第三十四話
「……ゼンオウ様」
顎を上げて、ゼンオウを正面から見据える。
「映像では信じられない、あなたの口から説明してほしいネ」
「……そうか」
ゼンオウはやや億劫な様子で、厚手のマントと衣服で膨らませた体を横に向ける。
そこには書庫が広がり、虎煌たちは奥に固まっていた。
「あの女は野心を持っていた。この世のすべてを知り尽くしたいと願う野心だ。その興味は七十七書の外側にすら向いていた」
「七十七書の……」
「だが同時に、人の身ではそれが叶わぬことも理解していた。どれほど本を読もうとも、それを上回る速度で知識の世界は増えていく。しょせん、一人の人間にこの世のすべてを知り尽くすなど不可能なのだ」
その発言に、背後にいたユーヤが沈痛な顔をする。だが、意識的に存在感を放たない限り、彼はすぐに埋没してしまう、秒単位の変化に気づいた者はいないだろう。
「そしてあの女はたどり着いた。仙虎の伝説、そして多くの人間を束ねるという神の力について」
書庫の奥を見れば、本はどれも古びており、紐で封印されていたり、背表紙が削り取られているものもあった。読むこと自体が禁忌であることを思わせる。
「あやつの計画には儂の力が必要だった。儂はシュテンの学生を人知れず集め、華彩虎の力を借りて魂を束ねていった」
その皺だらけの眼が、睡蝶を見る。
「お前はその第一号だ」
「……」
「だが女学生は男に対して少なすぎた。20人ほど束ねたところで計画を男に切り替え、次に生まれたのが劉信だ」
「そうでしたか……」
劉信は感慨深げなようでもあり、ただ気だるいだけという気配もある。あまり楽しい話題ではなさそうだった。
「だが、魂を束ねるといっても素質はあるらしい。急激に束ねると精神が不安定になりがちだった。だから虎煌たち6人を並行して作り、数年の間を置いて劉信に「合流」させるつもりだった」
「なぜ……そんな人間を作る必要がある」
ユーヤが問う。暗い城の中で、その表情の細かな部分は見えない。
「劉信は十分に優秀だ。あなたの後継として国を支えていくこともできるだろう。これ以上に魂を束ねる意味があるのか」
「……さあな」
どこか投げやりに言う。
「手に入るだけ集めたまでのこと。何人を束ねればよいのか、そんな指標はないのだ。それに、一度作ってしまった以上、最後まで管理せねばならん。束ねられた人間は最終的に一人きりであるべき。複数がいては国が乱れる元になる」
劉信も似たようなことを言っていた。その言い草に歯をきしませる。
「……最初に、被験体を女性にしたのはなぜなんだ」
「女は旅程で行方不明になりやすい。紅都ハイフウはまだ安全だが、地方では女性の拐かしなど珍しくもないのだ。それに、あの女の希望でもあった。あやつは病に倒れてしまったが、いずれは自分自身も魂を束ねさせるつもりだったのかもな」
ユーヤは、胃の腑が煮えるような憤りを覚える。
聞けば聞くほど救いがない。ゼンオウ氏も、彼に協力していた女性も身勝手の極み。あまりにも多くの人間を巻き込んでいる。この計画に、一体何人の学生が犠牲になったのか。
「異世界人よ、お前の倫理観など意味を持たない」
その苛烈な視線を受けてのことか、ゼンオウ氏は泰然として言う。
「全ては国の安寧のため。五千年の歴史を持つラウ=カンが、これからの数千年の王道楽土を築くためだ。優れた王の君臨こそが平和であり幸福なのだよ」
「勝手なことを……」
「信じない」
声を上げる、それは睡蝶。
「私は信じないネ。私は媽媽の実の娘。何があろうと変わらない」
「……」
ゼンオウは、その睡蝶を見て当惑するような、苦々しいような複雑な顔になる。なぜすんなり信じないのか、と歯噛みするような気配だ。
「……何が信じられぬというのだ。儂が、偽りを述べる意味などあるのか」
「分からない……何が真実なのか、偽りなのか。たくさんの情報があって処理しきれない、でも」
その睡蝶の態度はかたくなで頑迷なようにも、母の肖像を盲信するだけにも見えたかも知れぬ。
だがそれでも、彼女はひるまずに胸を張る。
「何かが違う。何かが真実と違っているネ。ゼンオウ様、あなたは真実を述べていない。何かを隠そうとしている」
その様子に、ユーヤもはっとした様子で思考する。
(……秘密の糊塗? あえて真実を混ぜた情報を並べることで、重要な情報を隠そうとする話術? 確かに今のゼンオウ氏の話はそう見えなくもないが……)
では何を隠しているのか。今のゼンオウ氏の話はかなりあけすけな暴露に見えた。セレノウ王室に連なるユーヤが聞いた以上、もはやただ事では済まない。それをあえて暴露してまで、隠したい真実など存在するのか。
「真実など意味はない」
まとわりついた煙を払うように、老王は大きく腕を振る。
「睡蝶、お前はそこにいる劉信、そして虎煌たちと一つになるのだ。お前が単独で存在し続けることは許されないのだよ。この場はただ、それだけを成せばよい」
「……左様ですね」
劉信も歩み出る。この人物はゼンオウ氏に敬意を払うように見えた。国に殉じる覚悟があるのか。
「睡蝶、我々はもはや一人の人間ではないのです。この身は何十人もの意志の集合体。己を第三者の眼で眺めなさい。我々はラウ=カンにその身を捧げるべきなのです。我々はより高位の人間となり、やがてラウ=カンの王位を継ぐ者となる、これほどの成功が、幸福が他にあるでしょうか」
「……合流したらどうなるネ。そもそも、男と女が合流できるネ」
「問題ない……」
ゼンオウが言う。
「あれは男女の違い、人種の違い、年齢の違いなどさほど問題ではない。それに睡蝶、お前の元となった人間は20人ほど、劉信と虎煌たちは総数で数百人を束ねている。性別は男になるだろう。おそらく外見上は劉信と大差ない人間になる」
「睡蝶、もう悩むのはおやめなさい。私たちはみな一つの人間に束ねられるべきなのです。それは死や消滅を意味するものではありません」
劉信は書庫の入り口に背を向ける。偶然ではあったがそこには虎の壁画があった。山中に伏せる巨大な虎。爪の一本にまで神秘性がみなぎる神獣が。
「素晴らしいことではないですか。我々は神の誉れを受けるのです。そして万能であり完全なる者となって、この国に、いえ、大陸に覇を唱える存在となりましょう」
「劉信、私と勝負するネ」
かかとを踏み鳴らし、彼女は言う。
「勝負……?」
「あなたが勝てば言うとおりにしてもいい。でも私が勝てば、もう二度と華彩虎の力は使わないと約束するネ。あれは人間が触れていい力ではない。個人の欲や、一国の利益のために利用していいものではないネ」
「何を言われるのです。それでは虎煌たちを放置することに」
「彼らはそこまで悪人ではないネ。確かに虎窯というクイズサークルを支配していたけど、虎窯が彼らに必要だったからネ。彼らは普通の人間として生きていけるはず。束ねたり撚り合わせたり、人間はそんなふうに扱っていいものではないネ」
「話になりません。分かっているのですか、これは金様燈路、ラウ=カンでの一種の理想なのですよ」
と、劉信は脇を見る。すがるような目の形を作ってユーヤに呼びかける。
「セレノウのユーヤさん、ご理解いただけるはずです。彼女に何とか仰ってください」
「……」
ユーヤは、二人の会話の間もずっと思考していた。
そしてどこか、劉信の態度には芝居がかったものがあると感じる。
この場が、睡蝶と劉信の議論が実は不安定なものに思えた。蟻の一穴、針のひと刺しで壊れてしまう可能性を秘めていると。
「……劉信」
「はい」
彼はなぜ国家に殉じようとするのか。
束ねるという事象に恐れはないのか。
束ねられる前の己に関心はないのか。
そしてなぜ、彼はゼンオウに服従するのか。
己の運命に、あの仙虎と呼ばれていた獣に、なぜそこまで従うのか。
それらはすべて。
ある一つの前提によって成り立つ態度ではないのか。
「……君が、睡蝶に勝ったなら、教えてもいい」
「教える……?」
ユーヤはそっと劉信に近づく。足先が触れ合うほどの距離。
暗く静かに、沼地に落とす芥子粒のような声量で、言葉が。
「神を、殺せる可能性について……」
――無音。
数秒、あるいは十数秒。誰も動かない。
ある一つの前提、それはすなわち、神と人間との絶対的な格差。
神は殺せない、だから従うよりない。
もし、その前提が覆るなら――。
そして劉信は。
この時として剽軽で、ある時には冷徹だった人物は、瞳を激しく震わせる。
それは破裂寸前の泡のような揺らめき。極彩色の感情が入り交じる眼球。
「――かはっ」
そしてほんの一言、笑う。
生まれて初めて笑うかのようにぎこちなく、肺の奥から息を吐き出すような笑い。
「勝負を受けましょう」
喜悦に震える口元で言う。狼狽を示すのは背後のゼンオウ。
「劉信、何を」
「ご安心くださいゼンオウ陛下。私の力は睡蝶を完全に凌駕している。ゼンオウ様も言われていたではないですか。私は睡蝶よりも遥かに多くの人間を束ねていると」
「何を考えている……? いま、そこの異世界人から何を耳打ちされた」
「下らぬことです。ああ、これだけは私の名誉にかけて断言いたしますが、この異世界人から八百長を持ちかけられたわけではありませんよ。私は全身全霊をもって戦います。けして手は抜きませんとも」
「ぐ、な、何を言っている、勝負など……」
「さあ! そうなれば私から勝負を挑ませていただく形となりますね。どのような種目がお好みですか。早押し、イントロ、雑学でも文学でも何でもお受けいたしましょうとも!」
「ユーヤ、ユーヤが決めて」
睡蝶がユーヤの腕を取る。彼女の手はじっとりと汗ばんでいた。この冷気の流れる地下世界で、この場所だけはあかあかと篝火が燃えるかのような。
「どんな勝負でもいい。ユーヤなら、ふさわしい種目を選んでくれると信じるネ」
「種目か……」
ユーヤは二人を見比べる。どちらも才気に溢れ、完全無欠とすら言える知識の持ち主。
だがやはり、劉信。
この人物だけは桁が違うと感じる。たとえ大陸で初めての形式でも、どのような変わり種のクイズでも対応してくるだろう。
それは、あの王子の強さと同種。底の知れない強さだ。
では、睡蝶を勝たせる種目とは。
――ある。
傍らから、声が。
「……」
ユーヤはそちらには視線を送らない。誰もいるはずはない。ここは地球ではないし、彼女と二度とめぐり会えるとは思っていない。
――あるよ、たったひとつ。
たとえ、ありありと声が聞こえたとしても。
「ユーヤ……」
睡蝶が声をかけようとした刹那、するどく見開かれる目。その黒い瞳が、瞳孔が一気にすぼまるように見える一瞬。
「24時間クイズ」
放たれた言葉は、それは壁に突き刺さり、砕けて光の粒となる。
「な……!?」
驚愕するのは睡蝶。だが他の者たちも内心で驚かぬはずはない。
「に……24時間、クイズをやり続けると言うネ!?」
「そうだ。通常、長時間のクイズは何度か休憩を挟むものだが、本当の意味での24時間クイズを行う。ジャンルは早押しクイズ。出題者は交代しながら延々と問い読みを続ける。解答者が休憩している間も、食事も用足しも、解答者が二人ともいなくても休むことなく読み続ける。そして24時間を終えた時点のポイントで勝敗を決める」
「……あり得ぬ、馬鹿げている」
ゼンオウ氏も、この老獪なる王もさすがに混乱を見せる。
「そのような長時間のクイズなど聞いたこともない……いったい、どれほどの問題が必要なのか」
「この世界の一日の長さは僕の世界と大差ない。その上で言うが、僕の経験では24時間クイズで使用される問題はおよそ2000から2500。しかしこれは様々な出題形式を交えた、バラエティ色の強いイベントでの場合。休みなくクイズを続けるとするなら、一問あたり8秒と計算すると10800問。余裕を持って12000問は必要だ」
「一万……」
劉信は思考する。
彼は思考の優先順位を明確にしていた。この場合、その24時間クイズが実現可能かどうかは大した問題ではない。考えるべきはその形式に何の意味があるのか。
(……24時間となれば体力の勝負になる。普通に考えれば私に有利)
(考えられるのは、その24時間の間に裏工作を仕掛けること。私を勝負の場に縛り付けることが目的……ありそうな話ですね)
(どんな裏工作を? 不正でも仕掛ける気ですか)
(しかし睡蝶も勝負の場に居続けることになる。早押しなら簡単には不正もできないはず)
「いいでしょう」
「待て劉信! 危険だ!」
ゼンオウは鋭く止める。
「この異世界人は得体が知れぬ。勝負は避けるべきだ。やるとしても24時間など馬鹿げている。6時間程度でも問題ないはずだ」
「駄目だ。24時間以外は受けない。そして」
ユーヤは懐から懐中時計を取り出す。
「今は夜の19時か。勝負は深夜0時から始める」
「何だと、そんな急な勝負を運営できる人間など……」
「心当たりはある。運営には勝負を進行しながらも問題をかき集めてもらう。ただ、運営を学生に任せる以上、勝負は学生たちの前で行うことになるが……」
「よろしい」
劉信もユーヤも、もはやゼンオウの方など見ていなかった。互いに勝負に没頭しようとしている。クイズの火が燎原を広がろうとしている。
「学生たちは私が何とかします。すべて、私の責任のもとで実現させましょう。我々の運命と」
劉信の瞳は、あかあかと燃えている。
激情それ自体を、楽しむかのように。
「この国の、未来を賭けて」




