第四十一話
※
時は流れ続ける。
この大陸における至高の学府、シュテンにおいてはより速く、より濃密に。
人の集まりは圧倒的であった。球技場だった場所をほぼ埋め尽くすほどの人の渦。学生たちの一部が自主的に整理を行っているが追いつかない。
端の方はもはや解答席など見えるはずもないが。それでもわずかに流れてくる問い読みに、それに答える戦士たちの声に誘引されるように集まってくる。
22時間と35分経過、得点状況は。
睡蝶・4851
劉信・5152
「合計で1万点を超えたぞ!」
「すげえ!! ほんとに一万の問題に答えたのか!」
「いや、お手つきがわずかにある! それがマイナス2点されるから、出題された総数ならすでに1万と100問を超えてる!」
空気に漂う甘さと、上空で乱舞する妖精。
もし、遥か上空から見るものがいたなら、人垣の上空に妖精が濃いのが分かったかも知れぬ。
それは人いきれのためか、人々の身に付ける装身具に引かれているのか。
それとも妖精たちもクイズの熱に浮かされているのか。上空には銀河のような妖精たちの渦。広場を真昼のように照らし出す。
そして、戦士たちは。
「ぐっ……」
劉信の体が沈み、解答台に肘をつく。コンマ数秒だけ意識を失っていたと感じる。
(わずかに……追い上げられている)
睡蝶を見れば、口の端に出血した跡が見える。口の中を噛み切って気付けをしたのか。
(恐ろしい、これが24時間クイズ)
(脳を削られるような消耗。意識の混濁。だが何よりも恐ろしいのは、脳が適応しようとすること)
(私が、私ではない何かに変わろうとしている……。変化の強制、何もかもが変わる暗黒の夜が降りるような……)
もはや言葉では形容できない。外見からは想像もつかない消耗。二人の戦士が放つ凄絶な気配に、観客は熱狂しつつも息を呑む。
「ゆ、ユーヤよ、どうなのじゃ、劉信が先に限界を迎えたようじゃぞ」
控えのテントにて雨蘭が言う。他の三悪たちも、応援の学生たちも固唾を飲んで見守っている。
「これは計算のうちなのか? 何かしら、睡蝶の方が長く戦える理由があるんじゃな?」
「……そうだね」
本来の狙いは違う、12時間前後で劉信がギブアップすると考えていた。睡蝶に比べれば劉信のモチベーションは低いだろう、だから先に音を上げると。
だが最後の最後までもつれそうだと感じる。この世界の人々の恐るべき体力のためか。それとも二人の覚悟のほどを測りそこねたのか。
「……何もかも予想通りじゃない。今はただ、信じて見守ろう」
「う、うむ」
睡蝶を見れば、奥歯を噛み締めて前傾に構え、気力だけで立っている。彼女もまた限界をとうに超えている。
――残酷なこと。
声が。
ユーヤの肩越しに語りかける、それは幽鬼の声か。
――彼らに起こっていることは、脳の最適化。
――問題文と言葉を一対一で連結させていく。クイズに答えるためだけの脳になるのよ。
ユーヤはそれに反応を示さない。振り返ることもない。その人物が、この世界にいるはずはない。
だが耳を塞ごうと、たとえ眠りの底にいても、けしてその声から逃れることは。
――最後に必要なのは、捨てること。
――クイズ戦士にとって何よりも大切な、知の力の一部を捨てる。
――ある見方においては、完全性の喪失。
――その覚悟ができるかどうかの戦い。
――あの文官の子よりは、女の子の方が覚悟を決められる、そう考えたのね。
「……やめてくれ」
呟く声に、横にいた雨蘭が反応する。
「どうした?」
「……いや」
すでに背後の気配はない。今は声も聞こえない。だがそれは聞こえていないだけで、声は四六時中、彼とともにあるのか、そんなふうに思う。
ユーヤは懐中時計を抜き出す。時刻は22時50分。
「猫」
「え、なに?」
呼びかけられた方はやはり勝負に没頭していたのか、いま意識を取り戻したように応じる。
「少し出てくる、あとは頼む」
「……何度かテントを空けてるけど、何をしてるの? 別に何かを疑ってるとかじゃないけど、説明ぐらい……」
「今回はそれとは違う、大切な用だ」
ユーヤはそれだけ言って、花道と反対側からテントを抜ける。
後方にぱたぱたと足音が聞こえた。
「雨蘭……?」
「今まではその気配がないので見送ったが」
隣に並ぶ、パルパシアふうのワイシャツに短いスカートという服、夜の中でことさら白く見える。
「今回の外出は少し違うのう。いよいよケリをつけに行く、そういう顔じゃな」
「……」
「お主も戦っておるのじゃな。ならば我も共に行こうぞ。いつか言っておったじゃろ、我が横にいると元気が出てくると、無限の勇気が湧いてくるとな」
「そんな言い方したかな……」
「そういうのはの、言われた方は多少盛っても良いことになっておる」
苦笑する。本当にこの双子には勝てないと感じる。
場所はメイドから報告を受けていた。シュテンの街をしばらく歩き、ひときわ大きな建物へ。
『安全確保済み 立入禁止』
入り口にはそう書いてあり、学生の一人が立っていた。
「ここは安全確保済みだ、入らないでくれ」
「虎煌、中に入れてくれ」
言われて、その学生は目を見開く。どこにでもあるようなくたびれた学朱服、やや乱れた髪、そこには何ら特別な気配はないが。
「な、なぜ……」
「この場所を守っているとすれば虎窯の旧幹部だろう。僕たちと戦った甲虫たちとは顔が違う、だから虎煌だと思った」
「む……そう言えば声が少し似ておるな……声色を変えておったようじゃが……」
虎煌は周囲に他の人間がいないか目を配り、ひそやかに言う。
「ゼンオウ様は、誰にも会いたくないと言われている……」
「大事な用なんだ」
ユーヤはその一言しか言わない。およそ説得になっていないが、虎煌はユーヤの目をじっと見つめ返し、やや悲しげに目を伏せる。
「通ってくれ」
「ありがとう」
ユーヤは一礼して、男の横を通り過ぎる。
「それと虎煌、もし、この場所に……」
それからしばし。
そして扉を開けば、そこは講堂のようだった。
奥には狐を模したとおぼしきステンドグラス。彫り物のされた重厚な長椅子が並び、奥には質素ながら存在感のある演台。
その場所はどことなく宗教的なものを感じた。教科書やノートなどが放置されており、教室なのだと分かるが、太古の神に祈る礼拝堂のようにも見える。
その奥に、じっと座す老人がいる。ユーヤは中央の通路を挟んで座る。
雨蘭は入り口の脇に陣取り、その静謐な空気を乱すまいと構えた。そのような心境になったのは、双王としては極めて稀なことである。
「……異世界人よ」
その老人。
ラウ=カンの王であり、皇帝とも国父とも呼ばれる人物は、ユーヤの方を見ずに言う。
「なぜ儂にかかわる。鏡についてならば何も知らぬ。先代の王は何一つ言い残さずに山に隠れた」
「そうじゃない」
ユーヤの言葉によって生まれる、濃密な沈黙。
「真実が知りたいんだ。地下の城で、何が起きていたのか」
「それについては語ったはずだ」
しわがれた声。老人は石の床をつま先で打ち鳴らす。
「睡蝶が、あれの母が華彩虎の利用を進言し、多くの人間を束ねて睡蝶らが生まれた。それが真実だ。それに耐えかねるからと言って、別の真実を求めると言うのか」
「睡蝶は、隠された真実があると感じている」
「くだらぬ! この世界に、間違いなく真実だと言えることがどれだけある! 文書、音声、映像記録、それがあったとしても本当の意味での真実にはまるで遠い!」
老人はことさら高ぶろうとしているようだった。何重にも着込んだ体をゆすり、苛立ちを声に乗せるように言う。
「儂の語ったことに納得がいかぬなら、いくらでも話をでっち上げればよかろう。お前なら簡単なことのはず。睡蝶が魂の撚り合わせを拒むならもはや強制はせぬ。どうとでも生きればよい」
ひとしきり言い切って、息を荒げてみせる。ユーヤは空間の残響が消えるのを待って、ゆっくりと言った。
「……人には、真実が必要なんだ。人の数だけ真実があると言う人もいる。でもそれは諦めの口実じゃない。互いに語り合って、寄り添って、共有できる真実を見つけ出そうとする。それが人と人との交わりだ。真実には階層があるんだ。より高位の、より価値のある真実を目指すべきなんだ」
「虚言だ。儂は真実のすり合わせなど求めておらぬ。お前たちだけが、自分に都合の良い真実を探しているだけ……」
「いいや、ゼンオウ」
声に鉄の芯を通し、確信を込めて語る。
「真実を求めているのは、あなただ」
「何……」
「あなたは迷っている。睡蝶に、劉信に、虎煌たちに真実を語るべきか迷っているんだ。だから僕に会った。僕を拒むことは簡単なはずなのに」
「何を馬鹿な……」
「ゼンオウ、僕と勝負しよう」
かるく後方を振り向く。雨蘭の構える横。この部屋の入口が見える。そこはぴたりと閉ざされ、人の気配はまだない。
「クイズで勝負だ。僕が勝てば真実を語ってもらう。僕が負けたら、今後一切、過去のことを調べないと約束する。あなたが語ったことが真実だ」
「……ハイアードの件は報告を受けている。パルパシアや、シュネスでの働きの一部も知っているぞ。お前の仕掛ける勝負に儂が乗ると思うのか」
「僕は、人を探させている」
ユーヤはゼンオウの気当てをいなすように、話をそれとなく逸らす。
「その人物が僕とあなたの勝負を取り持ってくれる。だが百時間近く探しても見つからない。シュテンには、このラウ=カンにはいないかも知れない。かの妖精王祭儀の直後から始まるという学祭だ、だから来ているはずと考えたんだが」
「何を言っている……?」
「約束の時間まで三分ほど。確率は低くなる一方だ。僕にそんな低確率が引けるはずがない。僕は元来、幸運からは遠い男だから」
だから、と、三音に重みを乗せて言葉を繋ぐ。
「引き当てるのはあなただ、ゼンオウ」
「何だと……!?」
「あなたが真実を語りたいと欲しているなら、必ずその人物が現れる。王として生まれたあなたの天運が、世界の理を捻じ曲げるほどの豪運が、必ずその人物をここに呼ぶ。そして究極のクイズに巡り会えるだろう」
「究極のクイズ……?」
「この大学には素晴らしい人材がいた。クイズの未来を支える人材。クイズの未来を創っていく人材だ。あなたは知るだろう。この大学にどれだけの価値があるか、どれほど得がたい至宝が集まる場所なのか。あなたの力で守るべき場所だと知ることになる」
「……分からぬ。何を言っているのだ。究極のクイズとは」
「受けるかゼンオウ! それとも未来を見ようとすることすら拒むのか!」
びりびりと震える声。ユーヤの細い体を絞り尽くすような声だった。
汗が伝う。
ゼンオウは数秒、迷う。それは魂の奥底まで潜るような深い懊悩。
一瞬のような、永遠のような沈黙。
「……受けよう」
言葉が。
それは果たしてゼンオウの意思なのか。
シュテンの学長としての自我が、王としての自我が、あるいはまた別の自我がせめぎ合って生まれた、混沌のしずくのような言葉だったのか。
「ありがとう、ゼンオウ陛下」
「……本当にそんな人物が来るのか。そもそも、ラウ=カンにおらぬ可能性もあると……」
「必ず来る」
ユーヤの声は不思議な確信を帯びていた。まるで味方に呼びかけるように言う。
「あなたが勝負を受けてくれたから。あなたの王の力が、必ずや彼を呼び寄せる」
「馬鹿な……」
ぎい、と、扉の開く音。
ゼンオウははっと背後を向く。
一瞬、異世界人の仕込みを疑った。
だがそれはない、百余年を生きた老獪の極み、海千山千の怪物たるゼンオウの目にかけて、この異世界人は謀などしていない。
この異世界人は本当に賭けを打っていた。それだけはどうしても疑えない。
そして、その人物はゆっくりと歩く。講堂の中央を通って、ユーヤたちのそばに。
ユーヤは視線を上げぬまま、その人物に呼びかけた。
「突然すまない、クイズを頼みたい。僕とゼンオウ陛下との勝負の場を」
その人物は二人の脇を通り過ぎ、くるりと振り向く。ラウ=カンふうの長衣。手足が長く肌が焼けており、鍛えている印象は受けるが、ごく平凡な印象の男。
にっかりと笑う、白い歯が印象的に光った。
「これはこれは、お久しぶりですな。ゼンオウ様との勝負とはこれは只事ならぬ大勝負。仔細は知らざれどもお受けしましょう。心わきたつ問題を、息もつかせぬ名勝負を」
そしてその男は、うやうやしく礼をした。
「必ずや提供いたしましょう。世界をめぐる興行団の長、このナルドー・ザールドの名にかけて」




