第三十一話
「わ、私が……」
声が震えている。大人びていながらもわずかに未成熟な部分を残した鈴のような声。それが言い知れぬ不安に揺れていると感じる。
「そ、そんなはずはないネ。私は魂を束ねられたりしていない、ずっと昔から、朱角典の城で学問を……」
「おかしいとは思わなかったのですか? 摩筆百節、科典で一人前の成績を得るには百の季節を勉学にそそがねばならない。すなわち25年です。私もあなたもずっと若い、そこにいる虫たちもです」
「ち、違うネ、本を読んだ記憶はある。歴史書も自然科学も、政治学も詩文も」
「私にもあります。そこにまったく違和感がない。神の力にそのような不完全さは無いのです。だから自分自身では気付けない。客観的証拠があるとすれば、我々の異能さそれ自体です」
「う……」
睡蝶はユーヤの背中にしがみつき、嵐に耐える羽虫のよう。できれば耳をふさぎ眼をふさぎ、この場から逃げ出してしまいたい衝動に耐えている。
「科典の成立より80年あまり、試験官の買収など不正も絶えませんが、実力で九割を超えたと思われる者はほんの数名。20代までで達成した人間は皆無です。それがこの時代に八人も現れた。これが異能でなくて何でしょうか。あなたも理解しているはず、天才と呼ぶにも異常すぎた自分の力に」
「……劉信、もうやめるんだ、これ以上は」
「ち、違う。私は媽媽の教えを受けたネ。ゼンオウ様も言ってくれた、私は特別で、完璧な人間……」
「私は、この事象の根源にいる人間、それがあなたの御母堂を名乗る人物だと思っています」
劉信は冷徹に言い放つ。そしておそらくユーヤが聞いている以上に、睡蝶自身があらゆる可能性について思い至ろうとしている。自分の存在が異常だとすれば、それはどこから始まっているのか。
「その人物は世にも稀なるほど乱読家であり、王宮に忍び込んで禁忌の記録すら読んだという。忍び込んだ場所とはすなわち、この地下の城だった」
「……」
「そしてその人物は忘れ去られし記録に触れた。城に身をひそめる古代の神と、その能力について」
ユーヤは中庭の方向に意識を向ける。まだ神は横たわっているのだろうか。あれが幻なら、劉信の話も全て絵空事で片づけられるのに。
「そして彼女はゼンオウ様に提案したのですよ。華彩虎の力を人材の育成に活用すべきだと」
魂を束ね、より高位の人間を生み出す力。
「そうなればこのシュテン大学、そして科典というシステムは実に都合が良かった。毎年の受験者は数万人。心折れて姿を消す人間や、学問の苦しさのあまり命を絶つ人間すらいる。そうでなくともラウ=カンは広く、たいへんな僻地から来る者も多い。シュテンにすらたどり着けずに野盗に襲われる人間もいるのです。行方不明者はいちいち探されもしないのですよ」
「それが、縒り合わされたというのか」
「だが一つ問題が起きた、ハイアードに鏡を奪われたことです」
劉信はユーヤに口を挟む余裕を与えず話し続ける。それは義務のようでもあり、誰かを鞭打つ愉悦のようでもある。言葉それ自体が鋭さを有していた。あらゆる事象が一つに繋がっていく鋭利さ、それが空気を裂く。
「ラウ=カンでも鏡のことは忘れられていたか、あるいはゼンオウ様が封印し失念していたか、それはどちらでも良いでしょう。そして先日の騒動のさなか、ハイアードの王子が鏡の力を使っていること、それが華彩虎の力に通じていることが明らかになった。ゼンオウ様は過労により倒れられたため、事態の全容を知ったのは帰国された後でした。他でもない、睡蝶、あなたが報告を上げたことですよ」
「も、もちろん、覚えてるネ……」
「ゼンオウ様の心中はいかばかりでしょうか。ハイアードはいま大変な国難の中にある。ラウ=カンもそうなりかねないと考えたことでしょう。事が露見すれば国際的な非難を浴びるだけでは済まない。ラウ=カンの国体が揺らぎかねない騒乱となるでしょう」
「――だから、燃やすのか」
ユーヤが言い、劉信は口の端で笑う。
「ええ、ゼンオウ様が目を放された隙に、検体とも言うべき者たちが勝手なことをしていましたからね。焼き払うべきは虎煌たちの活動の記録と、古代の神に関する記録です。それらをすべて焼き払い、この穴も封印する、そのための用意があった。あるいはずっと前からこの日は予見されていたのでしょう。いざというときには蜂蜜の煙を焚き、妖精の力によってすべてを焼き払う用意が」
震えが。
背中の睡蝶から震えが伝わる。それは膝から来るような震えだった。断崖絶壁のきわに立つような、常なる世界と滅んだ世界、その境界線上に立つような震え。
彼女を構成していたすべての記憶が、世界が、人とのつながりがすべて裏返りつつある。何もかもが否定されようとしている。それが彼女の人格を揺さぶっている。
あるいはそれは目の前の人物にも、軽妙洒脱だった男にも起きたことか。
「劉信」
ユーヤは、それが正着なのか分からぬままに口を開く。何かを言わなければ、背中の震えを沈めなければという衝動に突き動かされる。
「何でしょう」
「君たちが作られた存在だからといって、だから何だと言うんだ。すでにゼンオウ氏は入山して俗世から離れた。君たちは自由なんだ。記憶になんの齟齬も無いのだろう? それならこのまま役人として生きればいいじゃないか。他の人より優れた知性がある、武力もある、それの何が悪いんだ」
劉信は重心を背中側にずらすようにゆったりと構え、やや斜に構えた視線をよこす。
「その存在が一人なら、何も不安は無いのです」
「……」
劉信は背後の人物たちを見る。六人の男たちはものもいわず、ただぽつねんと立っている。
「ユーヤさん、あなたにもお分かりでしょう。彼らも人間の枠を超えるほどの存在です、だから放置はできない。虎を野に放つも同じこと、彼らの知力は国家の枠組みを超える、この世の鎖で捕らえることはできないのです」
その時、ユーヤのまなじりに強い感情が浮かぶ。
体のどこかに針を突き立てられるような、浮かびかけた激情を意志の力で抑え込むような気配。劉信も数秒、けげんな顔をするが、話を優先させる。
「我々は本来、完全なる一人となるための素材に過ぎないのです。唯一無二の力を持つものは、この世に一人でなければならない。だから束ねて、より完全なものに近づくべきなのですよ」
「彼らに野心はない。船を与えればいいじゃないか。それで、彼らは大陸の外に出ていく……」
「事態が露見する可能性は排除せねばならない。これは私の意思というより、国家として当然の判断です」
「可能性というなら、すでに多くの人間が消えているはずだ。彼らにだって家族がいた、想い人だって……」
背中から睡蝶が剥がれる。
ユーヤが振り向く刹那、彼女は遠く走り去っている。明かりの乏しい城の中で、その闇の奥に。そして劉信が手槍のような言葉を投げる。
「睡蝶! よくお考えなさい! あなたも束ねられた人間である以上、放置はできない。人間を超えた存在は国家の制御をも超えるのです!」
「わかった、もういい」
ユーヤがその言葉を止め、闇の奥に目を凝らす。
「彼女と話をしてくる」
「結構ですよ。地上の朱角典における彼女の居室がその奥、150メーキほど向こうにあります。おそらく同じ場所に向かうでしょう」
「わかった」
暗がりへと歩を進める。
空気は生ぬるく、重い。
どこかの方向にいるはずの獣の気配も、わずかな人間の息使いも遠くなり、ユーヤは一人歩む。
「睡蝶……」
このような暗い廊下を歩んだことがある。
広く広大な屋敷、そのどこかにいる少女を探した記憶がある。
それはいつのことだったか。
物寂しい屋敷の最奥にいたのは誰だったのか。
記憶は不思議に重なり合うように思えた。向かって左にある扉、それが寝室であると感覚で分かる、それは記憶との偶然の一致か、あるいは人間工学的な帰結か。
「睡蝶、中にいるな? 入るよ」
そして扉をそっと押し開けて、綿のような闇が詰まった部屋に踏み込む。
中は異様に暗い。数少ない灯火はもはや遠く、妖精の明かりはこの地下には持ち込めない。
腕が捕まれる。
それは強い力が込められていた。ユーヤは引き倒され、畳のようなむしろを貼っただけの寝台に引き込まれる。
「ユーヤ」
その体に絡みつく存在がある。強い力で彼を抱きしめ、ユーヤの薄い胸板に腕を回し、これ以上ないほどに強く抱きしめようとする。
「……睡蝶、落ち着いて」
「ゆ、ユーヤ、私は」
言葉がのどに詰まるのか、何かを言えばそれが確定してしまうと思うのか、舌先がもつれている。
彼女自身、己の自我がどのような状態か言語化できていない。それはあるいは連続性の喪失、エゴイズムの揺らぎ、または、自己同一性の不在。
「わ、私は束ねられてなんかいない。媽媽は私につきっきりで勉強を教えてくれた。ゼンオウ様も私にものを教えてくれたネ、子供の頃から、ずっと」
それすらも、人格の統合による幻覚だったなら。
それは数十人に与えられた教育であり、統合の際に都合のいい形に改変された記憶ではないのか。睡蝶の白い歯がユ-ヤの肩口に食い込み、嗚咽とともに不確定な言葉が吐き出される。
「ど、努力もしたネ、寝る間も惜しんで、わき目も振らずに、武の修行だって……」
この若さで、それほどの知力と武力を積む。
創作上の人格のようだ、という言葉が闇の魔物となって部屋の隅にたたずむ。
「そ、それに、私はゼンオウ様と媽媽の娘ネ。愛情を注がれていたはず。誕生日は焼き菓子で祝ってくれた。修行もずっと見ててくれた……」
ある日、それがすべて虚構だと気づいたなら。
ある日、VRゴーグルが外され、自分の生きてきた人生は仮のものだと知らされたなら、人間はどうなってしまうのか。
楽しい思い出は持てたと割り切れるのか。身についた知識や技術は財産だと受け入れられるか。とてもそうは思えない。
睡蝶の熱を持つ肌に触れて、嗚咽に溶ける声を聴いて、ユーヤはつとめて冷静になろうとしている。
ゼンオウ氏の生殖能力はどうなのか。ギネスによれば96歳の男性が女性を妊娠させた記録もある。ゼンオウ氏の公称年齢104歳という数字から逆算すれば、不可能とまでは言えない。そんなことを考える。
「ユーヤ、私の実在を確かめて」
彼女のすみれ色の髪が頬にかかる。髪留めを外したのか。
「わ、私の、生きてきた人生は幻なんかじゃない。この体も、知識も、私だけのもの、私自身が得たもの、私が……」
「睡蝶、聞くんだ」
あるいはこの場で、彼女の好きにさせるべきだったかも知れない。
だが、ユーヤの過去の記憶が。
ある人物に関する記憶が、どうしても頭をもたげてくる。それを明確にせねばならない。
「ユーヤ……」
「劉信……彼は言った、自分たちの異能こそが事態の証拠だと。常人では完全制覇など不可能な科典の試験、それを極められる自分たちは異常な存在なのだと」
「う、うん……」
「僕は、そうは思わない」
――そうね
気配が。
それはユーヤの背中にぴたりと張り付くように思えた。汗ばんだ学朱服が肌に密着したのか。あるいはユーヤの心に巣くう誰かが、闇の中で肉体を得たのか。闇の中でユーヤに抱きついているのは誰なのか。
「睡蝶、この世界には超人がいると思うか」
「……?」
「誰も及ばないほどの怪物。あまりにも隔絶した力を持ち、この世のすべてを知り尽くすほどの超人だ。一般の世界ではそんな人物は見つからない。天才的な脳を持っていても、環境が整わないからだ。数百万人に一人の才能ある人間。それを生まれたその瞬間から育成する。僕たちの世界で、いや、近代的な社会でそんな条件が満たされることはほとんど無い。だから誰も見たことがないんだ。超人を」
「そ、それは」
それは、あまりにも絵空事。
創作にあるような伝説の戦士、魔王を倒す勇者のような生きざま。知の世界にそれが存在するのか。
「僕は見た」
一瞬、睡蝶の瞳がはっと開くかに思われた。暗闇の中で彼女の体は輪郭すら見えないが、確かに瞠目する気配が。
ユーヤは思い出そうとする。だがユーヤの記憶でもそれは幻想の出来事のようだった。あまりにも世界と隔絶していた王の記憶。
「超常の人を、知識の巨人を見たことがあるんだ。僕の世界には妖精も、神もいない、ただ人間だけが共通して存在するだけなのに、その人物は確かに存在した。異能は生まれうるんだよ」
「ほ、本当ネ、それなら……」
「そうだ」
鼻が触れるほどの距離に睡蝶がいると分かる。彼女は息を呑み、ユーヤの言葉を待っている。
「君は、天然自然の存在かも知れない。まずはそれを確かめることだ」
そして浮かぶ顔。
それは老獪にして奇っ怪。大乱期の直後より世界を見つめてきた人物。
「確かめられるはず……。ゼンオウ氏に、この国の王に会えれば……」




