第四十四話
※
暑い、と感じる。
古びた講義室、その入口側に控える雨蘭は、頬に汗が伝うのを感じる。
空気が動いていない。二人の回答者は微動だにせず構え、司会者の男も不敵な笑みを浮かべたまま、二人の思考を乱さぬように静止する。
それを何分間続けたのか。
ようやく、ゼンオウ側の手が動く。まだユーヤは動かない。
(……この問題。どのように考えるべきか)
雨蘭は思考しようとする、興味の赴くままに生きている双王ではあるが、ユーヤのやるような問題の背後を読む考え方、それに近づこうとする。
(奇妙なことは、あの司会者じゃな)
(ゼンオウどのを前にしてあの堂々とした態度……そういう職能じゃとしても不自然。よほど自信があるのか)
(自信……自信があるとは何じゃ?)
(絶対に当てられぬような難問、それではそもそも勝負にならぬ)
(そう、難易度は必ずしも高くないはず、その上でなぜこの問題が究極なのか……?)
そこで、ユーヤ側の手も動く。
かりかりと、小さな動作で黒板に記し、静かに伏せた。
「さあ、お二人とも解答が出揃ったようです。では先にお書きになったゼンオウ様より回答を示していただきましょう」
「うむ……」
ゼンオウの黒板が返される。
【音を放って虫を落とす】
「ほう、音を放って虫を落とす、これはどのような発想からのお答えでしょうか」
「スズゲラだ」
ゼンオウは眼光鋭く言う。
「フクロウは頂点捕食者だ。特技となればそれは逃避行動ではなく、求愛行動か、あるいは狩りのやり方だろう。シロワタフクロウの亜種であるという発言は巧みな誘導。真の力はスズゲラのような砲音術にあると見た」
ユーヤを一瞬だけ意識し、話を続ける。
「あの膨れ上がった腹は音を体内で反響させる鼓室になっているのだろう。細い嘴なのは鳥やネズミなど大きなものを食べておらぬ証拠。スズゲラの仲間のみが使う砲音術、シロワタフクロウも使えるとなればこれは大きな発見だ」
「音を放つ鳥……そういうものがいるのか」
ユーヤが呟き、ゼンオウがそちらを向く。
「……お前の土地にはいなかったか。スズゲラはキツツキの仲間であり、ハイアードの渓谷地帯にのみ生息している。大きな音で水面のアメンボなどを気絶させて捕食するのだ。しかしこの音はスズゲラの直線上にいなければ聞こえぬ、極めて直進性の高い音とされている」
「すばらしい特技だ」
「フォゾスにはこんな話もある……。森に入った狩人が、どこか遠くで大木の倒れるような音を聞くとな。巨大な音を出す生物がいるのではないか、という話はあった」
「……それは僕のいた土地にもあるな。古杣とか、空木倒しと呼ばれる現象だ……」
「なるほど、よく分かりました。では続いてユーヤ様のお答えをどうぞ」
司会者のナルドーが促し、ユーヤも黒板を返す。
【妖精に擬態して狩りをする】
「妖精に擬態……?」
感情がついてこぬままに反復するのはゼンオウ。数秒ほど考えてから言う。
「確かにフクロウは樹の樹皮などに擬態することもある。だが妖精に擬態とはどういう意味だ。あのフクロウは一抱えはある。そこまで大きい妖精はほとんどいない」
「……この世界で、まだ妖精を利用する生物を見たことがない。革新的な問題だと言うなら、誰も見たことのない技だと思った」
「なるほど」
手をパンと打ち合わせ、ナルドーが視線を己に集める。
「ではこれより先は映像にて検証いたしましょう。皆さま、暗転にご注意ください」
そして取り出した妖精の、額の目が見開かれ。
風景が塗り替わる。
舞台はまた夜である。
しかし異様な高さにいる。星空が空いっぱいに広がっており、黒い綿のような森が眼下に見える。
藍映精に風船をつけて飛ばしているようだ。ユーヤは足元が消える中で、何とか見えぬ床を踏みしめて安定を得ようとする。
視界の果てには白い球体。シロワタフクロウが静かに飛んでいる。
「これも世界初の映像です。我が興行団が何週間もの試行錯誤の果てに撮影に成功しました」
ナルドーは喜ばしいことのように語り、つとユーヤに水を向ける。
「さてユーヤ様、そのお答えの根拠をもう少しお聞きしたいのですが」
「……ずっと考えていた。この問題はなぜ究極の一問なのか。学術的に目新しい発見、それも確かに素晴らしいことだ。問題にできるなら最高だろう。だが君を見てて違う観点が浮かんだ」
「ほう……この私を」
「クイズの興行師……素晴らしい職業だ。世界を回って問題を集める旅、僕もそれに憧れる。その君をもって、究極に値するとは何か。学術的な価値だけで万人を満足させられるかは疑問だ、ならば」
夜の森は静まっている。
その中を飛ぶフクロウは月のごとく。白い体を膨らますように見えて静かに羽ばたく。
その周囲に、光が。
綿のような輝点が生まれ、それは球体の光源となって空を舞う。
いくつもの光球が、戯れ合うように、惑星の公転のように。
「――究極に、美しい」
それは妖精である。
白い光を放つ妖精がフクロウを取り巻くように動き、フクロウは白さと丸っこさでそれに同化する。
やがてそれに引かれるように飛び上がる影。赤と黒の同心円。眼状紋を持つ一匹の蛾が羽ばたき、月を目指すかのように上昇。
そして妖精たちの輪舞に迷い込めば、フクロウは素早く旋回してそれを捕らえる。
「……こ、これは」
ゼンオウ氏は硬直している。
忘我の表情が垣間見えた。クイズの駆け引きや、それがもたらす結果すらも忘れるような圧倒的な光景。光の球にまぎれるフクロウの羽ばたき。それに目を奪われる。
「妖精が世界に現れて130年。このシロワタフクロウの亜種は、現状、妖精を能動的に利用する唯一無二の種です。蜂の巣から蜜を集めるために嘴は細く、光に擬態するためにその体は白い。複数の進化を身につけた奇跡のような種なのです」
「美しいな……」
ユーヤもまた心を奪われる。夜空に舞う光の乱舞、その幾何学的な軌道には大いなる摂理を感じ、この世のものとは思えぬ美しさの背後には、生命の壮大な進化を感じさせた。
「ゼンオウどの」
映像は終わり、背後から歩いてくる影。
パルパシアの女学生ふうの人物、雨蘭は手を腰に当てつつ言う。
「あなたの負けだ。このパルパシアが双王の片割れ、ユゼ=パルパシアが確かに見届けた」
「ユゼどのか……」
ゼンオウは、しばらくは己の敗北を受け止めかねるようだった。
落ちくぼんだ目の奥で複雑な感情が渦を巻き、組んだ両手にひしと力を込める。
「……分からぬ」
そして、ユーヤに向けて声を放つ。
「なぜ儂が負けた。いや、なぜお前が答えられる。お前自身も言っていたはずだ。自分は不運に取り憑かれていると。こんな一発勝負で、あのような特異な問題を答えられるとは思えぬ。なぜお前に、妖精を利用するなどという発想が浮かぶのだ。どうしても納得できぬ」
その発言は、知識の化身とも言われるゼンオウ氏にしては珍しく、超自然的なものへの言及を含んでいた。
いわばオカルトへの傾倒。今の一戦が何からの仕込みでないなら、そこにどんな力が働いたのか。
「……僕の出会ってきたクイズ王にも、知識の化身のような人がいた」
「……?」
「その人物は誰にも負けぬ圧倒的な読書量をこなし、この世に知らないものはないとすら思えたけれど、それでも海外ロケ番組だけは対応できないと言っていた。海外とは未知の宝庫であり、まだ見ぬものに立ち向かうことが真のクイズであると」
「何の……話をしている?」
「その後、何年も経ってから、ようやく意味がわかってきたんだ。真のクイズとは、まだ見ぬものに立ち向かうこと。あのクイズ王はそう考えたんだ。だから僕も真似をした。忙しい日々の中で、ふと立ち止まって空を見て、立ち木を見て、まだ見ぬもののことを考えた。少しづつ、片時に、何度も何度も色々なことを考えた」
ゼンオウの顔にはっと色が差す。
目の前の男の言わんとしていること、その凄まじさに勘付き、肩に震えが。
「もし宝石の降る国があったら、そこではどんな経済活動が行われるのか。もし海底に街があったらどんな法律が生まれるか。もし」
「妖精のいる世界があったなら」
「そこにはきっと、妖精を利用する生き物が」
「馬鹿な……!」
それはクイズ戦士ならではの備えと言えるのか。それは修練なのか、遊戯なのか、狂気なのか。
「何千何万という、あてどない空想、僕はそれを繰り返していた。一度でも考えたことがあるなら、それは経験として脳のどこかに残る」
ユーヤは話を締めるように、静かに告げた。
「だからたどり着けた。未来への扉を、開くことができたんだ……」
「…………」
ゼンオウは押し黙る。
深く長い沈黙だった。ゼンオウ氏はユーヤの
話を懸命に咀嚼し、なんとか受け止めようとする。
「……未来、か」
やがて、つと視線を上げた。
「ナルドーと言ったな……ご苦労だった。これを与えよう」
左の小指から指輪を抜き取り、ナルドーへと差し出す。褐色の興行師は前に出てきて、うやうやしく跪いてそれを受け取った。
「ありがたきことに存じます」
「下がれ」
言葉は短い。ナルドーはすいと立ち上がり、ゼンオウとユーヤに目礼を残して立ち去っていった。
「……話してやろう」
その言葉に反応し、ユーヤが首を向ける。
「ありがとう、ゼンオウ陛下」
「最初に言っておく。この話を証し立てる証拠など何もない。儂の記憶が正しいとも限らぬ。しょせん、過ぎ去ったことの真実など誰にも分からぬのだ」
「分かっている。それでも聞きたい」
「ゼンオウどの、このユゼもその話を聞いてよいか」
「好きにするがいい」
そして語られる。シュテンの夜の暗がりで、老王の紡ぐ過去の一幕。
誰にも触れられることのなかった、秘された歴史が――。
※
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二十年ほど前のことだ。
その女は、どこかの田舎からシュテンに出てきたらしいが、どのような学生だったかはあまり伝わっていない。とにかく朝から晩まで書を読み漁っていたと聞いている。
試験は申し訳程度にこなし、これといって研究も行わず、企業の門を叩くでもない。ただ本を読むためだけにシュテンに入学したのだ。およそ信じられぬことだ。
そんな中で、あやつは白納区にある地下の城の存在を知る。
神による人返しの力が働いている場所だ。よほど強靭な精神力が無ければ降りられぬはずだが、あの女は降りた。
儂が女の存在に気づいたのは、やつが地下に降りて一ヶ月後。
儂は護衛の兵に命じてやつを捕らえ、牢に繋いだ。そして牢の中であやつは言ったのだ。自分を出してくれたなら、儂に大いなる幸福を与えてみせるとな。
そう、そこまでがお前たちも知っていること。
儂はあの女の奇妙な雰囲気に気まぐれを起こした。もし本当に華彩虎の力を利用できるなら、それも一興と考えたのだよ。
華彩虎は姿を隠していることが多かったが、あやつは何度も地下に潜り、粘り強く神に呼びかけた。
やがて神は呼びかけに答えるように、何度かやつの前に姿を見せた。ほとんど会話は成立しなかったが、やはり粘り強く、語りかける日々だった。
そしていつだったか、あやつは神の意思を動かせると言ったのだ。儂もその頃には、あやつの言葉を信じる気になっていた。密かに兵を動かして学生を集める計画も立てた。いなくなっても誰も探さぬような、天涯孤独の者は少なくなかったからな。
……。
……だが。
そう、あれは、あの女を拾ってから一年ばかり経った頃。
儂は地下であの女と話し、歴史や、クイズについて語り合ううちに。
劣情。
そう、臆面もなく言うならば、儂はあやつを女として見るようになった。
王の身であれば、それ自体を恥じるつもりはない。儂とても朱角典に後宮を持つ身だ。王であればそれは半ば義務のようなもの。
だが、あれは。
説明が……とても困難なことなのだ。
なぜ儂はあやつと閨事を交わしたのか。
分からぬ。容姿は確かに秀麗であった。若々しさもあった。人並み以上の知性もあった。
だが、後宮の指折りの女たちと比べられるわけがない。
そしてなぜ、儂を拒まなかった。
ほんの一言でも否を唱えれば、一歩でも儂から離れれば、その瞬間に奇妙な感情は消え失せただろう。その確信はある。
あいつは大事業を抱えていたのだぞ。神と意思を交わせるようになったその時に、なぜ全てを棒に振った。
そしてあやつは、子を孕んだ。
皇帝の子を成したとなれば大変なことだ。ラウ=カンが何よりも切望していた世継ぎでもある。だがすぐには公にできなかった。
何よりも儂は疑ったのだ。あれは本当に儂の血を引く者かと。
一度疑い始めれば、疑念は増すばかりだった。考えてみれば人間を撚り合わせて後継者を生むなどという話より、儂の子を孕む方がやつにとっては僥倖。
儂に男としての力があるかも疑わしかった。後宮で儂の子を孕んだ者はいなかったのだから。
そのような子を、将来の世継ぎとすることはできぬ。万が一にも皇帝以外の血が混ざらぬための後宮なのだ。
あやつを始末することまで考えた。だが、いくら何でもそこまでは許されぬと感じた。本来ならこの判断も異常なことなのだ。儂はあやつに関することでは意志が弱くなるのを感じていた。あらゆる決断がやつに引きずられていると感じたのだ。それを歯がゆくも思った。
結論としては、保留だ。
よくよく考えれば、あの子が儂の子である証拠がないことは好都合でもあった。そもそもあの女が地下にいることすら、儂とごく少数の衛視しか知らぬことなのだ。
少なくともあの女に野心は見えなかった。あやつは赤子、つまり睡蝶が育つまでは事業を休みたいと言い、儂は承諾した。
思えばあやつはその頃から病に侵されていた。あやつは知に貪欲ではあったが、体が強いとは言えなかったのだ。生まれついての本の虫であることも無関係ではあるまい。
そして、睡蝶が6つか7つのときに、あやつは死んだ。
弁解するわけではないが、儂は紅都ハイフウで最高の医師に見せた。用意できるだけの薬も与えた。どうにもならぬ病だったのだ。
……あの女。
いま思い出しても、現実の存在だったのか分からぬ。
何を目指していたのか、儂のことをどう思っていたのか、何一つ分からぬまま世を去った。
思い出すのは、本に囲まれていたその姿。
そして目の奥に潜む、圧倒的な知性だ。
深く分け入れば戻って来られず、何も見通せず、それでいて生命の温もりも感じるような、神さびた森のような女。
あの女の名は、森。
だが儂にとっての恐るべき事態は、睡蝶の成長とともに訪れた……。




