第三十七話 (過日の9)
※
「あと五分です」
夜間のため、拡声の妖精は使わない。広場の外縁部では毛布をかぶっている者も多い。
深夜でありながら、人々の眼に眠気は遠い。
それというのも空の眺め、無数の妖精が光を放ち、星空の何倍もの光を放っているからだ。それは終末を予感させるほどの極彩色の夜。
そして問い読みを行う司会者も、複数のクイズサークルのメンバーたちもスタートに備えて身構える。しかしまだ誰も、この24時間クイズがどのようなものか把握できていない。それは何か非現実的な世界、空想上の国のように思える。
それは解答席の後方、でんと構えるパネルの影響もあるだろう。鎧と長槍を備えた古代の武将。互いに全身を思いきりねじって、修羅の形相を浮かべている。美術班がギリギリまで粘って仕上げたものだ。
「お集まりの皆さん、司会進行を務めます梟夜会の代表、鈴鈴です」
二つの解答席に、着座は一人。
高位の文官が身につける礼服、裾が長く袖は厚ぼったく、赤を基調にした細かな刺繍と、散りばめられた軟玉の板。
統括書記官であり文官のトップ、劉信は静かに構えている。
眼の前には鎌首をもたげた蛇の板。そして紫晶精の早押しボタン。
司会者はゆるゆると言葉を並べる。
「これから丸一日をかけて行われますのは、世界で初めての24時間クイズです。この大学の自治権を賭けている大舞台。では劉信さま、意気込みのほどを伺っても宜しいでしょうか」
「幼兒らの遂に生を過し、大貨欲すれば則ち、窓に向うて七書勤むるべし。知とは公人の誉れです。我らがラウ=カンにおいて何かを手に入れたいと、変えたいと欲するなら知を以って成し遂げるべきでしょう」
見守る学生の顔は複雑である。そこには様々な感情が見える。
本当に何かが変わるのか。
そもそも劉信に勝てる人間など存在するのか。
ゼンオウが王座を去るとはどんな意味を持つのか……。
「おい、もう一人はどうしたんだ」
観客の一人が言い、鈴鈴は懐中時計を見る。開始までニ分。
「……勝負は定刻通り始めます。これは耐久戦、どちらか片方がいなくても、あるいは二人ともいなくても問い読みは止めません」
「いや、でもスタートの時ぐらい……」
「そもそも誰が出るんだ? 虎窯のメンバーだろうけど、あそこは他所のサークルと戦わないからあまり知らない……」
ざわめく声。
ロープで仕切られた花道で声が上がる。
そこを進むのは体のラインに張り付くような服。側面は腋の下まで完全に開き、斜め十字に錦の紐を渡した構造。裾丈も生地の厚みも計算しつくされた、華やぎと色香を芸術の域にまで高めた服。紅柄。
身に着けるのはすみれ色の髪をひっつめにして後ろで束ね、伊達眼鏡を取り去った人物。
「あの子、さっき試合してた子か?」
「そうだよ、確か睡蝶とか言ってた」
「すげえ美人……まるで別人だな、紅柄を着こなしてるし……」
「おい、でもあの色……」
空で色とりどりの妖精が入り乱れているが、それでもその深い赤、特別な式典などでしか見られない赤は特殊な存在感を放っていた。何人かがそれに気づく。
「あれ、禁独紅だよ! 王とか、大貴族の正妻にしか許されないはず!」
「閼丹貝染めか? そんなわけないだろ、よく似た翻紅とかじゃ……」
「私は」
解答席についたその女性が、芯の通った声を放つ。
「ゼンオウ様の妻だった」
深く幅広い、森に嵐が降りたようなざわめき。
「だけどゼンオウ様と私の道はもはや別れてしまった。この大学を燃やすという行いにも納得できない。だから私はそこの劉信と賭けをした。一つには大学の自治権を。それ以外の賭けの仔細は、どうしても述べることはできない。それは許してほしい」
その正体に驚いたのはおそらく三悪もだろう。彼らは花道の向こう。待機用のテントにいる。
睡蝶は観客を見る。そこには色々な眼があった。睡蝶はそのすべてを受け止めようと胸を張り、息を深く吸い込んでから言う。
「だけど少なくとも、私は大学側に立って戦う。ごちゃごちゃ言い訳はしないネ。クイズ戦士は、クイズで語るネ!」
そして、測ったように司会者が懐中時計を閉じ。問題用紙を貼り付けた画板を手にして。時計の針は午前零時を打たんとする。
「五秒前です!」
五
四
誰かが、息を呑む気配が。
二
一
「問題、『天兵の苛烈を尊ぶ』という言葉を/残し」
ほぼ同時の押し。眼の前の蛇を打ち上げるのは、劉信。
「夏世頁です」
「正解。問題、大工道具においてその形状が三日月/に似て」
押すのは睡蝶。
「崩月定規ネ」
「正解、パルパシア南西部を流れるビエノ川で見られる……」
「睡蝶が、ゼンオウ様の妻……」
勝負を見守っていた猫が呟く。その脇にいた正体不明の男、ユーヤに問いかける。
「本当なの……?」
「そうだ」
答えは短い。その態度は突き放すというより、自分には語る資格がないと言っているようだった。
「……いいわ。詳しくは聞かない。睡蝶に任せるって決めたから」
すでに勝負は始まった。あとはすべてをクイズに委ねるのみ。
解答席の脇には計測係もいる。運動会で見るようなめくり型の点数表示。問題数を考慮して4桁まで用意してある。
ユーヤは詳しくは知らぬが、本来は得点表示も妖精で行うことが可能である。だが勝負が長時間に及ぶこと、そして今は妖精の挙動に不安があることから人力となった。
勝負は続いている。
「グラドバッセ水道」
「知恵門」
「蛭の腰」
「14.75メーキ」
「冷め青」
「ハウキシ」
「甘奘・銅夸の戦い」
「おい……この二人」
「すげえ……劉信さまもさすがと言うしかないが、睡蝶も只者じゃねえ」
「今は14対13か……おい、何分経った?」
「ま、まだ5分も経ってないぞ……」
「さあ、僕たちは交代で休もう」
ユーヤが三悪と、数名いる虎窯の旧メンバーたちに告げる。
「おいユーヤ、休んでいいのかよ、応援しねえと」
「二人とも問題文を聞くのに集中してる。あまり大声での声援はマナー違反だ。司会者も夜だから声を絞ってるからね」
それに、観客など見えていないだろう。二人とも集中に入っているはずだ。
「ユーヤ、さん、何かお腹に入れなくて平気ですか? さっき小耳に挟みましたが、門のあたりで投石機を使って食料が投げ込まれてるそうです。何か拾ってこれるかも……」
「僕は大丈夫……そうか、封鎖していた学生たちが消えたから、外から支援ができるように……」
だが、門の封鎖自体はまだ続いているらしい。妖精の異常発生がシュテンの外に広がらぬためとのことだ。
「とう!」
ユーヤの背中がいきなり蹴られる。
「のわっ!?」
「こらユーヤよ! さっきはよくも置いていきおったな! やはりあの女狐としけこむ気であったか!」
「ユ……雨蘭……いや全然そういうことじゃないけど」
前に倒れかけたが、なんとか踏みとどまるユーヤ。
「ほんとか!? あやつと何か妙な約束などしておらんじゃろうな! この勝負に勝ったらユーヤが個人的に何かするとか!」
女の勘というべきであろうか。ユーヤは内心焦るが、そこは鍛え抜かれたポーカーフェイスで身を守る。
「大丈夫……特別なことはないから」
「ほんとじゃろうな! 桃の尻を揉みながらでも言えるか!?」
「雨蘭なに言ってるの!?」
暴風のようにやってきて無理やり空気を一変させる。それが双王の真価であろうか。
そのような変化は会場でも起こっている。徐々に人が増えているのだ。四方八方から野次馬のような観客が集まり、控えめに応援の声を送る。
陸が何とはなしに聞いてくる。
「なあユーヤ、これって24時間やることになんか意味があんのか? 眠たくなるとか気力が無くなるとか、そういう体力勝負って事なら劉信に有利だと思うんだけどな」
確かに、と全員がユーヤを見る。シュテンで最大のクイズサークルと言っても、まだこの勝負の行く末は見えない。
「……この勝負はね、過酷なんだよ」
ロープで区切られた花道は人の隙間となっている。
その奥には睡蝶、そのさらに奥に劉信。二人とも今は勝負の世界にいる。
七沼が憧れる、究極のクイズの世界。
選ばれしクイズ戦士が、王だけが行ける世界に彼らはいるのか。その思いに胸が締め付けられる。
そして悲しいことだと感じる。
この24時間クイズは、彼らを根底から変えかねないのだから。
「とても過酷で、残酷で、容赦のないクイズなんだよ……」
※
過日。
都内にある広大な屋敷。その一室に七沼はいた。
床に散らばるのは紙束である。二十畳はある部屋はもはや畳の一部すら見えず、彼女は散らばった紙の上に座り、その上で寝起きする。
「八十八星座の中で唯一昆虫の名前がついてるのはハエ座……。日本で最初のオランダ語辞書はハルマ和解……。余り物、という意味のある青森の郷土料理は……」
ぶつぶつと、問題を呟きつつ目で追っていく。やがて紙を投げ捨て、脇に積み上げてある一枚を取る。
「葵さん、ここに置くよ」
草森葵の容姿は一週間ほどで激変していた。頬がこけて眼窩が浮き上がり、髪は艶を失って干からびて見える。口元は乾いて常に細かく動き、目玉はぎょろりと大きく動いて文字列を追う。
その経過をずっと見ていなければ、七沼ですら同一人物だと分からなかったかも知れない。食事は配食サービスを頼んでいるようだが、果たして睡眠は取っているのか。
「葵さん……大丈夫? 少し休んだほうが」
「気にしないで」
やや明確な発音、そこには干渉を拒むような響きがあった。
「それより、もっと問題はないの……? これだけじゃ、夜には読み終わってしまう」
「……分かったよ、サークルの仲間に頼んでるから、後でまた取ってくる」
問題はすべてA4の用紙に出力したものを、というのが草森葵の要望であった。
最初は市販のクイズ本を、次に七沼の蔵書、そして個人的に作っていた問題や、サークルの例会で使っていた問題など、A4に出力して届けていく。
今の時点で、およそ7万5千問。
だが、草森葵はそれを一週間足らずで読み終えていた。そしてまだ足りないと要求している。
七沼はそれによく応えていたと言うべきであろう。一人では手が足らないので、タイピストを7名雇い入力、プリンターを四六時中動かして問題を出力していく。
草森葵はその費用と、七沼への礼金として三百万円をぽんと出したが、その事は驚くには値しない。
本当に驚くべきは草森葵がそれを読破し、おそらくは暗記しているという点だ。
なぜそんなことをするのか、七沼には理解が及ばなかった。そもそも、草森葵にはそれらの問題を答えられるぐらいの知識はあるのだ。
まだ己の知らない情報を得ようとしているのか。
クイズの文章に感覚を慣らし、早押しクイズができるようになりたいのか。
七沼に考えられるのはその程度である。
「葵さん、ちゃんと眠るんだよ。昨日は都内に雪が降ったんだ。ストーブに灯油を入れるのを忘れないで」
「ええ、分かってる」
「部屋が乾燥すると良くない……あとで加湿器を持ってくるよ」
「ありがとう」
「葵さん」
また紙が床に投げられ、新しい一枚を取る。
「どうしたの」
「いや……何でもない。じゃあ大学まで行って取ってくるから」
「待ってる」
屋敷を後にして、ふと振り返ってみる。
彼女一人で住むには、あまりにも大きな屋敷。
あるいは彼女に必要なのは医者や薬かも知れない、そんなことも考える。
だが、病気と言うにも何かが違う。それもまた同時に感じていた。
彼女の目にはまだ知性がある。彼女はクイズを通して何かを学び、何かに成ろうとしている。
それは、自分には理解できない世界なのか。
この家は大きな繭なのか。本も人間も、彼女にとって不要なものをすべて追い出し、クイズだけを屋敷に詰め込もうとしているのか。
そして繭から孵った彼女は何になるのか。
何もわからない。
自分は真のクイズ王ではないのだから。
高校時代のあの女も、その前に出会った王も、彼には理解できなかった。
だから、憧れるのか。
一生を青虫として生きる自分だから。
空を羽ばたくことのない自分だから……。




