第三十話
突然更新をお休みしてしまい申し訳ありません
新型コロナに感染・発症し、しばらく療養しておりました
ようやく体力と気力が戻ってきたのでゆるゆると更新再開させていただきます
もうしばらくお付き合いいただければ幸いです
「今のは……」
悪臭というより、その薫りは一個の世界観を持っていた。麦畑を渡る風のようなかぐわしい薫り。
「何か居るネ。この奥は、地上の朱角典なら郭(中庭)になってるけど……」
大きく厚い扉を押し開ければ、そこは暗い中庭。
そこに、虎がいた。
「……!」
その巨体は浜辺に打ち上げられた戦艦のごとく。体毛は体の大きさに比べれば短いが、巨体に比例して麦の穂のように長い。厚ぼったい顔の肉と目の周りの肉。人間などはたくだけで潰せそうな大きな手。そして黄金と漆黒が入り交じる、悪夢のように美しいまだらの毛並み。
それは中庭の中央に寝そべり、腕は顔の下に組まれている。
奇妙なことには、その虎の伏せる周囲にのみ花が咲いている。毒々しいまでに鮮やかな花弁を持つ、ユーヤにはよく分からない異国の花。ユリか蘭に似ていた。
「華彩虎……まさか、信じられないネ、本物が……」
「古代の神だ。やはりラウ=カンにもいたのか」
そこで気づいたが、その虎は目蓋を縫い合わされている。綱引きにも使えそうな太い縄で、ジグザグに縫われているのだ。
「ああ、そこにいるのは誰ぞえ」
睡蝶が身をすくませる。突然、頭の中に声が響いたのだ。
ユーヤは過去に経験していた。彼は口元に手を当て、なるべく感情を出さない構えになっている。この虎が友好的とは限らない。
「誰でもいい、早く殺しておくれ」
「殺す……?」
よく見ればその虎は痩せ衰えて見える。腕は筋ばって皮がたるみ、骨格が皮膚を突き破らんと尖る。あくまで万全ではない、という程度ではあるが。
「おお、口惜しや、うるわしき私の体を蹂躙せしあいつを、どうか殺しておくれ。それともここへ引き立てておくれ。私が牙をもって噛み砕いてくれる。その肉を喰らい血潮をすすり、私を飾る残紅のひとひらにしてくれる」
その声は濁っていて聞き取りづらく、ユーヤたちに言っているのかも曖昧だった。悲しむような怒るような、暗澹たる感情がこの洞窟を満たすかのようだ。
「あなたは華彩虎か、古代の神なのか」
慎重に、ユーヤが問いかける。
「ああ、憎きあいつ、殺しておくれ、欺き、打ち据え、さげすみ、忘れ去っておくれ、私のために憎んでおくれ……」
「……それは妖精の王のことなのか。古代の神を打ち負かし、封印を与えた……」
「うう、そう、我は憎き妖精の王と戦い傷つき、我はこの地に身を潜めた」
呼びかけに反応しているのか、それとも夢うつつの言葉なのか、会話をしているという感覚が遠い。
「教えてくれラウ=カンの古き神。妖精の鏡とは何なんだ、なぜあなたは妖精の王を殺そうとする」
「ああ、うう、あれは」
虎は微動だにしていない。口も動かさない念による会話。だが華彩虎は言葉をためらう気配があった。言いたくないことを避けるような気配だとユーヤは感じる。
足元に小さな花が増えたような気もする、ユーヤはその花を踏まぬように一歩さがる。
「妖精の鏡は、我らを封じるための器物」
「……!」
「かつて海の彼方を無が満たしていた頃、我らは大陸を離れて陽帝の沈む果てに至った。霧の獅子が大地のかけらを運び、泥濘竜が泥をこねて山河を作り、棺の蝶が循環を生んだ。ああ、遠く輝かしき詩情の記憶、かつては無限があった、途切れぬ栄えがあった」
「まさか……この大地をあなたたちが作ったと言うネ」
睡蝶の反応に、ユーヤは少し疑問めいた顔をする。眼の前の虎が念の力で話しているなら声を潜めようと無駄なはずだが、それでも小声で問いかける。
「睡蝶、そういう神話は伝わってないのか」
「い、いないネ。地質学者が言うには、大陸は少なくとも数百万年前から存在してるはず……」
「多くの力ある神が世界を作った。ああ、懐かしい、理想のことわりが山河を満たしていた。白猿神は過去を創造し、あるべきものとして割り込ませた」
会話に割り込むように念話が来る。己の語ることを疑われたくないのか、とユーヤは思う。
「その話が、妖精の鏡にどう関係するんだ」
「ああ、恨めしい。あれは我々の力を吸い上げている。契約の呪法を織り込まれた忌み物。妖精どもが大地の隅々まで根付き、我らは大地の気を吸い上げることができず、衰えていくばかり、あな悲しや」
(そうか)
思考は短く、断片的ながらも、石板に刻み付けるように浮かぶ言葉。
(妖精が、何度か無理やりに鏡を使わせようとしたことがあった)
(それは、鏡の使用が神の寿命を削る手段だから)
(妖精の鏡は人と妖精の契約の証であると同時に、この世界の旧支配者たちを封印し、その力を削るための呪術的な道具……)
そのようなユーヤの思考は、おそらく真実と呼ぶにはあまりにも大雑把な理解であろう。
だが間違いなく真理に迫らんとしている。ユーヤは地上の喧騒のことすらわずかに忘れ、思いつくまま言葉を飛ばす。
「では、ラウ=カンの鏡にはあなたの力が秘められているのか」
「うう、違う、どの土地に我の力が奪われているのか、定か、ではない」
神の念話は安定しておらず、急にたどたどしくなる。それは苦悩だと感じられた。催眠が解ける直前のような、思考の混乱に苦しむ気配。
神の語り口は切実ではあったが誠実ではなかった。分からないことは多く、それを知られまいとしている気配がある。
「……あなたの力とは」
「我は魂を撚り合わせる」
ぽう、と、中庭のあちこちに光が浮かぶ。
それは繭のようだった。大きさは大人が一人だけ入れるほど。多くは破損しており、天女が忘れた布のようにひも状になっているものもある。
「あらゆる場所には砂粒のごとき無辜の魂がある。砂を撚りて蟲を生み、蟲を撚りて獣を生む。獣を撚りて人を生み、人を撚りて超人を生む」
「……魂を撚り合わせて、より強い生物を生む? それが、鏡の力として顕現するというネ?」
「鏡は針穴のように細い道。吸い上げられた我の力は、おそらく矮小で不完全なものとなる」
「……そうか、ハイアードの鏡だ」
「……!」
睡蝶が音もなく驚愕する。
いま、この世界の深奥の秘密が。
もっとも重大で神秘的で、世界の未来に大きくかかわるような秘密が明かされているのだと――。
そして睡蝶の眼はわずかに震える。
まだ成熟しきれぬ少女は、その聡明な脳で何かを思考しようとしている。早く深く、己の意志でも止められぬような連想とひらめきの連なり、それに翻弄されている。
「人間を守護霊に変える、それもまた脅威の力だが、あれは完全ではないんだ。真の形は、複数の人間を撚り合わせて一人の人間に変えること」
「な、なるほど……主体がどうなるかの問題を無視すれば、それは確かにハイアードの鏡の上位互換ネ」
「神よ、他の神の力が知りたい。棺の蝶は聞いたことがある。たしかセレノウの神様だな。どんな力を持っていたんだ」
「おお、誰ぞ殺しておくれ、知恵を尽くし、命を束ね、その身を捧げて戦っておくれ……」
「……」
「そのぐらいが限界でしょう」
はっと二人が振り向けば、そこには黒の長髪と、簡素な官服の人物。劉信がいた。
一瞬、彼に言うべきことが山ほど浮かぶ。
だが今は神に迫るべきだと感じた。場をそのような問いかけの流れにしようと、ユーヤはやや芝居がかって言う。
「劉信、なぜ止めるんだ。これこそ世界の秘密。今は可能な限り情報を引き出すべきだ」
「棺の蝶は死を操ると言われています。この世界に生命が溢れることを防ぐため、適宜に死を与えるとね。霧の獅子は距離を無視して物を運べる。白猿神は新しい何かを与える。泥濘竜は泥を生み出し、あらゆるものを作る。まあ諸説ありますがね。おそらく華彩虎ですら正確には知らないでしょう。神々は互いに牽制しあっているフシがある」
「……それで五柱か。確か、パルパシアには樹霊王という神がいるとか」
「樹霊王とは巨大な神木であり、あらゆるものが2つ実ると言われてます。あの国に双子が多いことを説明するための神話ですね。樹霊王は正体不明さが他の神よりも色濃く、実際に何かを行ったとかいう神話は伝わってません。私も華彩虎に聞いてみましたが、うまく説明できないようでした。それはあるいは本当の樹木であり、神格ではあっても他の神と意思の疎通はできなかったのかも知れません」
「ヤオガミの神は……ヤオガミの鏡だけは他の国のそれと大きさが違う、何か意味があるのか」
「知りませんね。あの国は多神教だったり土着信仰が濃かったりで、主だった神様だけでも数百はいたはずです。太陽神のヒクラノオオカミが最高神だと言われてますが、月の神とか冥府の神も最高位らしく、地方によっても違うようです」
そのような会話はどことなく義務感を伴っていた。どこかの段階で行われるべき面倒事を最初に片付けようとする気配。劉信は両袖に手を突っ込む形で腕を組む。
ユーヤは背後に意識を向ける。睡蝶はユーヤの背中に張り付き、劉信から己を隠そうとしてるように思えた。怯えとも違う、この場からできれば遠ざかりたいような、何か嫌な予感を前に身をすくめるような気配である。
「……劉信、この場所は何なんだ。なぜ地上と同じ城がある」
「あの世ですよ」
その端的な答えは真理を突くというより、そのような質問は下らない、というニュアンスが濃かった。地上と同じ城が地下にある。その理由を知ってどうするのか。我々は考古学者ではないのに。
「ラウ=カンでは人は死ぬときに二つの形があります。山に登って完全なものとなるか、地に潜って次の生まれ変わりまで混沌の中で過ごすか。かつての権力者は地の底に第二の王宮を作ったのです。いざ本当に死んだときも、魂が地下の城で暮らしていけるようにね。しかし前に言ったように王の死は禁忌ですので、この城は存在する事すら隠された。恐ろしいとは思いませんか。これだけの大工事でありながら、まともな記録はほとんど残っていない。いったいこの穴を掘った工事夫は、この城を作った職人たちはどうなったのか、想像するだに忌まわしいですね。おそらくは1700年以上は昔の話です。そしてシュテン大学がこの土地に造られたのは、おそらくそのような国史の禁忌を塗りつぶすため」
「では……ここに神が隠れているのは」
隠れる、という言葉に否定的なニュアンスの念話が届く。しかしそれはもはや言語になっていなかった。隠れてはいない、という強情な意志が感じられるだけだ。
「華彩虎はかなり弱っています。会話を成立させられる時間は短く、その語りも多くは疑わしい。人間に対する誠実さなど持ち合わせていないようにも見える。こちらへどうぞ」
劉信が先に立ち、中庭からまた建物に入る。廊下は広く長く、あまりにも直線的である。地上の城のように花などもなく、ただおそろしく細緻な壁画や彫刻柱のみがある。
「確実に言えそうなことは、あの神は妄執に生きている。妖精の王を殺すため、人間をさらに高位な存在に変えようとしている」
「魂を撚り合わせる……」
「その通り、そして大乱期の後、この地に神が逃れたことを知った時の王は、あることを画策します」
睡蝶の足音が半歩遅れる。その変化に気づき、ユーヤもまた連想に至る。
「まさか……」
案内された場所は書庫のようだった。地上と同じく雑多な本が詰め込まれているが、埃は一片もなく、地上よりも清潔に思えるほどだった。ここには細菌レベルの生物すらいないのか、あるいは虎の姿をした神の制御下にあるのか、そのようにも思える。
「そうです。多くの人間を束ね、優れた人間を生み出すという御業を、国家の統治に利用しようとした」
そこには数人の人間がいる。黒い学朱服を着た人間が数人、そして虎皮を纏った人間が。
彼らは劉信をみとめ、うやうやしく頭を下げた。
六人の人間、数分前まで虎窯の代表だった男たちは、何も言わずにその場に立っている。
「彼らはいわば中途段階なのです。おそらく甲虫たちは10人から15人、虎煌は50人程度の人間を撚り合わせてできている」
「……!」
ぞわりと、髪の毛が逆立つかに思える。
瞬間的な怒り。それは事態の深刻さと異常さもさることながら、そのような事実を些事として軽く説明するだけで済まそうとしている、劉信の態度についてもだ。
「なぜその数字が分かる、彼らが覚えているのか」
「客観的な指標です。科典は複数人で解くとどうなるか、という研究もされてますよ。八割の回答を出すためには学生レベルなら10人は必要。満点に限りなく近づこうとすれば50人は必要です。しかし彼らにそのような複数の自我や、個別の記憶などは無いのです。完全に混ざり合って一個の人格となっている。さすがは神の御業というべきでしょうか」
六人の縒り合された人間たちは、何もかも覚悟したような表情でうなだれている。命令を待つ軍用犬のようにも、床が抜けるのを待つ罪人のようにも見えた。
「ただ、彼らは束ねられた存在であるために律令を持っています。より高位な存在の命令に従う、ということ」
「高位……」
「そうです。束ねた魂が少ない者は、多い者に対して従うべき、自然発生的にそのような道徳が生まれたようです」
劉信は気だるげな、つまらないことを説明しているような気配をにじませつつ、ユーヤたちに向かって腕を振った。
「そして、もっとも多いのは私と」
そして鋭い視線が、ユーヤの背後に、槍のように。
「あなたですよ。睡蝶」




