第三十八話 (過日の10)
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陽の光が壁を這い登り、その上端から顔を出す一瞬の光景、シュテンの空が朱のヴェールで覆われる。
それは人工的な黎明、シュテンの街を埋める無数の赤に火がともり、石材や瓦の赤に熱を与え、街はゆるゆると燃えだすかに見える。
大気は甘く、そして緊張を宿してざわめいていた。
「おい、教具倉庫の火事は消し止めたのか」
「大丈夫だったと聞いてる。いくらかガラクタが燃えたから、穴を掘って埋めてるらしい」
「赤煉精が十数秒も放置されてたらしいな……危ないところだ」
「まったくだな、この甘い空気も治まるどころか、少しずつ濃くなってる……」
そのような会話を聞きながら、小柄な少年が街を歩く。
白っぽい簡素な服にサンダル履き、名を石という。
彼は通用門の周辺でうろうろしている。すると、ぎりぎりと縄を引きしぼるような音がして、がん、と木材同士がぶつかる音とともに、大きめの樽が飛んでくる。
「来た!」
壁の数メーキ上を飛び越えねば純紫衝精に弾かれる。必然として大きな放物線を描き、建物のひさしを割りながら落ちてきた。そして中身をぶち撒ける。
出てきたのは麻布で巻かれた小包のようなもの。同時に周囲から学生たちが湧き出てくる。我先にと包みを拾い、奪い合う者もいる。
「肉だ! 肉を取れ!」
「くそ、イモと面包ばっかじゃねえか! 魚とかねえのかよ!」
「おい取るなよ! 拾われたもんは奪わねえって取り決めだろ!」
「お、俺の妹が学内にいるんだ、量がいるんだよ」
投石機によって投げ込まれるのはささやかな食料。一度の投擲では150食ぶんほど。数万の人間の腹を満たすには頼りない。
それも調達に時間がかかっているとかで、夜の間に投げ込まれたのは4000食にも満たなかった。
投石機も一つしか稼働していない。この時代、大国と言っても大型の兵器など運用されず、整備されてるものは一台きりだった。
集団の中で石はもがく。さすがに子供を押しのけようという者はいないが、このときは位置が悪く、学生たちをかき分けて進まねばならなかった。
「く、くそっ、空けてくれよ、俺にも何か……」
「おい割り込んでくるな! 怪我するぞ!」
時すでに遅く、人がわっと散っていった時には何も残っていなかった。そして去っていった人々と入れ替わりに、またたくさんの学生たちが門へとやってくる。
「うう、くそ、量が少なすぎんだよ、もっとでかい投石機ないのかよ……」
朝一番で来てみたが、予想以上に熾烈な戦いである。これで四度目の挑戦だったが、まだ何も拾えていない。
昨日は昼過ぎに蜂蜜を口にした程度である。胃が固形物を欲して悲しげに泣いていた。
「きみ」
呼びかける声。
振り返った途端、腕を取られ、その小さな手に丸いものを押し込まれる。
「あげるよお、大事に食べてねえ」
メイド服を着た小柄な女性、異国風のメイド服であったが、その顔を見ようとするより早く、影は人混みの間をすり抜けて消えてしまう。
「マニーファ、いいのですか」
「自分の分は取ったよお。食べたらまた探さないとねえ」
そんな声が聞こえた気もしたが、石があっけに取られていたのも数秒だった。
「! 食いもの!」
手を見る。そこにあったのは植物の葉で巻かれた球体。大きめの握り飯ほどの大きさだろうか。
「この匂いって……ああ橙籠子か、久しぶりに食うなあ」
そうなると周りの目が気になってきた。シャツの中にその球体を隠しながらその場を去る。
「はあ……明日の朝には門が開くって聞くけど、本当かなあ」
封鎖は4日目、石ならずともうんざりする気分からは逃げられない。
学生たちは妖精への対応で気が紛れているようだが、広場に集まっている避難者。教員や事務職員、シュテンにある企業の人間などは気力が萎えつつある。石のような街の子どもたちも同じだった。
「まあ火事は押さえ込めてるっていうし、何かあっても広場に行けば……」
――広場に行きなさい
ひた、と足を止める。
「あれ……それ誰に言われたんだっけ、なんか腹が減ってて頭がぼーっとする……」
――燃え草を集めてください
――赤煉精を呼ぶ媒体を
「ええと、そうだ、確か正門のとこで……どういう意味なんだそれ? んん……わかんねえ、腹減った……」
何か重要なことにも思えたが、思考が発展していかない。
と、その眼が誰かを見つける。道の端に座り込んでた人物。
「あれ、あんた」
やたらと真新しい学朱服。着ずっぱりで多少くたびれているが、生地はふわりと柔らかく、襟の赤は目が覚めるほど鮮やかだった。
「やあ、久しぶり」
その人物が石を認めて挨拶する。学生たちは基本的には石のような子供を無視するので、それは珍しい行動である。
その態度で思い出した。四日前、東側の学生寮の通りで見た男だ。石の持ってた水脆に興味を示し、買わせてくれと言ってきた男。
「やあ、兄ちゃんも閉じ込められたか、災難だったな」
「そうだね、昔から運はよくなくて」
その男は疲れていたのか、道の端に座り込んでいた。だが眼はやたらとぎょろりと動き、道行く人々を見ている。
「何してんだよ?」
「人を探していてね……僕が動いても焼け石に水とは思うけど、じっとしてられなくて……」
「ふーん?」
大して興味があったわけでもなく、それ以上は聞かない。
石は大人の横にいたほうが安全と判断したか、ユーヤの近くに座る。連日の祭りからの都市封鎖、しかも妖精が部分的に雨を降らせたとかで、街には汚れが目立つ。
「俺もさんざんだよ、せっかくの大事件だってのに」
「せっかくの……?」
「せっかくだろ。これでも色々手伝おうとしてんだけどな。余分な建物を壊すとか、妖精を追い払うとか、決闘を手伝うってのもいいよな。でも止められるんだよ、子供は危ないって」
「……」
「三悪がでかい勝負したって聞いたんだけど、ほとんど見らんなかったよ。今もなんかやってるらしいけど、広場はもう人でいっぱいなんだよなあ。ちぇ、なんか俺も事件に噛みたいよなあ」
男は少年の話を複雑な表情で聞いていたが、やがて落ち着いた、低い声で言う。
「そんなことはないよ」
「え?」
「君はこの事件の中にいる。時代の中に生きてる。シュテンのクイズ王たちと同じ空気を吸ってるんだ、それは貴重な経験だよ」
「うーん、でもなあ……」
「たとえ、その目で見ていなくても」
男は昨夜の夢でも語るかのように、遠くを見て言う。
「クイズ王たちは語り継がれる。その戦いぶりと生き様を。それをこの時代の人々は共有できる。僕はそれだけでうらやましい。君も、自分なりの距離でクイズ王とすれ違ったんだろう? それを他の人と共有して、クイズ王を囲む世界を形成できる。素晴らしいことだと思う」
「? う、うん」
男の語ることは抽象的で、石には半分も理解できなかった。
それに、どことなく世間一般とずれたことを言ってるような気もする。
「つまり……参加するだけがクイズじゃない、見てるだけ、その活躍を想うだけでもクイズ王に近づいてる、そういうことさ」
石の怪訝な目が男にも伝わったのか、取り繕うように言い直す。その言い方なら分からなくもないか、と何とか納得する。
「あー……でもなあ、間近で見たいとかあるだろ? あんた田舎はどこだよ」
「田舎……ええと、セレノウだよ」
「へえセレノウか、じゃあアイルフィル第一王女がいるだろ。自然科学とか理系ジャンルで無敵のクイズ王だぜ、戦うとことか見たことないか?」
「いや……ない」
その男はなぜか悲しげに首を振り、ふいにこんなことを言う。
「間近で見たいとは思うけど、独占したくはないんだ。王はクイズの世界に君臨していればそれでいい。僕はそれを仰ぎ見るだけで、誰かから王の話を聞くだけでも満足できるから……」
「はあ……そ、そうかよ」
どうも妙な男である。その印象が最初に会った時からずっと変わらない。
疲れきって痩せていて、それでも妙にぎらつく目で通行人を目で追い続ける、そこに不気味さもある。
「……兄ちゃん、よくわかんないけど人探しだっけ、あんまり根を詰めんなよ」
「そうだね……」
「これでも食べるか? 少しやるよ」
シャツの中から取り出し、包んでいる葉っぱを取り去る。
外見はポンカンのような、柑橘系の果実である。皮がやや茶色がかっており、パンパンに膨れ上がって少し裂けている。よく見ればそれは焦げて茶色になっているのだ。
「ありがとう……って、それ果物……? 焼いてあるんだね」
「いや橙籠子だよ、見たことないのか? ああそうか、セレノウの生まれだったよな」
そういえば水脆にも興味を示していたと思い出す。あれを知らないのはかなりの田舎者という印象だ。
(そうか田舎者なのか、だから少しズレてんだな)
それだけでは説明しきれない気もしたが、とりあえずそう解釈して、石は爪を立てて皮をむく。
中身はやはり柑橘系の実。だが房が真っ白であり、中身がぎゅっと詰まって見える。
「パンの香りがするけど……」
「えーっとな、橙籠子ってのは濔柑ってデカめのみかんで作るんだよ。まだ木に生ってるうちに、皮の一部を切ってだな……」
思い出しつつ語る。房の一つ一つはそれなりに大きく、柑橘系の香りがパンの香りとせめぎ合っている。
「そう……房の中に練った小麦を注射すんだよ。濔柑が育つと、中で小麦が発酵してパンみたいになって……濔柑はそれに果汁を送り込み続ける……だったかな。そんで最後に実をまるごと天火で焼くわけだ、すると実の中でパンパンに膨らんでパンになるんだよ」
「そ……そんなことが……!?」
なぜか男はわなないている。育ちかけの植物と小麦を融合させる料理は珍しくもないが。
石は何房かを男に分けて、自分も食べる。瞬間、鼻の奥に抜ける清々しい香り。口内を満たす酸味と旨味。果汁に漬け込んだパンとも、柑橘のジャムを塗ったパンとも違う。それはまさに生きているパンだった。小麦の繊維のひとすじにまで染み渡る果汁。するどい酸味を緩和させる小麦の味わい。
何よりそのパンは無限の香りを含んでいた。飲み込めば喉の奥から吹き上がるような香り。蜜柑の森にいるような、五感のすべてを掌握する香りが。
「くー、うめー、すっぱくて苦手だけど空きっ腹にはうめーなー」
「かっ……」
ふと脇を見れば、男は口を半開きにして固まっていた。指先がカギ状になって細かく痙攣している。
「どうした?」
「い……いや……別に」
「あー、それにしても大学どうなっちまうんだろうな。なあ聞いてくれよ、三回戦は見に行けそうだったのに、追い出されちまってよお」
石は退屈紛れに話しかけ続けたが。
なぜかそこから二分ほど、男の反応は遅れがちだった。
※
冬の日。
窓の外に牡丹雪が降り注ぐ日、七沼遊也は貸しオフィスの一室にいた。
着座して並ぶのは三十人ほどの男女。長テーブルには雑誌や小説、新書などが山積みになっている。
「以上のような要領で……あなたたちにはここでクイズを作成してもらいます。目安は一日に百問。資料はここにある本と……後ろにあるダンボールにも本が入ってます。百問を超えると二十問ごとに歩合給が出ます。他の会場では一日に450問ほど作った人もいるよ」
淡々と語る。並んでいるのはアルバイト募集で集めた学生たちだ。学生同士で視線が交わされ、それが困惑と疑問を示す。
「何か質問は」
「あのう、これってクオリティの基準とかありますか?」
「僕と、あと何人かのスタッフがチェックします。ある程度は甘くみますけど、一定の水準に満たないものはノルマに数えません。終了までに百問に届いていなくても日給は出るけど、次の日からは参加してもらえません」
ざわざわと言葉が飛び交い、一人の女性が手を挙げる。
「これは出版とかされるんですか? 私たちの名前とかクレジットされたりします?」
「違います。問題の用途は言えませんが、出版や、その他の営利目的の利用ではありません。君たちの名前が何かにクレジットされることもありません。それらのことは契約書にも書いてます。一応言いますが、作ったクイズの権利はこちらに帰属します」
謎の多い仕事であった。
なぜクイズを作らせるのか。なぜそんなに大量に必要なのか。
この男は雇用主なのか、その部下なのか。
まだ若そうだが何者なのか。
飛び交う疑問符の数はおびただしい事になっている。また別の男が手を挙げる。
「けっこう良い給料出ますよね……これって定期的にやってますか? 頑張ったら次もまた呼んでくれるとかあります?」
「いや……とりあえず10日ほど見てはいるけど、その後は」
こんな馬鹿げたことは。
そんな言葉が頭をよぎる。
だが事実ではないか。こんなことはイカれている。彼女にとってははした金でも、すでに笑い事で済まない金額が出ている。
一体、いつまで続ける気なのか。
あの家はもう、クイズではち切れそうなのに。
「もう二度と」
「こんな馬鹿げたことは、もう二度と……」




