第三十二話 (過日の8)
※
過日。
七沼は灰色のスーツに袖を通していた。貸衣装だがサイズはあまり合っていない。痩せていて胸板が薄いためだ。服の中で体が泳ぐという意味を理解する。
その人物と会うのはホテルのロビーである。相手は七十がらみの老紳士。呉服を着て杖をついている。
脇には同じく、レディスのスーツで正装した人物がいた。
草森葵。彼女のそのようにかっちりとした姿を初めて見る。七沼はそのような彼女も魅力的だと感じたが、今は目の前の老人に正対する。
「お嬢さんには、クイズの才能があります」
いくらかの資料と書籍をテーブルに広げる。傍目には富豪の老人に商談を持ちかけるビジネスマンに見えただろうか。七沼は何度も練習した通り、資料を交えて説明する。
「今後、クイズは大きなビジネスになると考えています。僕は同人のクイズサークルを運営しつつ、イベント企画などの会社を立ち上げたいと思っているんです。テレビ局にもアドバイザーとして関わっていければと考えています」
テレビ局とコネクションがあるのかね、と老人は尋ねる。高校の頃から、と七沼は答える。
「クイズの裾野は広く、イベントとしての需要も高いと考えています。いわゆる競技クイズとして実力者の戦いを見せる興行も考えられますが、クイズやパズルなどをアトラクションとして売ることもビジネスになるはずです」
そのような商売は聞いたことがないな、と老人は言う。資料に目を通していることを確認しつつ、七沼は語る。
「1992年、ある人物が大手遊園地のお化け屋敷をプロデュースしました。その人物はお化け屋敷に高度なノウハウを生み出し、スタッフの指導や世界観の構築などを手掛けた。そのようにプロデュースされたお化け屋敷は評判となり、来園者数に貢献しているそうです」
それが、クイズでも起きると言うのかね。
「はい。そのために必要なのはブランド化です。個性豊かなクイズ王の発掘。別ジャンルとのコラボレーション。テレビゲームやボードゲームのプロデュース、書籍の刊行、これらは一つながりの商機であり……」
そのような七沼の話は、実現したものもあればしなかったものもある。だがこの時代、まだリアル脱出ゲームなどという言葉が存在しない世界においては、なかなかに核心を突いた未来予測だったと言えるだろう。
「そのために、お嬢さんの力が必要なんです」
老人は脇にいる女性を見る。
彼女はじっと膝に手を置き、言葉も発しない。
それは七沼への信頼を示す姿か、あるいは強い風に耐えるような姿に見えた。
「お嬢さんなら、きっとクイズ王として売り出していけます。その卓抜な実力があれば」
話は分かった。
老人はそう言い、資料を懐に入れる。
七沼は、用意したことをすべて言えたことにまず安堵する。
そして草森葵もこの場に立ち会うことに同意してくれた。彼女の意思で、世界に出ていくための一歩を踏み出したのだ。何よりもそれが喜ばしいと思っていた。
己の用意した話を振り返れば、まだまだ青二才の妄想という雰囲気は拭えない。
クイズが商売として成り立つのか、テレビ局に就職できるのか、希望的観測で無理やり塗りつぶした未来予想図。
しかし踏み出さねば何も変わらない、思い描かねば未来は訪れない、そのような言葉で自分を勇気づける。
あの老人とはきっと何度か会うだろう、次の機会に備えて具体的な企画を練り上げねば、そのように心に刻み――。
※
――雨が。
雨が降り注いでいる。
全身を雨に打たれている。
七沼のアパートの最寄り駅、その近くにある飲み屋の裏手。
ゴミ箱がひっくり返されて、中身を野良犬が漁っている。排水溝に流れていく雨水に、ひとすじの赤い帯も。
「……が」
肺から息が吐き出される。右腕と左足の激痛に意識が飛びそうになる。
顔は高熱を持っていて、秋口の雨がじくじくと染みる。
「ふ、ぐ……」
這い進む。左足は完全に折れている。
ここまでやるのか、と、七沼は乱れる思考の中で思う。
ホテルからの帰路、最寄り駅に降り立った七沼を襲ったのは数人の男、暴行は実に30分以上に及んだ。表向きには財布を狙った不良によるものだったが、七沼にはそれが自分を狙ったものだと理解できた。一人がハンディカムを構えて撮影していたから。
現代社会ではありえないほどの古めかしい、大時代なやり方。こんな無法が許されるのか、許されるほどの家なのか。
あのハンディカムの映像を誰に見せるつもりなのか。それを想像すると胸が痛む。
自分は無事だと伝えたい。暴力などで屈したりしないと叫びたい。殺すなら殺してみろ、それでも折れたりはしないと断言できる。自分にとって命など、クイズの重さに比べれば――。
七沼に思考できたのはそこまでだった。通行人が彼を見つけ、悲鳴を上げるのが聞こえる。
その悲鳴が彼の意識を、コンクリートの下へと連れ去っていった。
※
記憶は閉所をさまよう。
思い出の日々は折り重なり、細部は削ぎ落とされて印象の色を濃くする。その中で末尾の記憶は冬の頃だった。寒風に閉ざされた空間。暗がりに取り残されるような不安。
不自然なほど広大な屋敷である。都内にこれほどの敷地を持つことが許されるのかと思うほどに広い。日本庭園を囲むように配置された建物。板張りの廊下はどこまでも続き、襖には手描きの水墨画が描かれている。
寂寞としている。誰もいない屋敷。雨が吹き込んだのか、畳の間は独特の異臭を放っている。
歩くのは七沼と呼ばれた男。屋敷の周りを2周して、勝手口の近くの塀を乗り越えて侵入していた。
「誰か、いますか」
何度目かの声を放つ。
家人が不在の中でそのように侵入する、それは立派に犯罪であろう。
七沼は人を探していた。草森葵。彼女はホテルでの一席以来、大学に来ていないという。
「葵さん、どこにいるの」
彼女が通学で使っていた自転車はガレージにあった。車はない。それが何を意味するのか七沼には分からない。
七沼は下腕部をさする。折れていた腕のギブスは昨日取り除かれたばかりだ。腕の皮膚はふやけてシワが寄っており、少しかゆみがある。
入院が思いのほか長引いてしまった。全身打撲と四箇所の骨折、内臓のダメージもさることながら、慢性的な寝不足と栄養失調により感染症を併発していたという。結果的に一か月あまりも入院することとなった。
ひたり、と足を止める。
何かの気配がする。夕刻を過ぎた屋敷は暗くなり始めており、屋敷の中は非常灯すら点灯しない。その中で言語化できない気配を感じる。細い廊下へ入り込み、左側の部屋。
「開けるよ」
襖を開ければ、果たして彼女はそこにいた。
だが、その姿は。
全身に新聞紙をかぶっている。二十畳はある和室の片隅で、冷えた畳の上で寝そべっている。そして部屋の全面にばらまかれた新聞。部屋の隅に積み上げられた古新聞。
「遅かったのね」
部屋の中だというのに息が白い。七沼は異常事態だと認識しながらも、部屋に踏み込むのが数秒遅れる。その姿はあまりにも異様だったから。まるで部屋の隅に繭を作った虫のようだったから。
「葵さん。大丈夫。ちゃんと、ごはんとか食べてる……」
「大丈夫よ」
彼女の全身を気だるさが包んでいる。そばにかがみ込んで、腕を取ればそれは糸杉のように細かった。あるいは彼女の手は昔からこうだったのか、ゆるやかな衣服で肉付きをよく見せていた彼女は、文字だけを食べて生きていたのか、そんな異様な感覚が浮かぶ。
「七沼くん、私はね、この家をそっと出ていくつもりだった」
七沼がカロリーバーとお茶を渡すと、彼女はそれをもそもそと食べる。飲まず食わずだったとは思わないが、何かしら互いの不安を埋め合うように咀嚼し、飲み下した。
「父と祖父は私を政略結婚に使うつもりだったけど、私は受け入れようと思っていた。夫の財産を使って気ままに生きようとね」
「……」
「でも、七沼くんの提案が、魅力的だったから。自分の知識は才能だと、神様からの贈り物だと思えたから、だから七沼くんの話に乗ろうと思った。クイズに関する検討会も、祖父と七沼くんの話し合いの席を設けたことも、意味があったと思えた」
「そのことは……」
「でも駄目だった。祖父は最初から話を聴く気なんか無かったのね。七沼くんを襲わせて、その録画を私に見せたのよ」
「もういいんだよ、そんなことは」
「そんなこと……」
その切れ長の眼が七沼を見る。氷のように冷たい、それでいて悲しげな眼だと感じた。その細い体の奥には激情が詰まっていた。けして怒ったり、声を荒げたりしなかった彼女が、その内側に感情の奔流を秘めていたのかと、そう思わせる目。
「私は許せなかった。人ひとりの人生を台無しにするところだった。命を落としても不思議じゃないほどの、暴行を……」
誰もいない屋敷。寒い部屋。冷たい畳。
その中で草森葵だけが熱を放つかに思えた。全身の細胞が煮えたぎるほどの怒り、それは彼女がこの家に向けていた怒りなのか。
家に対して従順だった彼女が、ずっと育ててきた火種なのか。
「だから、罰を与えたの」
入院中に、耳にしたニュース。
それは日本を揺るがしかねないほどの査察事件。
関係省庁に届けられた告発資料はダンボール三箱分。数日後には関連する証券会社に地検が入り、さらにダンボール数百箱に及ぶ資料を押収。発覚した事案は粉飾決済、不正競争防止法違反、裏金隠し、のちの時代で言うパワーハラスメント事案などであり、その企業連合体を根幹から揺るがすかと思われた。
まだ捜査は慎重に進められている段階であり、日本有数の倒産事案にまで発展するのは実に一年後のこととなる。
だが機を見るに敏なりと言うべきか、この家の主たちは姿を消した。持てるだけの財産をもって国外に移住したのだという。
そのような流れ、七沼はにわかには信じられなかった。書類だけで人間を追放することなど可能なのか。これだけの家を放置して国外に逃げることなどありうるのか。逃げたとして追及を逃れることなどできるのか。
七沼の知る世界とは違う、世界の薄皮を剥いた向こう側の出来事、そのように感じる。
「もう誰も、この家に戻ってこない」
それは一介の大学生には理解できない、草森葵のような異能の人だけが与えうる罰なのか。
「どこにも戻れないのよ。あの人たちは、ゆっくりと時間をかけて、世界のどこかですり切れていくの」
また畳に横たわり、そのままの姿勢で草森葵は言う。薄手のシャツと黄肌色のスカート。歌うように言葉を並べる。
「お金は砂のように散っていく、土地は腐って沼になる、最後には何も残らない、誰も名前も覚えていない……」
「葵さん、部屋を暖かくしないと……エアコンのリモコンはどこ? どこかにストーブでも……」
草森は眼球だけを動かし、七沼を見る。
「もう電気が来ていないの」
「じゃあ、ウィークリーマンションでも行こう、何なら僕のアパートでも」
「出たくないの」
無駄を削ぎ落すように、その語り口は端的で断定的である。
「もうどこにも行きたくない。私はこの世界にふさわしくない」
「そんなことはないよ、君の力は……」
「あまりにも多くのものに罰を与えた。罪のない人も巻き込むことになった。私だけが世界に出ていくわけにはいかない」
「葵さん落ち着いて、君のせいじゃない。実家を告発したのは知ってる、でもそれは元々から罪を抱えていただけの事で」
「それなら」
奇妙な人物だった。
あとから回顧しても、何度振り返っても、七沼には彼女の考えていることが理解できなかった。
その言葉も、取り巻く境遇も、彼女がやろうとしていたことも七沼の理解を超えている。
「クイズがしたいの」
「クイズ……? いいよ、付き合おう」
「クイズの本が読みたい。たくさん持ってきて、何冊でもいいの、七沼くんが例会で使った問題集も、テレビ番組の文字起こしでも、すべて読みたいの。私はここで、別のものに変わるの」
「変わる……」
「そう、この家で繭を作るの。今までの自分をどろどろに溶かして、別の何かになるの。クイズならそれができる。何週間もかかるかもしれない。手伝ってほしい」
「いいよ、手伝う」
吞まれていると感じる。
理解できないままに、彼女の世界観に引きずり込まれる。
あるいはそれは、王の本質か。
理解の及ばぬ者こそが王。
七沼の思い描く世界の、外側にいる存在こそが……。




