第四十三話 (過日の12)
※
過日。
記憶は沼に沈んでいる。
なまぬるい水の底に落とされた脈絡のない記憶、その中でおぼろげな連続性を持ついくつかの破片が繋がり、物語となる。
曖昧で物悲しい、破られることのない繭のように、閉じ込められたままの記憶。
足の寒気で目を覚ます。
雪が降っていた。わずかに開いた障子の隙間より雪が吹き込み、妖精の踊りのように粉雪が舞う。
積み上がった紙束に足先をねじ込み、また臨死にも似た眠りに落ちようとして。
「七沼くん」
名を呼ばれる。
視線を送れば草森葵は部屋の片隅にいた。風雪に耐える枯れ木のように、眠りに落ちる前と同じ場所に。
「葵さん、どうしたの」
「終わったよ」
彼女はゆっくりと立ち上がる。奇妙なことにその動作には気だるさがなかった。長時間、まともに動いてなかったために関節が強張っていたが、紙に埋め尽くされた部屋の中で、滑らぬようにゆっくりと歩く。
「足元に気をつけて……」
七沼も立ち上がる。しかし頭が異様に重く、血が一気に下がって視力を失いそうになる。低血糖の症状だと思われた。まともにものを食べていなかったからか、疲労と心労のためか。
「前に話してくれたよね。あるクイズ王と、広辞苑の話」
草森葵は縁側に座る。雪が降り続けており、風も少しある。中庭は綿のような雪が分厚く積もっている。
「ああ……そんな話もしたね。あるクイズ王は、広辞苑で問題にできる言葉をすべて問題文に書き直したと」
「版が改まるごとに一万から二万の項目が入れ替わるけど、項目数はおよそ25万、大変な数だよね……」
七沼も縁側に座る。寒さはあまり気にならなかった。草森葵がクイズ以外のことをしているのが喜ばしかった。
そして、何故か。
草森葵に抱く印象が少し変わっていた。さばさばとしていて、どこかうっとりと景色を眺める様子。中庭の美しさを楽しんでいる風にも見える。七沼はいつもの気だるげな彼女を探そうとする。神秘的にも見えた彼女を、知識の化身であった彼女の面影を。
「それはきっと、世界をクイズで記憶しようとする試み。クイズで世界を整理しようとする試みなんだね」
「そうだね……」
草森葵は痩せてはいたが、雰囲気は少し若くなった気もする。その語る言葉には奇妙な清々しさがあり、淡々としていた。その様子に、七沼はなぜか焦りを抱く。
「覚えてる? 究極のクイズの話」
ふいにそんなことを言う。話が飛ぶように感じるのは七沼の記憶の乱れか、あるいは草森葵は連続的な話をしていないのか。
「ああ……結局、それが何か聞いてないけど」
「究極のクイズというのはね」
そこで、一呼吸を置く。
七沼は違和感が大きくなるのを感じた。
今、ここにこうしている彼女は。
柔らかな髪を持ち、緑のカーディガンを羽織った彼女は、誰だろう、と。
「海外ロケ番組だよ」
「……海外ロケ、そうだね」
ある時代においては、海外ロケ番組は現在より遥かに多かった。各局が競うように特派員を海外に飛ばし、現地の様子を紹介し、クイズを出題する。
それは後の時代に少しずつ縮小していく。費用がかかりすぎることや、世界的な政情の乱れなどが理由である。
あるいはロケには行かず、海外から映像のみを購入して再編集したり、動画投稿サイトやSNSから素材を集める番組も増えていくこととなる。
「辞書を丸ごとクイズで覚えても、どれだけ本を読んでも、それでも海外からのクイズには対応しきれない。私達が思っている知識の世界というのは、それはあくまで日本語で記述され、日本で出版された本の中の世界なの」
「そう……かも知れないね」
海外にもクイズ番組は多数存在し、イギリスのパブクイズなど独自の文化形態を持つものもある。
七沼も海外産のクイズに触れたことはあるが、ほとんどは意味不明であった。
文化圏の違い、基礎となる教育の違い、日本には伝わらない時事情報。日本語に訳されていない本からの出題。それらには手も足も出ず、これは日本人が取り組めるものではない、と結論づけるしかなかった。
「でもそれって素敵なことだよね。世界にはまだまだ知らないことがある。解けないクイズに出会える。それはきっと、未知なることに立ち向かえるってことだよ」
「そうだね……」
彼女は、何の話をしてるのだろう。
そのことばかりが気になる。その落ち着いた様子は何なのか。もうクイズを学ぶのは終わりなのか。
彼女に何が起こったのか。
「クイズって、青春とか、楽しい趣味って文脈で語られるよね」
また話が飛ぶ。あるいは七沼が何かを見落としているのか。七沼は必死でついていこうとする。
「そうだね……」
「私にとっては、そうじゃなかった。私はとても不自由だったから」
草森葵。
都内でも指折りの資産家の娘に生まれ、旧弊に縛られた家に生まれ、その一生は自分の自由にならない運命に生まれ。
そのすべてを破壊した女性。
「私には自由にできることが何もなかった。だからせめて知っておこうと思った。この世界の形と名前を、あらゆることを知って掌握したかった。知ることは私にとって復讐だったの」
「……」
「だから私は、クイズ戦士ではなかった」
クイズ戦士ではない。
彼女がずっと言っていたこと。大会への参加を拒んでいた理由。
「でも今は違うの。この頭にクイズだけを詰め込んだから」
それは。
それが何を意味するのか、おぼろげながら見えてきて。
七沼はそれに恐怖を覚える。だが、なぜ恐ろしいのかまだ言語化に至らない。
なぜ自分はそれを聞きたくないのか分からない。
分からないために耳を塞ぐこともできない。
脳を針で突かれるような、激甚たる恐れが。
「例えば私は「白鯨」の文章をすべて覚えていた。でも今は思い出せない。「白鯨」でクイズになりうる単語は15から20ぐらい、すべて問題文として覚えてしまえば本文を覚えている必要がない」
「あ……」
「例えば分子式。C11が含まれる物質は無数にあるけれど、クイズとして問われうるのはフグ毒のテトロドトキシン、あるいはVXガスぐらいしかありえない。それ以外の知識は専門職でもない限り必要ない」
「き、君、は……」
それは、つまり。
「記憶というのは思い出す能力。すべてを網羅的に詰め込んで、そして自由に取り出せていた私は、クイズに答えるという意味ではまるで向いていなかった。問題文から思い出せる単語があまりに多すぎたから。だから私はクイズ戦士ではなかった」
だが、今は。
「だからね、最適化したのよ。情報を絞って、厳選して、生きていくのに丁度いい密度に」
草森葵は笑う。
快活な笑い。それは解放された人間の笑みだった。
膨大な知識の鎖から解き放たれ、クイズに最適化された身軽さからの笑みなのだと。
「――繭から、青虫が生まれたっていいでしょう?」
頬に、熱いものが流れる。
泣いているという事実を遠く感じた。しばらくは何も考えることができなかった。
ただ、膨大な悲しみが。
大いなる何かが失われた悲しみだけが。
「気づいてたよ、七沼くん」
両手で顔を覆い、泣き崩れる彼の背中を撫でる。
「あなたはクイズ王を求めてる。あなたにとってのクイズ王とはつまり、手の届かない高み。人間を超えた強さ。それはつまり、理解の及ばない存在ということ」
けして激しくはなかったけれど、涙だけが無限に流れ続けるかのようだった。さめざめと、とめどなく、悲しみは無限に深く。
草森葵の言葉は続く。その言葉に耳をふさぐこともできない。
「今の私はただのクイズ戦士。異常者はもうやめたの。ダウングレードしたのよ。きっとがっかりすると思ってた。私が理解可能な存在になったことが悲しいんだね」
「あ、ああ、なぜだ、なぜ捨てる必要なんか、唯一無二の、君だけの力を」
「それはね、未来のためだよ」
雪は降り続ける。空は曇天。
「私はね、クイズが好きになったんだよ。未知なるものに出会いたい。まだ見ていないもののことを想像したい。これは七沼くんの影響。だからこれまでの私を捨てて、海外に行くの。今はそのことだけを考えてる。こんな私でも、未来を楽しみにできるようになった」
草森葵のそんな明るい声は初めて聞いた。それが彼女の本来の声なのか。それとも生まれたばかりの別人の声なのか。
「もうこの国にはいたくない。この家にも良い思い出はない。だから海外を巡る。ねえ七沼くん。私はあなたにもついてきて欲しい。一緒に世界を回ろうよ。たくさんのものを見て、食べて、その日々の中で一生を終えるの。そんな理想的な人生を歩める人が、この世に何人いると思う?」
その明るい印象。朗らかな話し方。この異常な日々の中で、彼女は余計なものをすべて削ぎ落としていた。
あの神秘的だった彼女は、もはや失われたのだと。その実感がひしひしと押し寄せる。
「行けないよ」
悲しみに抵抗するかのように、七沼は言う。
「僕はクイズの世界に関わっていたい、まだ見ぬクイズ王たちに出会いたい……」
「会ってどうするの。分かっているの七沼くん。あなたにとってクイズ王とは理解不能な存在。あなたはクイズ王を見てもそれと分からない。きっと怪物と間違えて戦う羽目になる。あなたが心酔しているクイズ王のことをあなたは何も知らない。ある人間が繭を破ってクイズ王に「成った」としても、あなたにはそれが分からない、ただ破れた繭だけを認識する」
「そんなことはない!」
七沼は激して言う。その時突風が吹き、いくつかの問題用紙が中庭に舞った。
「いつか、誰もが認めるクイズ王が現れる、その輝きに出会える日が来る……僕は信じているんだ、絶対に、世界のどこかに……」
「そう……」
激して語る七沼に、草森葵はわずかに怪訝な目を向ける。
なぜ、クイズ王を求めるのか。
なぜ、彼にとってクイズが特別なものなのか。
それは遂に分からなかった。七沼自身にも説明できるのかどうか。
それはきっと、誰にも触れられぬ心の奥。彼を構成するパーツの最初のひとかけらなのだろう。
草森葵は少しだけ目を伏せ、そして何もかもを振り切るように言う。
「じゃあ、お別れだよ、七沼くん」
草森葵は、七沼遊也にそっと顔を寄せる。
そして数秒の、肌の触れ合いが。
「元気でね」
「葵さんも……」
その返事が不思議とおかしかった。草森葵はにこりと笑い、サンダルに足を入れて立ち上がると、中庭をゆっくりと渡っていく。
振り返らず。立ち止まらず。
二度とこの場所には戻らないと、そう背中が語っていた――。




