第三十九話
※
「問題、統一歴77年8月、シュネスのハリリスからトライミ/ラまでを」
ぴんぽん
「潜砂渓谷です」
「正解、華南島、グラバンド島、フリーヴェルメイユなどといえば、どのような/地形」
板を打ち上げるのは睡蝶。
「……冠水島ネ?」
「正解、次の……」
司会者がよろめく、別のスタッフがその脇を抱えて後方に下がらせ、控えていた次の読み手が出てくる。紫の学朱服を着た若い男、淀みなく言葉を繋げる。
「次の書き出しから始まる作品は何でしょう。『つまり君は見たと言うんだね、月が落ち夜がますます夜になる頃、星の魚、ウーリーダ/ムの姿』」
ぴんぽん
問い読みが止まる。
板を打ち上げた劉信は眉根に皺を寄せ、大魚を釣り上げるような感覚で記憶を引き出す。
「ほ……星の魚よ空の琴よ、です」
「正解、統一歴103年に……」
集まっている観客は2000あまり。深夜からずっと見続けている者も多い。
その観客から見ても、二人の実力はまさに神業。二人ともが押さなかった「見送り」の問題はまだ一つもない。
攻めすぎた早押しのためにお手つき、誤答はそれなりに出ている。それらはマイナス2点としてカウントされていた。だがそれは、圧倒的に積み上がっていく正解数から見れば微々たるものである。
しらじらと夜が明けてきて。
観客たちにも分かる。二人は明らかに疲労している。
「す、水門傾斜点ネ」
「正解です。ヴァーナインシルムといえば馬弓の射法ですが、このとき地面についているのは……」
「も……もう6時間やってるぞ」
「二人ともほとんど休んでねえ……しかも正解率がとんでもねえ」
「読み手も大変だな……もう何度も交代してる」
梟夜会が用意した読み手は、代表の鈴鈴を入れて4人。問い読みは集中を要するのか、見た目以上に消耗が激しいようだ。鈴鈴はなるべく短い周期で交代の指示を出していた。
観客が、得点ボードに視線を送る。
睡蝶・1276点
劉信・1324点
「やっぱり劉信様が強いな……」
「いや、この程度のリードなら分からんぞ、どちらかが調子を崩す可能性もある」
「食事は……取るよな二人とも。というか仮眠ぐらい取ったほうが……」
「あっちで賭けも始まってるらしい、見てこようぜ」
朝が明けてきて、起き出して人垣に加わる観客もいて。
さまざまな人間が、おそらくは大学封鎖の最後の日を予感し始める頃。
(何だ、この疲れは)
劉信は自身の異変に歯噛みしていた。クイズに答えながらのために思考が進まないが、何とか並列的に考えようとする。
(なぜ息が上がる。走ってもいないのに)
(それにわずかな頭痛もある。平衡感覚もどこかおかしい。めまいの前兆ではないのか)
(徹夜で書類仕事を片付けた時ですら、こんな状態には……)
「睡蝶、なかなか頑張りますね」
出題の間隙をつき、ほんの一言投げかける。
「だが無理をせぬ方がいい、疲れが見えています」
それは偽りではない。睡蝶もまた息が上がり、こころもち足を広げて構えている。重心に乱れがあるのだ。
「まだまだ、いけるネ」
そう返したが、異変があるのは向こうも同じと見た。
「問題。紫晶精、鋼枝精などが無生物のように/振る舞う」
ぴんぽん
「機化です」
答えた瞬間、劉信は解答台を離れて花道を速歩きし、控えのテントへ向かう。
「おい! 劉信様が離れたぞ!」
「用足しか、いやそろそろメシじゃないか? 睡蝶の方はどうするんだ」
相手が場を離れたとき、自分も離れるべきか。それとも時間をずらすべきか。一見するとどちらでも差はないように思える。
だが、そこにはやはり駆け引きが存在するのか、睡蝶は一瞬悩み。
「……っ!」
その場を離れる。花道を戻ってテントへ。
テントの周りには戸板を立てて目隠しがなされており、中には三悪や虎窯の学生らがいる。
「睡蝶! 大丈夫!?」
駆け寄るのは猫。その体を抱きとめると、驚くほど熱を持っている。
「睡蝶あなた、まさか風邪」
「違うネ。そういうのじゃない……体が火照ってるだけネ」
「脳が酷使されてるからだ、そこに座って、扇いだ方がいい」
その時はユーヤもいた。彼は深夜から何度かテントを抜けているが、睡蝶にそれを知るよしはない。
猫と桃らが適当な本で扇ぎ、猫は心配そうに呼びかける。
「睡蝶、何か食べる? 食料は確保してるよ。消化にいい芋粥もあるし、桃餡の入った饅頭もあるし、パンもある」
「ありがとう、パンを少しもらうネ」
「睡蝶、これを」
と、ユーヤが差し出すのは素焼きの小瓶。中から粉砂糖の甘い匂いがする。
「お砂糖? そうネ、疲れたときには甘いものがいいネ」
「食堂で分けてもらった、ブドウから作った果糖だそうだ。つまりブドウ糖に近いはず、都合のいいものがあってよかった」
脳が使える糖分はブドウ糖だけであることや、異性化糖や単糖という知識がこの世界にあるのかは分からない。だが、脳の疲労に甘いものが良いという認識はあったようだ。睡蝶は棒状のパンと一緒にそれを食べる。
「それと水をたくさん飲んでおくんだ。今すぐにコップで2杯ほど」
「ゆ、ユーヤ、それ夜から言ってるけど、その、飲みすぎると生理現象が……」
「僕のいた土地の学者がこう言ってる。コップで2杯ほど(500ml程度)の水分を知的作業の前に飲んでおくと、飲んでいない場合に対して反応速度が15%ほど上昇すると。早押しだとかなりの違いになるはず」
「わ、わかったネ。それじゃあ……」
竹筒の水筒からごくごくと飲む睡蝶を見て、何となく手持ち無沙汰だった雨蘭が口を開く。
「下の問題は重要じゃの。睡蝶よ、いざとなれば秘密兵器を用意するぞ、目立ちにくいやつじゃ」
「絶対に使わないネ……」
そして仮設のトイレで用を済ませ、また会場へ向かおうとする。劉信はまだ出てきていない。
駆け引きがあるとすればここだろうか。どの程度休むか、作戦を練るか、睡蝶は相手の動きを見て決めようとする。
「ユーヤ……実は少し頭痛がしてるネ、何が起きてるか分かるネ?」
「低血糖か、あるいは脳の疲労だろうな。相手も同じだ。ここからはペース配分の勝負になる」
「ペース……」
会場では司会者が問い読みを続けている。いま走っていけば数問は取れるだろう。
だが、睡蝶にも理解できてきた。これはまさに長距離走に近い。一問二問を取り合うより、冷静な立ち回りを続けるほうが重要。
「人間は、実は脳を酷使してる時と、リラックスしてる時で、さほど消費する熱量は変わらないという報告もある」
「? そうネ? でも私は……」
「だが……チェスというボードゲームのプロは、一日に6000キロカロリー、成人男性の2日分の熱量を使うという報告もあるんだ。脳の酷使に関することは、僕の世界でもまだ研究され尽くしていない」
口元に指をあて、つとめて静かに言う。
「カギは呼吸ではないかと思う」
「呼吸……」
「そう、脳が酷使されるとき、体は熱を生み出そうとして呼吸を早め、筋肉を分解して肝臓でエネルギーを生み出す。だから精神を安定させ、呼吸を鎮めることで逆説的に疲労を抑えられるのかもしれない」
会場がざわめく、劉信が戻ってきたのだ。ユーヤは口調を早める。
「ただしこの場合、早押しの精度に影響がないとも言えない。前のめりの集中が精度を上げるのも確かだからだ。だから最初からは伝えなかった」
「うん……わかったネ、ペースを考えて……やってみるネ」
睡蝶も駆け出す。そして解答台に飛びつくようにボタンを押し、二人はまた勝負の世界に。
「ユーヤよ、まだ6時間であの状態じゃぞ。24時間など戦い抜けるのか?」
「今のペースを保つのは無理だろう」
ユーヤの目は痛ましい色をしている。二人がどれほど無惨にすり切れてしまうのか、それを僅かでも予見できるからだ。
「人並み外れた体力と知力を持つ二人だとしても、この人外魔境のごとき24時間クイズを全力疾走では走破できない。必ず崩れるときが来る。そこからが真の戦いだ」
「ううむ、恐ろしいのう……」
ユーヤの経験から言えば、今のペースを6時間続けていることすら神がかり的である。この世界には体力面でユーヤの常識を超える人々がいるが、あの二人もそうだと見るべきか。
だが、それでも。
それでも、24時間はあまりに長く――。
※
過日。
その部屋は異様な姿に変わっていた。
膝の高さまでA4の紙が積もり、いくらかは襖の隙間から中庭までこぼれ、雪に混ざって白い泥に変わっている。
七沼遊也が運び込むのは紙束。一枚の用紙に12から15問。それが六百枚でおよそ8000問あまり、体力不足もあって岩のように重い。
運び込んだ問題数は、すでに百万を超えている。
その半数ほどは急ごしらえの粗悪な問題、七沼はそれに心を痛める。七沼自身も古書店を巡り、各地の大学クイズ研に電話をかけ、社会人のクイズサークルにまで頼み込んで問題をかき集めた。彼自身も1万問あまりを作ったのだ。
怪物に食料を運ぶ奴隷のよう。
そんな例えが、それほど荒唐無稽でもないように思える。七沼もまた疲れきっていた。
そしてまだ、草森葵はこの部屋にいる。
問題をぶつぶつと呟きながら、そのすべてを記憶しているのか。
ほとんど身動きも取らず、生命維持のための最低限の行動しか取らず、すべての時間でクイズを食べ続けている。
「葵さん。今日は3万問ぐらい……。あまり、良い問題ばかりじゃないけど」
「いいのよ」
七沼は最低限の品質だけは確保しようとしていたが、草森葵はさほどこだわらないようだった。これだけの数になると重複も少なくないはずだが、それを指摘されたこともない。
「葵さん、明日からはすべて郵送で届くよ。アルバイトの人たちがたくさん問題を作ってるから」
「七沼くんは?」
その目が七沼を見る。彼女と目があったのも久しぶりだと感じた。
「ここにいるよ」
彼女は痩せてはいたが、生命に危険が及ぶほどではない。
自暴自棄なわけでもない。この奇妙な行為は、なにかの儀式めいたこの部屋は、確固たる意志によって行われている。
ここは繭だと、何度目かのその妄想を心地よく思う。
クイズだけを詰め込んで、どろどろに溶けた繭の中身なのか。形も色もない、情報だけの世界なのか。
「君のことが、心配だからね……目を離したくないんだ。この家にいてもいいかな」
彼女は、何かに成ろうとしている。
それだけが確信、それだけが頼るよすが。
あるいはそう思っていなければ、七沼の精神は正気を保てなかっただろう。
「いいよ」
草森葵はそう言って、またクイズに視線を落とす。
羽化のときは近い。
七沼はそう自分に言い聞かせて、部屋の隅に座り込む。
冬は静かに深まっていく。
それは誰も知らない、誰の理解も及ばない。
現実だったのかどうか、七沼にすら分からない、ある冬に起きた御伽話――。




