第三十三話
※
シュテン大学、正門付近。
「おい! 早く開けてくれよ!」
門に人が押し寄せている。
数百年を経た丸木で組まれた、筏のような構造。それが巨大な巻き上げ機で上下される門だ。
その前には数十人の学生が押し寄せている。その後方からさらに数百人、今はまだ歩くような速度で。
「なんで開かないんだ……」
そこに石もいた。門を占拠していた虎窯の学生たちはもういない、覆面を取ってどこかへ散ってしまった。あとは巻き上げ機を動かせば門が開くはずだ。
巻き上げ機を操作できる小屋のような建物、そこに数人の学生が入っている。
「おいどうした! なんで動かない!」
「いや動かしてるんだ! だが何かつっかえてる!」
学生たちは次々と集まっている、虎窯の学生たちが消えたという噂を聞いたのだろうか。もう少し人数が増えれば力づくでも何とかできそうに思う。
「でも、確か、あの男は……」
石は長髪の男の言葉を思い出す。
――この大学は灰になります。何一つ残らず、灰燼となって風に散る定めなのです。
――広場に行きなさい。水を確保して炎を避ければ死にはしない。
そうだ、確かにそう言っていた。
妙な話だ。もう門は見張られていないのに。まるで誰も外に出られないような物言い。
「おい、なんか甘い匂いがしないか」
「さっきからだ、異様だぞ、何が起きてるんだ」
と、そこへ喧騒が押し寄せる。
さらに多数の学生たちが押し寄せているのだ。みな目を血走らせて駆けてくる。
「どうした」
「大変だ、妖精たちが、統括書記官の劉信が――」
そして背後で上がる黒煙。いくつかの建物でボヤが発生している。さらに雷のような閃光、正体不明の音。
「何だって? 妖精が無差別に……?」
「学生課が燃えてる、材料試験棟もだ、宝石を持ってたら捨てろ、それに妖精が群がってくる」
悲鳴が上がる、誰かの装身具に妖精が出現したのか。
「早く外に出るんだ! 何が起こるか分からんぞ!」
「わかってるよ! だが門がなぜか……」
「――学生諸君」
集まった学生たちが一斉に黙る。門の向こうから声が聞こえたからだ。
丸木組みの向こうから聞こえる声は細く、声の主はそれに気づいているのかいないのか、かろうじて門の下から這い出る程度の声を出す。
「この門は開けられない、いま外から鉄杭を打ち込んだ」
「!? なんでだ! 中で火事が起きてんだぞ!」
「把握している。蒸気化された蜂蜜による妖精の無差別召喚だ。この門を開ければ紅都ハイフウの全土に被害が広がる」
「そんな……! 中の人間はどうでもいいってのかよ!」
「可能な限り対応する。いま灰気精を手配した、まもなくその中に雨が降る」
「あれは限られた範囲にしか降らない! 大学のどこで赤煉精が湧くか分からないんだぞ!」
「君たちから他の学生に伝えてくれ、広い場所に避難するんだ、蜂蜜の蒸気が収まったなら必ず門を……」
そこから先は怒号に塗りつぶされる。数十人の学生が門を叩き、あるいは丸木の隙間に枝を差し入れてこじあけようとする。
音と衝撃。壁をよじ登ろうとした学生が純紫衝精の光に弾かれたのだ。数人で受け止めたようだが、目に見えて動揺が走る。
「門が……開かない……?」
石も愕然とするが、かろうじて思考はできた。他の門なら出られるだろうか。それとも塀をどうにかして壊せないのか。
目の端に暗い影。空に黒雲が浮いている。
大学の広さに比べれば微々たる雲だが、そこから肉眼で分かるほどに密度の濃い雨が降る。見える範囲で3箇所。
「他の門のあたりだ……灰気精を呼んだのか、で、でも……」
ボヤの起きてる建物に当たっていない。そして黒煙の立ち上る場所は増えつつある。しょせん壁の外から呼んだ妖精ではピンポイントの指示など無理なのか。
「おい! 藍晶を投げてくれ! こちらで呼び出す!」
「そ、それは許可できない……妖精を呼べるほどの藍晶は財省が管理している。その使用権は二等高官以上に限られており……」
壁を挟んで押し問答が続いている。集まる学生の数は増えつつあり、そして大学全体を混乱が満たしつつあった。
「ど、どうなっちゃうんだよ、これ……」
人の集合が続き、危険な密度になりつつある。石は恐怖を覚えてそこから逃げ出す。
人の数に対して門の数は少なすぎ、情報は錯綜していた。無数の足音が雨音のように響く。
「も……門は」
広場へ。
体育課の運動場、本草課の試験畑、ともかく広い場所へ行かなければ。
門が開かないことを、伝えなければ。
「門は開かない! みんな広い場所へ逃げろ!」
石の叫びに、すれ違う学生たちが足を止める。
その何人かは門の方角を見て、混乱を認めて引き返さんとする。わずかに変わる人の流れ。
しかし混沌に支配された人間の濁流。その流れがどこへ向かうのか、何が起きるのか、まだまだ誰にも見通せず――。
※
「劉信」
地の底。
時刻も方位ももはや分からぬ大地下の城にて呼びかける声。
書庫にいた文官はゆっくりと振り向き、愛想の良さそうな顔をしてみせる。
「セレノウのユーヤ様、それに睡蝶、決心はつきましたか」
「劉信、私はゼンオウ様に会いに行くネ」
睡蝶が何歩か前に出て、決然と言う。
「ほう」
「ゼンオウ様にお会いして、直接確かめるネ。私が本当にゼンオウ様の子なのかどうか」
数秒の間。
そののち、劉信は肩をすくめる。面倒だなと態度で示す仕草か、あるいは予想通りの反応に退屈さを示す動きか。
「睡蝶、客観的に状況を見るべきでは? シュテンを焼き滅ぼすための仕掛けが存在した。このような地下の城を我々すら知らなかった。そして虎煌たちの存在。ゼンオウ様は様々な秘密を独占していたのですよ。そのような方にお会いしたいのですか」
「……確かに、ゼンオウ様は、このラウ=カンは深い闇を抱えていたネ。それは認めるしかない……」
でも、と拳を胸にあてる。ユーヤと同じ学朱服、その襟をかがる赤の当て布が胸元で交差している。そこに意識を集中させて言う。
「でも媽媽のことは信じている。私が媽媽の娘であることまで疑いたくない。だから信じるために行動するネ。ゼンオウ様に直接聞くことが、真実に迫る誠実な道のはずネ」
「……ふむ」
劉信はユーヤをちらりと見る。絶望に満たされていた睡蝶という器が、とりあえず威勢を張れるほどに回復したのはこの男の仕業か、という視線が向けられた。
そしてまた睡蝶に向き直る。
「お分かりですか、ゼンオウ様のお隠れになられたのは天梅雪峰。一年を通して雪に包まれた霊峰です。七つの山から山域を形成しています。山域にはいくらかの滞在施設があるはずですが、ゼンオウ様は山のどこにいるかも分からない」
「覚悟の上ネ。何年もかけて探したっていい。話をするまで絶対に諦めない」
「……」
高位の文官は少し考える仕草を見せる。その隙を突くようにユーヤが前に出る。
「劉信。彼女を放置できないというなら、君も一緒に来るのはどうだ。皆で協力してゼンオウ氏を探すべきだ。もはやタブーがどうこうと言ってられる状況ではないはず。兵を出してでもゼンオウ氏を探し、この国で何が起きていたのかを糾すべきだ。それが国際的な信頼を得る一歩だ」
「正論ですね」
どこか壁を作るように、そっけなく言う。
「しかし睡蝶、ゼンオウ様に会ったとしても何も変わらないかもしれない。これは忠告として言いますが、より強い絶望があなたを襲う可能性もある。さきほど私が言ったように、魂を束ねてしまえば事態はずっと簡単です。すぐにでも楽になれる。それでも会いたいのですか」
「……私は」
視線の応酬。互いの意志の強さを測るような数秒。ぎり、と奥歯を噛む音がして、睡蝶の淡い色の唇が開く。
「会いたい」
真実からの言葉だと、口に出して初めて自分で確信が持てた感覚。
「私は媽媽を疑ったりしない。私が七十七書を極められたのは媽媽の教えがあったから。媽媽がいたから私は強く育った。だから最後の最後まで信じている。それが私の生き方だから」
「……」
劉信は押し黙る。
口を真一文字に引き結んで、どこか苦々しい顔で。
「もうよい」
はっと、睡蝶の意識が脇を向く。
そして放り投げられる何か。
三つの眼を持つ藍色の妖精。藍映色が、銀メッキされたガラスの立方体に座っている。
その第三の眼が、開かれて。
風景が塗り替えられる。
そこは大広間。
玉座が右手側にあり、腰掛ける人物はかなりの高齢。枯れ枝のような指を大粒の宝石で飾り、刺繍で埋められた外套で体を大きく見せている。
「儂は、禁書を盗み見たお前の命を助けた。お前が儂を満たしてくれると述べたからだ」
頬杖を突き鷹揚に語る。その眼前にいる人物は片膝を突き、両手を体の前に差し出すような姿勢で礼を示す。
「さて……私をどう満たしてくれると言うのか」
「はい」
女性の声がいんいんと広がる。謁見の間のようだが、不自然なほど広々としていた。
この謁見の間を見たことがないユーヤにも分かった。本来いるはずの衛兵や小姓すら置いていないのだ。城には人の気配がなく、あるいはこの映像は地下の城かも知れないと思えた。
「王の望むべきものとは何でしょう。このラウ=カンの王たる見翁様には手に入らぬものはなく、その地位を脅かす者もない。国土は豊かであり民衆もあなたを尊敬している。溢れんばかりの財宝も、大書庫を満たす本もある」
謁見しているのは女性である。みずみずしい若さが全身を満たすような美女。その眼には才気の光がある。ゼンオウを前に物怖じせずに言葉を並べる。
「さりとても最後に欲すべきものとは、国を受け継ぐに足る後継。新たなる王でしょう。優れた後継がいてこそ国土は保たれ、過去に連なる王たちへも永遠の崇拝が向けられる」
「後継者か……儂は子に恵まれなかった。後宮はあるが、儂の子を身ごもった者は誰もいない。今から励む気にもならぬ」
「華彩虎をご存知ですね」
女性が言い、ゼンオウはやや身を固くする。
「やはり見ていたか……。あの虎は普段は身を隠しているが、ここ数年、意識が乱れているのか、現れることが多い……」
「伝承にありき黄金の繭。王は山に入りて繭に入り、より高位の存在となる。金様燈路とは現実に起こることなのですね。伝承と違うのは、かの仙虎が地下にいたことですが……」
「あれは大昔には天梅雪峰にいたのだ。過去の王たちは神の誉れを受け、あるいは高位の存在になったのやも知れぬ」
それがどうしたのだ、という構えを見せる。女性は跪いたまま、自信にみなぎるような笑みを浮かべる。
「人間を作る。あなたの後継に足るほどの人間を」
「何……」
「かの仙虎は人間を利用しようとしている。妖精の王を討つために、高位の存在を作り出そうとしている。利用できるはずです。我々の求めるままに、無数の魂を束ねさせることが……」
闇が降りる。
映像が終わったのだと理解する。床の上には記録体に座った妖精。人間の営みを笑うかのように微笑を浮かべている。
「今の記録は、まぎれもない真実だ」
闇から出てくる人影。
老いていながらも背筋は伸びており、巨齢樹のような威厳を備えた人物。その枯れ木のような指、落ち窪んだ眼窩は、映像よりさらに十数年は年齢を重ねていそうな――。
「ゼンオウ氏……!」
瞬時に、ユーヤはいくつもの事を考える。
彼は山に入っていなかったのか。
考えてみればそれは道理。華彩虎が山からこの地下に移った以上、山に入ることに意味はない。ゼンオウ氏は事の起こりからずっと地下の城にいたのだ。
あの藍映精は本物か。
それは間違いない。あの女性が睡蝶の母だとして、母の顔を間違うはずがない。フェイクを用意したとも思えない。
(まずい……こんなタイミングで、動かぬ証拠を突きつけられては……!)
そして、すみれ色の眼を持つ人物は。
睡蝶は――。




