を縮めるように見えた。汗ばむほどの夜であるのに。
「話はこれですべてだ」
ゼンオウは突き放すように言う。
「もう儂は何にも興味はない。この大学が焼け落ちるか守り抜くか、それは運命の天秤が決めること。若者だけで勝手にやればいい」
ユーヤの方も見ずに、淡々と言う。
「儂は山に入る。天梅雪峰に入って幾許かの余生を過ごす。後のことは……」
「ゼンオウ」
ユーヤが口を開く。その視線が、平行に並ぶ椅子の上でゼンオウのものとぶつかる。
「何だ、儂を告発でもしたいのか」
「四日前のことだ。虎煌たちが動き出し、この大学が封鎖されたあの日、僕は空気の匂いを嗅いだ」
「空気……?」
いくぶん警戒の構えを残しつつ、ユーヤの顔を見る。
「そうだ、あの時にこのシュテンは、いざというときに燃やし尽くせるように出来てると悟った」
「その通りだ。儂が作らせた仕掛けだ」
「あれを仕掛けた人間の意図を僕は想った。あれは、もう後戻りできない仕掛けなのだと。あの大学封鎖は、誰かが未来を諦めた瞬間なのだと悟ったんだ」
言われて、ゼンオウは数秒の沈黙を見せる。ユーヤが何を言わんとしているのか測りかねたのだろう。
「壁を守護する純紫衝精なら、動かしたのは虎煌たちだ。蜂蜜の蒸気を作動させたのは、儂の勅命を受けてとはいえ、劉信の意志だろう」
「関係ない。誰がいつ作動させようと同じことなんだ。あれは誰かが置いた滅びの意思、この事態の中枢にいる誰かの悲しみの象徴なのだと感じた」
「……そうかも知れぬな」
このシュテンがいつから歪んだのか。
いつからゼンオウの意思が干渉したのか。
あの仕掛けはいつからあるのか。
それは混沌としていて、この場の誰にも見通せないように思えた。シュテンはあまりにも奇妙で、入り組んでいて、順序立ててその成立を語ることは不可能にも思われた。
ただ一つ、滅びへと。
それに向かって傾斜していく、蟻地獄のような世界なのだと、二人の背後にいた雨蘭はかろうじてそんな理解をした。
「ようやく、分かった」
ユーヤが言い、雨蘭の意識がはっとそちらを向く。
「何が分かったのだ、異世界人よ」
「あのとき感じた悲しみの正体。このシュテンの中枢にいた意思。そして僕の目的」
「目的……」
「僕が救いたかったのは、あなただ、ゼンオウ」
目を見開く。
突飛な発言だからというだけではない。この異世界人の目には安堵があった。
それは、かろうじて間に合った安堵、ゼンオウにはそう感じられ、まさか、と即座に打ち消す。
「儂を……だと」
「あなたの話の中で、一つだけ疑問がある」
ユーヤは指を一本立て、そこに全員の意識を集めるように話す。
「森という女性はあらゆる書を読み、白納区と、地下の城の存在に気づいた。そこまでできた女性が、金様燈路には気づかないというのは不自然じゃないのか。彼女がそのことを知ったのは地下の城に入った時ではなく、もっと早い段階から知っていたとしたら」
「何……」
「森という女性にはもっと多くが見えていた可能性がある。ラウ=カンの歴代の王のことも、華彩虎で束ねられた人間が、完全無欠とまでは言えないことも。このラウ=カンの長い歴史に、仙虎と呼ばれる神が関わっていることをも知った。まるで、呪いのように関わっていると」
「……」
「森という女性は、どうすればあなたを救えるか。どうすればラウ=カンの王たちを金様燈路という呪縛から解き放てるかを考えた。そしてこう思った。金様燈路に頼らずに、それを上回る人間を育ててみせればいい、と」
「馬鹿な!!」
立ち上がる。その顔は激しく上気している。怒りとも困惑ともつかぬ究極の感情。制御できぬ混乱が渦巻いている。
「ふざけるな! その為に儂との子を成したと言うのか! なぜそこまでする必要がある!」
「心の中までは分からない。ましてや会ったこともない人だ。だがゼンオウ、あなたも言っていたことだ。こういう表現は僕の感覚でははばかられるが、きちんと管理されていない女性が皇帝の子を身ごもっても、それを世継ぎと認めることはできない。森という女性がそれを理解していないはずはない。王の子を身ごもりたかった、王の母になりたかったという動機は考えにくいはずだ」
「そ、それは……」
「それに睡蝶は言っていた。自分は母に愛されていた。母は何でも教えてくれたと。睡蝶が卓抜な力を持つのは才能だけじゃない、愛情と環境ゆえだ。それは決して何かを否定するものじゃないはず」
「ぐ……」
ゼンオウは何かを必死に打ち消そうとしている。その何かを想像することを恐れている。
「分からぬ……そんなことはあり得ぬ……」
「過去は誰にも観測できない、だから解釈するしかない。過去をどう解釈するかは、その人がどう生きているかの指標……」
「ええい、ごちゃごちゃと、話が長いぞ二人とも」
だるだるの靴下を揺らして、どんと床を打ち鳴らす。
雨蘭が話に割り込んだのはその時だった。




