第四十話 (過日の11)
※
「おい、聞いてるか勝負の話」
「ああ、ゼンオウ様が大学の自治権を賭けているとか……そんなことより手を動かせ」
それは筒状の建物。本来は人文学棟と典籍学(古典文学)棟を繋ぐ区画。建物同士をつなぐ屋根付きの渡り廊下があり、周囲に屋台などが並んでいた区画である。
解体できる屋台は解体されて一カ所に集積され、渡り廊下などは端から引き倒され、燃えぬように濡れた布や、泥などをかぶせられる。
「解体しちまっていいのか?」
「さあ? 終わった後には大学がすべて建て直されるなんて噂もあるが」
こうしている間にも小規模な火災は続いている。空気には甘い香りと同時に炭化した木材の匂い、それが学生たちを駆り立てる。
「この大学も古いからな。この渡り廊下は邪魔くさいと思ってた」
「引き倒したら売店でも置いてくれねえかな、飲み屋でもいいな」
「おい、ふざけながらやるんじゃ……」
その男の側面から、熱気が。
「え……」
反射的に身をかわす、それと同時に胸の高さで火線が。
「ひっ!?」
「出たぞ! 赤煉精だ!」
それは朱色の妖精。すぼめた口から吐きだされるのは直径1メーキにもなる炎の円筒。猛烈な火炎が一瞬で窓を突き破って放たれている。その火勢が人文学棟に届かんとする。
「早く追い返せ!」
「ぐ、だめだ、瓦礫が邪魔で……踏み越えようにも熱すぎて」
吹き出される火が建物をあぶり、その周囲に似たような赤い妖精が群がってくる。炭化する木材に引き寄せられるのか。
その時、ごうと暴風が吹く。
一瞬だけの圧縮された音。周囲の窓をきしませる衝撃波。
そして視界が開け、遠くシュテンを囲む丸木の壁が見えている。
「え……」
作業していた男たちには何が起きたのか分からなかった。今の一瞬。渡り廊下の一部が消し飛んだように見えたのだ。
瓦礫の向こうにいた赤煉精はすでにかき消え、妖精の世界に還っている。
「あれ、あんた……」
黒の学朱服、黒の鉄棍、その人物が渡り廊下の一部を消し飛ばしたのか。
「……大丈夫ですか」
「ええと、あんた、たしか虎窯のメンバーだよな、三悪と決闘してた……」
「はい、甲虫といいます」
その人物はどこか不安げであった。周りの人間の目をそっと見ている。自分に対する視線の色を気にしているかのようだ。
「虎煌様と一緒に主を守っていたのですが……もう必要ない、離れていろと言われまして」
「はあ……? よくわからんが手伝ってくれるなら助かる、そっちの解体を任せていいか」
「はい」
甲虫は建物の隙間に鉄棍をねじこみ、てこの力でばきばきと骨組みを崩していく。
「あんた長文クイズやってた人だろ、すごかったぜ」
「いえ……私など」
「なあ、それにしてもなんで渡り廊下から赤煉精が出たんだ?」
誰かが発言し、全員がそういえばと思い至る。
「おい見ろ、こんなとこに木炭が落ちてる、これに引かれたんだ」
「なんでこんなとこに」
「食道とか屋台街とか、あちこちから炭を集めて穴に埋めてるからな、カケラが落ちたんだろう」
「美術科のスケッチ用じゃないか?」
「そういうことか、ん……でもここを通ることあるかな……?」
「何でもいい、他にもないか注意しろ、そっちの五人はそこに穴を掘ってくれ、炭化した木材を埋める」
そして若者はもくもくと手を動かす。
空気は甘く、同時に炭の残り香もある。
そして大気のあらゆる場所に、妖精の気配が漂うかに思えた。
※
「問題できてる!?」
「とりあえず35問! 裏取りしてからまた届ける!」
シュテンには大小様々の図書館があり、そのうち第3図書館は戦場の有様であった。
集められたクイズサークルのメンバー、文系理系とりまぜた学生たちはこの場だけで百人。彼らは資料を突き合わせてクイズを検討している。
この12時間でメンバーは入れ代わり立ち代わりである。問題の裏取りをしたり、重複をチェックする係であったり、彼らに軽食を用意したり、資料の配分を管理する係も生まれている。梟夜会が指揮しているが、12時間あまりでここまでの連携を見せるのはクイズ豊かなるこの時代、才気みなぎるこのシュテン大学ならではと言うべきか。
だが、それでも追い立てられている。会場での問題の消化ペースが早すぎるためだ。
「この問題ダメ! 華円音楽堂のこけら落としが白路紅天楽団ってのは前に出てる!」
「うぐ……なんとかアレンジして使えない? 華円音楽堂のほうを答えにするとか」
「音楽堂の建築家とか設計者……最も多く公演してる人とか分かる?」
「資料によると艶泥よ。ロングランがあったから……そうね、そのあたりで問題にできないか考えてみる」
試合開始から12時間。問題作成に参加している学生は累計で340人あまりに達している。
「まだ人手が足りない……もっと呼べない?」
「理学部でも作ってくれてる、数学でも畜産でも」
「教授にも声をかけて、一問二問でもいいから持ってきて、こちらで問題文の調整やるから」
その会場には長めのホウキを持つ学生たちもいる。急な妖精の出現に対応する係だ。
「凄まじいな……いったい何問作るんだ」
「聞くところによると一万問以上とか……」
それは本当に実現可能なことなのか。
答える側の体力は持つのか。
あるいは、この世界のクイズ的な知識をすべて使い果たしてしまうのではないか、そうとすら思える。
今はただ駆け続ける。ゴールが存在することを信じて。
※
太陽は中天。気温は上がってきている。
それは人々の熱気のためもある。解答席を十重二十重に囲む人垣。その外側にはあちこちの教室から椅子が集められて円形に並び、その外側には机が置かれて、倒れぬように足に石材が結ばれている。
「気を付けろ、前の人間の肩を持ってくれ」
「おいもっと高くできないのか、見えねえよ」
「これ以上無理だ。あとで記録体を販売するからそれで我慢してくれ」
直径にして100メーキ余りの円。そこに詰め込まれた人間は4千人を超えようとしている。
その中では噂が飛び交っている。大学の行く末について、二人の選手について、問題作成の現場が修羅場になっていること、どこそこでまた火事が起きたこと。
だがそれすらも覆いつくすほどの、圧倒的なクイズの熱狂。
「問題、柳の木に巣をつくる柳冠鶫などに見られる特徴/であり」
ぴんぽん
「夕彩襟です」
「正解、砂時計の七分計を最初にひっくり返してから、十二時間で/ひっくり」
ぴんぽん
「……103回ネ」
「正解、その独特な色味から「老鶏の赤」とも言われる……」
十二時間経過、その得点状況は――。
睡蝶・2559点
劉信・2871点
「三百点以上のリードだぞ、これは劉信様で決まりか……?」
「いや見ろ、二人とも限界が来てる」
確かに。早押しのペースは崩れていないが、その二人にはかつて見たことのない種類の消耗が見える。
(こ……これほどとは)
劉信は左肘を解答台につけ、体重の半分ほどを台に預けている。立ち続けているためか足先の感覚が遠のき、呼吸が浅く早くなり、そして思考がまとまらない。
ぴんぽん
「竜花印……です」
「正解、次に挙げる3つの建物には共通の……」
喉は枯れて、前頭部に頭痛がある。だが肉体的な痛みなどは些細なこと。
明らかに、思考力が落ちている。
特に速度である。問題を聞いてから思い出すまでに遅れがある。観客は気づいているのかどうか、およそ0.5秒ほど遅くなっている。
(思い出せないわけではない……思考をする速度自体が落ちている。こんなことが……)
だがそれは睡蝶も同じのはず。横を見ればやはり台に体重を預け、片足のつま先を立てるように構えている。紅柄を着ているときは所作にも細かな決まり事があるが、もはやなりふり構っていられない状態だと分かる。
(大丈夫……必ず睡蝶が先に潰れる)
(私はただ機械的に答えていればいい……余計な思考をするな、ほとんど反射のように答えるのだ……)
そこで劉信はステージを離れる。
最初の頃のように素早くではなく、よろめくように。
控えのテントにいるのはスタッフとして働く学生たち、劉信は官服の上着を滑り落としつつテントに入った。
「ユーヤよ、劉信は長く休憩をとる気のようじゃぞ」
観察していた雨蘭が言う。
「こちらも睡蝶を呼び戻すべきではないか? もう十二時間もまともに休んでおらぬ、互いに一時間ばかり休憩を取るべきじゃ」
「……」
ユーヤはステージを見る。繰り出される問題を睡蝶は早押しをしながら答えている。問題文を最後まで聞かずに、かなり攻めた押しをしていると感じる。
「休憩の判断は睡蝶に任せる、こちらから指示は出さない」
「あ、明らかに限界じゃぞ、このままでは倒れてしまう」
「睡蝶は差を詰めるチャンスと考えたんだろう……それと、僕の経験で言うなら一時間かそこら休んでも回復はしない」
「回復はしない……」
ユーヤをよく観察すれば、奥歯を噛み締めて立っている。その巡礼者のような、痛みに耐えるような様子は彼にずっと付きまとっているものだ。それがいつもより濃く思える。
「この24時間クイズとは、ある意味では究極のクイズ、人間の極限に迫るクイズだ」
舌を噛み切るような言葉、そんな奇妙な比喩が浮かぶ。雨蘭はユーヤの奥に何があるのかを見極めようとするが、彼の黒瞳はあまりに深く、底知れない。
「人間が何かを思い出すというのは、本来とてもエネルギーを使う行為だ。長く続けていると脳が疲労してくるだけじゃない、その行為に特化した脳に変わろうとする」
「変わろうと……」
背後の三悪も、他の学生も何も言えない。すでに勝負は誰も経験のない世界に突入している。
「最後の最後は、勝とうとする意思が勝負を決める……」
そのように話を締める、それは表面的には当たり前の言葉にも思えた。
だが誰も、通り一遍の言葉とは受け止められない。それは何か、恐ろしい意味を内包しているのだと……。
※
「七沼くん」
過日。
その部屋にはクイズだけがあった。
どのぐらい問題用紙が積まれていたのか、屋敷を満たしていたのかは思い出せない。
壁やふすまの詳細も覚えていない。覚えているのはただ寒かったこと。雪が降っていたこと。
そこは雪原のようだった。果てもなく音もない、見渡す限りの白一色の世界。
草森葵がいて、七沼もいて、わずかな距離を置いて互いに座っている。
「七沼くん、究極のクイズって何かわかる?」
そんな質問が本当にあったのかどうかも分からない。七沼は朦朧とする意識の中で問いに答える。
「それは……24時間クイズだね。12時間と8時間はあるけど、24時間はやったことがない。人間の体力というか……脳の体力の限界に近づくクイズだと思う」
「そう、それも究極だと思う。脳のすべてをクイズに染めあげるような時間。おそらく脳はクイズに最適な状態になり、記憶について、思い出すことについてのニューロンが組み変わっていく。それはある意味では死と再生。別の自分に変わるほどのクイズ体験、それは確かに究極ということ」
今の草森葵はそれに似ている、と感じる。
もう何日経ったのか、クイズだけに没頭し続ける日々。
では、それが目的なのか。
クイズに特化した脳に変わることが。
それが草森葵にとってどういう意味を持つのか、そこまでは思考が連続しない。もう七沼には何かを考える力が少ない。
「もう一つ。あるよ」
そんな声が聞こえる。分厚い雪の層を通して聞こえるような、遠い声。
「もう一つ……」
「そう、究極のクイズ、私はそれに憧れる」
草森葵の姿はもはや見えない、七沼が目を閉じているのか、何かを見る力もないのか。
「いつか私は、そのクイズがやってみたい、そのためにこの家を出ていきたい」
彼女は雪の下で眠っているのか。
繭を作って冬の寒さに耐えているのか。
どこからが現実で、どこからが幻想なのか。
七沼には何もわからない。
何も見えてはいない――。




