第二十九話 +コラムその17
外は人のせめぎ合いが渦潮のごとく、悲鳴と怒号が飛び交い、全体は流体の動きを持ちながらもどこへも行けず。不安に淀んでいるかに見える。
「まだそれほど実害は出てないネ、でも妖精が増えてる。それにこの匂い……」
嗅覚は、視覚や聴覚などに比べて耐久性が低く、強い刺激を受け続けるとすぐに鈍磨する。
甘い匂いはどことなく触覚で感じられた。肌に触れる甘い風。髪をなぶっていく甘い流れ。
睡蝶の動き、それは走るというより連続的な跳躍。一歩で数メーキを飛び、時に荷車を踏み台にして建物の屋根に上る。
屋根には大学に住み着いた子どもたちもいた。彼らも事態の異様さを認識しているのか、肩を寄せ合って下方を見ている。
「いたネ! 白納区の方へ移動してる!」
屋根を往くのは彼らも同じ。劉信に虎煌、そして付き従うように黒い長衣の虫たち。彼らも例外なく人間離れした体術を持つのか、屋根から立木の枝、また別の屋根へと跳躍して、眼下の喧騒と無縁に見える。
「やはり白納区か……あの縦穴に向かう気だな」
「ユーヤ、劉信たちは何を考えてるネ? なんで虎窯を連れて行ったネ? そもそもなんであいつらも言うこと聞いて……」
「……分からない」
この大学に侵入したのは、王であるゼンオウ氏が処分したいものを探すため、虎窯による大学封鎖に巻き込まれたのは一見すると偶然に見える。
「何度も考えているが分からない……僕が何かを見落としてるのか、考えが足りないのか。あるいは」
「あるいは?」
「まだ僕たちの知らない、この国の秘密が関係しているか、だ」
「……」
揺られながら、まだユーヤは思考を続けている。あるいは彼が脳を酷使してない瞬間などあるのかどうか。
(……ゼンオウ氏の勅命と学園封鎖。偶然ではない、とは思っていた。では虎窯はゼンオウ氏と関係があるのか?)
「……ん、待てよ、そうか、外交日程」
「どゆことネ?」
「双王は言っていた……かの妖精王祭儀に出場したあと、いくらか外交をこなして帰るはずが、あんな事件が起きてしまったために予定を切り上げ、急ぎ帰国したと」
「確かにそうネ、ゼンオウ様の不調もあったし、私達も急いで帰国したネ」
白納区を囲む壁には見張りがいなかった。劉信が踏み込むのに10秒ほど遅れて睡蝶たちも入る。
「思うに、本来は国王不在のうちに封鎖からの交渉を行うはずが、ゼンオウ氏が急ぎ帰国したために予定が狂った。だがゼンオウ氏は表に出てこず、病気説も流れていて……だから彼らは封鎖を決断するに至った」
「……なるほど、おそらく大きくは外れてないネ。ゼンオウ様のいない時期は兵を動かしにくいし……」
「あの、そろそろ降りるよ」
「あ、忘れてたネ」
睡蝶がしゃがむと同時に背中から降りる。この世界の人々は体力面でユーヤの常識を超えることがあるが、さすがに細身の女性に背負われるのは情けなかった。
「というかユーヤ、そこそこ背丈はあるのに軽すぎネ、ちゃんと食べてるネ?」
「たぶん、人並みには……」
ユーヤは、そんな話をしてる場合ではないとばかりに手首の関節を鳴らす。
「例の縦穴だ、おそらく下まで降りたはず」
それはすぐに着く。木箱に入った多数の本と、大口を開けている縦穴と、ゆるやかに下る大きな階段。少し降りれば円筒形の空間に入る。
「三悪たちは降りたことあったのかな」
「猫は無かったって言ってたネ。猫は好奇心から底へ行こうとしたらしいけど、なんだか気圧されるような気がして進めなかったって」
それは今も感じる。地の底から届く無音の気配。大いなる禁忌に触れるような危うさだ。
「深い……もう150メーキは降りたネ。どこまで深みがあるネ」
降りるほどに階段の中ほどまで書で埋まり、側面に並ぶ書架は古いものになっていく。和綴じのように側面を糸でかがっただけの本や、巻物のような巻子本も見える。
螺旋状の階段が、空間の周囲を十周以上、それでもまだ下へ下へと。
やがて地上の光は届かなくなり、足元すら見えなくなる。
「しまったな……明かりがないとこれ以上降りられない。地上からランプを取ってこないと」
「下の方が明るいネ」
睡蝶が指摘する。もはや階段のへりも見えず、おっかなびっくりで降りている状態だったが、慎重に穴の底を覗き込めば確かに光が見える。
「確かに明かりが……なんとか、降りるぐらいならできるか」
「ユーヤ、目を一度思い切り閉じてから開けるネ、それで多少は夜目が効くネ」
「暗順応だな、わかった……」
穴に入ってからすでに20分ほど。
ユーヤは地上のことも気になったが、もはや音も光も届かない。
「学生たちから聞いた……この白納区はもともと古代の神が住んでいた。神から税金は取れないから無税地帯となり、だから白納と言うのだと」
「華彩虎のことネ? 確かにそれはラウ=カンの古い神様ネ。シュテンで行われてた学祭、華虎祭もそこから由来してるネ」
「僕は、砂漠の国で泥濘竜を見た」
暗がりの中で振り返る。睡蝶の顔は下方からの光を受け、わずかに赤らんで見える。
「まさか……あれはただの伝説」
「妖精の王がいるなら、古代の神だっているだろう。おそらくこの下に実在してるんだ。この縦穴が禁妖地……妖精を呼び出せない場所であることもそれが原因かも」
「……それが、どうして禁書の管理地になってるネ? 劉信はなぜ降りて……」
問いすぎている、と睡蝶は感じる。
本来、なぜなぜと問いを投げるのはユーヤの役目だ。ラウ=カンの人間である自分が受け身でいることを少し反省する。
「……偽装かも知れないネ。禁書管理地として人を遠ざけることで、華彩虎に接触させないようにした……逆を言えば。ラウ=カンの王は望めば神に接触できた……?」
やがて、階段は終わる。
真下にあったのは、意外と言うべきか川だった。泥の中をわずかに地下水が流れるような地下の川。おそらく地上から降った雨はまた岩の隙間へと流れていき、海面よりも下にある地底湖へでも流れ込むのだろうか。
そしてそこにも書架がある。わずかに湿気のある場所だが、腐りもせず、静かな世界で本が並んでいる。
「これは……逆舟綴じ本。千年近く前の綴じ方ネ。木簡本もある……」
「少なくとも千年近く前からあるのか……」
明かりは炎だった。
地の底からはさらに横穴が伸びている。それは穴とも言えないほど巨大な空間。ユーヤの感覚なら飛行機すら飛べそうなほどの横穴である。そこには石造りのかがり火台に炎が燃えている。二列に並んで、遥か彼方まで。
「! あれは……!」
睡蝶が、たたらを踏むように数歩進む。
そして見た。そのシルエットを。
広大な地下空間に存在する建物の影を。記憶と符合する屋根の造り、城壁の形、細かな意匠までもが。
「――朱角典!」
ユーヤも同じ印象を持つ。確かにそれは地上にあった城だ。天井はすさまじく高く、炎が照らす範囲は限られているが、同じ城だと分かる。
「朱角典城と同じ造り、同じ大きさ……ど、どうしてこんなものがあるネ」
「神様の住む場所……ということか? 地上の城はその模倣ということかも……」
「……行ってみるネ」
歩を進める。
睡蝶は油断なく周囲を見ているが、人の姿はなく、かがり火のはぜる音のほかには何も聞こえない。地上は凄まじい状況のはずだが、それはどこか遠い世界のことのような、あるいは自分のいる場所のほうが夢の中ではないかとすら思える。
「……」
予感が。
説明しきれない悪い予感。それが足に鎖のように巻き付く。
「ユーヤ……後ろにいるネ?」
「ああ」
「前に……この大学が封鎖された夜に、ユーヤは何かに気付いてなかったネ? そして、涙を流した」
「説明は難しいんだ」
できる限り誠実な響きを乗せて、そう言う。
「僕が感じ取ったのは滅びの予感だ。シュテン大学は滅びのために存在している。いつかは滅ぶ危うい城、それは誰かの悲しい意思だ。滅びを願う心が潜んでいると感じた」
「どうして? どうしてそんなこと分かるネ?」
「過去に、そういう家を見たことがあるから」
声は悲しい色を帯びている。それは遥か昔に失われた物への哀悼。願っても二度とは戻らない、さりとて喪失の記憶だけは残り続ける、どうしようもない悲哀の記憶。
「世界には、時として人間を超える存在が生まれる」
「……?」
「だが、その人物が世界と相容れるかは分からない。世界のどこにも居場所がなく、自分一人で完結することもできない悲しい存在。そんな人は、時としてその場のすべてを壊してしまう。誰が悪いのか。何が悪かったのかも分からない。あるいは最初から、生まれ落ちたその日から、破滅の運命が定まっていたのかも知れない。そんな家もある」
「それは……」
それはユーヤの思い出なのか。
それとも何かのたとえ話か。
ゼンオウのことか。
劉信のこと。虎煌たちのことか。
それとも――。
「……内装も、朱角典と近いネ。壁画もある……」
いつしか城の中に踏み込んでいる。回廊を飾るのは金様燈路。人が山に入って完全なものに成るという絵だ。
老人が黄金の繭に包まれ、高次の存在に成る過程が描かれている。
「……この場所は、もしかして」
「ユーヤ、何か気づいたネ」
「……」
言葉が重い。ユーヤが態度を硬化させていると感じる。
「……何でも言って。私も知りたい。どんな言葉でも受け止める」
「君の」
口腔に血の味がするような感覚。
膨れ上がり続ける悪い予感。そんな中でも情報を分析し、真実に近づこうとする愚直な思考。それを苦々しく思いながら、ユーヤは語る。
「君の母親のことだ」
「……え、媽媽?」
「ハイアードで聞いた話……君の母親は極端な乱読家であり、朱角典に忍び込んで、禁書に指定されている本までも読み漁ったと聞いた。よく考えればおかしかった。地上の城は多くの人間がいる。夜中に一度か二度ならともかく、多くの書を読み漁るほど長期間、何度も出入りできるだろうか」
「……!」
その時。風のうなり。
回廊の奥から届く風圧。生臭く生ぬるい、獣の息のような、風が。
コラムその17 「紅」のいろいろ
ラウ=カン伏虎国、猫のコメント
「三悪の一人、悪問の猫よ。ここではラウ=カンを象徴する色、紅についてお話するわ」
ラウ=カン伏虎国、陸のコメント
「同じく悪癖の陸だぜ。興味があれば聞いてくれ」
・紅の意味とその種類
猫「紅とは古い意味では色のついたもの、ひいては「すべての色」を表す言葉よ。その中でも特に重視されるのか赤色。古代のツボとか武器とかにも赤がよく塗られてるわ」
陸「昔から赤が貴ばれてたんだな。赤を表す言葉は500以上あると言われてて、検定試験なんかもあるぜ」
猫「高貴な色である雲陽紅、若々しさの象徴である灼麻紅、皇帝の妻などだけが身につけられる深い赤、禁独紅など色々ね」
陸「禁独紅はご禁制だけど、似たような色の翻紅なら夜のお店でも見られるぜ。あの赤はすげえエロいと思う」
猫「その感覚全然わかんないわ」
陸「色だけで体温上がってくる」
猫「病院」
・顔料のいろいろ
猫「赤を生むための顔料は古代からいろいろ模索されてるわ。古代には植物の根から赤を得ていたけど、のちには蝶の羽やバラ科の花、近年では鉱物顔料が多いわね。変わったところではカメムシの仲間や、甲殻類の血液なんかでも赤が取れるわ」
陸「衣服を染める赤、食品に使う赤、建物に使う赤は求められるものが全然違うんだ。特に屋外にある赤は日差しで褪色するから、それに負けない耐候性が求められるぜ」
猫「屋根瓦の赤は特に苦難の歴史で、多くの職人が挫折したそうよ」
陸「どうやって作ったんだっけ?」
猫「ラウ=カンでも特に鮮やかな赤を放つ、いくつかの瓦。あれはセレノウからの輸入品よ。その発色の原理や製造法は門外不出らしいの」
陸「そうなのか! 高級品なんだな!」
猫「ラウ=カンで焼いたのより安いの」
陸「????」
・まとめ
猫「色の豊かさは文化の豊かさ。色は服飾や造園、詩情などあらゆるものに結びついてるの。ラウ=カンを理解するためには色に注目することね」
陸「ワンポイントで青や緑をあしらうこともあるんだ、その対比にも注目だぜ」
桃「私、も、翻紅はえっちだと思います」
雨蘭「すごく分かるぞ桃よ」
モンティーナ「色仕掛けに出た唇の色、ですわねえ」
猫「あれわたし少数派??」




