第二十八話
「勝った――!」
陸の目が輝く。ぐっと拳を握って、押し寄せる昂りに耐えんとする。
場の全員が叫び出しそうな一瞬。ユーヤもその人物への反応が遅れた。
それはごく自然な足取りで司会者の前を通り過ぎ、虎煌に近づき、その虎の面に向かって何か一言、言った。
その瞬間、虎煌は片膝を折って跪く。虎の体がのしかかるような眺め。巨大な絶望が彼に降りたような。
「え……なんだ、あれは誰……」
『皆さん』
拡声の妖精によって男の声が膨らむ。鈴鈴は己の手から妖精が消えてることに数秒遅れて気づく。
直線的に束ねた長い黒髪、ゆるやかな官服、軟玉の首飾りで装飾されたその人物は。
「おい、あれ劉信様じゃないのか」
「統括書記官がどうして」
『お楽しみのところを邪魔立てして申し訳ありません。緊急にて公告いたします。我がラウ=カン伏虎国、五十三邦を統べる老虎、誇るべき見翁陛下より勅命が下っております。八十余年に渡りあまたの碩学を排出してきたこのシュテンは、その役割を終え焼失せしめることとなりました。多くの方々に呼びかけてください、なるべく開けた場所へ避難するように』
言われた学生たちはざわめきを返す。
「どういうことだ?」
「燃やすって、そんなことできるわけが」
「劉信!」
吹き抜けの上、二階席から声が飛ぶ。
「何してるネ! 私たちの調査が終わるまで待つ約束のはずネ!」
『やあ睡蝶様、学朱服もよくお似合いですね』
学生たちが騒ぎかける、そのとき劉信と客席との間に学生たちが出てきた。それは虎窯のメンバーらしかったが、一様に生気のない顔をして、守るというより棒立ちのままで並ぶ。
『調査でしたら私の方でも行っていましたよ。結果としてはやはり王のご意志を尊重すべし、何もかもすべて灰燼と成すべきと判断いたしました』
「……どうやって焼く気ネ。軍隊でも入れるというネ」
『当初はそう考えていましたが、さすがは皇帝陛下というべきでしょうか。念入りに準備が成されていましたよ』
と、そこで劉信が取り出すのは水晶の小瓶と、石炭の小石である。瓶を満たすのは琥珀色の液体。
『学生の皆さん、妖精学のお時間です。このような蜂蜜を用意し、石炭に振りかけると何が喚べますか』
学生たちは戸惑いの中にいたが、利発そうな若い女性が手を挙げる。
「赤煉精です」
『そうです、妖精は宝石や貴金属のみならず、石炭や藁束、動物の体の一部など、あらゆるものに呼応して出現します。家にある適当なガラクタをかき集め、蜂蜜を注いで雑多に妖精を喚ぶ妖精劇なども存在します』
「だが赤煉精で町一つ焼くのは無理じゃぞ」
劉信に好きにしゃべらせたくない、という意思があるのか、雨蘭が上から言葉を投げる。
「いざとなれば灰気精がある。天候を操る精霊じゃ。過去にもいくつかの大火事を消し止めておる」
『そうですね。妖精は統率の上で扱えば、あらゆる災禍を遠ざける力です』
ですが、と。
唇が歪む。その一瞬の氷のような笑い、何人かがぞくりと身をすくませる。
『妖精を使役するという事象、そこから秩序を奪えばどうなるでしょう』
「何じゃと……?」
瞬間。
どん、と何かが爆発したような振動。足から伝わる異様な揺れ。
「うわ! 地震か!?」
「おい、あれ何だよ!?」
指し示す、それは琥珀色の噴煙。
敷地内の何箇所かから噴き出す煙。それは噴水のように台形に広がり、重量感を持って降りてくる。
這い進むのは天上の雲のような淡い煙、そして場の全員に届く、異様に甘い匂い。
「なっ……なんだこの匂い」
「蜂蜜だ、これ錦雲花蜜の蒸気じゃないのか」
「! そこ! 髪飾りを捨てて!」
睡蝶が叫ぶ、その先、ある女学生が顔を向けると、その頭の上には青白い妖精が。
はっと気づいて髪飾りをむしり取る。地面に叩きつけた瞬間、その髪飾りが連続的な光を放つ。
それは二階席から吹き抜けへと扇状に噴き出す光、あらゆるものの影を漂白するほどの光が数発続き、そして妖精ともども消える。
「あ、あれって、蒼閃精」
「あぶねえ、近くで見たら目がつぶれるほどの光のはず。衝撃もあるから頭で炸裂してたらどうなってたか……」
青水晶、と呼ばれるものは天然にはほとんど存在せず、この世界のみの神秘、宝石の井戸である玉井からも産出しない。それを媒体とする妖精は閃光と衝撃を放つが、呼ばれることは非常に稀であった。
あちこちで悲鳴が上がる。学生たちの装身具から、あるいは建物の彫金に妖精が出現しているのだ。
妖精はすぐに手で追い払えば帰っていくが、不規則な出現に学生たちがパニックに陥る。
『この大学には、有事の際の物資という名目で蜂蜜が備蓄してありました』
混乱が拡大しつつある。学生たちが我先にと外に逃げようとする中、劉信は悠然と語る。
『しかも錦雲花蜜、シミュコレオ、功黎のような粘度の低い品種ばかりでしてね。その真意は、蜂蜜を気化させて妖精を喚ぶことにあったのです』
もはや学生たちは劉信どころではなかった。
いくつかの出入り口を封鎖していたため、学生たちは正面入口に殺到している。
『その仕掛けは地中深くにあり、煙は一両日は噴き出し続ける。誰も仕掛けのある場所まで踏み込むことは不可能。名を付けるならば……荒れ果てた妖精郷とでもしましょうか』
「まさか……こんなことが」
『フォゾスではまれに自然現象として見られるようですよ。蜂蜜の香りが妖精の世界への扉を開くのです。あるいは妖精の世界とはこのような場所かも知れませんね。その大気は甘く濃厚であり、呼吸するだけで膨大な熱量を得られる。夢があるとは思いませんか。それこそが高位存在の世界。我々の常識では推し量れぬ世界なのですよ』
そして、火の手が。
「おい! 理学棟から煙が出てるぞ!」
「薬学部の方もだ! 同時にいくつも火の手が!」
まだ学生は出きっておらず、恐慌が生まれている。濃密な蜂蜜の匂いの中で判断力まで削がれつつあるのか。
学生たちが装身具をうち捨て、そこから妖精が湧き出す。ブローチに腕輪、軟玉や貴金属に反応して現れる妖精。多くは光を放つだけの小人が、喜悦の笑みで自分たちを見るような気がする。名状しがたい恐怖が存在している。
「さてと、あなたたち、負けたようですね」
それは虎煌たちに向けた言葉だ。拡声の妖精を適当に放り投げ、劉信が問いかける。
「私はあなたたちの正体について既に知っている。私に協力してもらいましょう」
「……何をするつもりだ」
「そうですね、この国の皇帝にでもなりましょうか。あるいは七つの国を統べる王を目指すのもいい。それともすべての国を滅ばして、新たなる唯一の国を作りましょうか」
冗談めかして言う。そこでようやく陸が声を張り上げる。
「ば、馬鹿なこと言ってんじゃねえよ! お前が大学を焼くって言ってたのはみんな見てるんだぞ! 皇帝になんかさせるかよ!」
だが、反応は返らない。劉信は虎煌たちと小声で何かを話している。
「おい、無視してんじゃ……」
「劉信」
そのとき生まれる声。
陸は少しぎょっとする。その人物が隣に急に現れたように思えたからだ。
今の今まで気配を消していたのか、あるいは本来の彼はすぐに人の中に埋もれてしまうような人物なのか。
その声は奇妙な存在感を持っていた。豆を炒めるような喧騒の中でもはっきりと届き、劉信の意識を引き付ける。
「ああ、セレノウのユーヤさん。何か?」
「いつから、僕たちを裏切っていたんだ」
色々なものが削ぎ落とされたような言葉。劉信はその異世界人の眼を見据え、唇の端で笑って見せる。
「最初からですよ」
その声には奇妙な清々しさがあった。何一つ負うもののない気楽さ、余計なことを考えていない純朴さがある。それは真に心からの言葉だと思えて、そしてユーヤは苦々しく奥歯を噛む。
「最初から、こうなることは決まっていたのです。それは皇帝の意志と糸ひとすじほどの差異もない。私はずっと、陛下の意思に沿って生きていたのですよ」
「……信じられない。何があったんだ。白納区の聖地で何を見た」
「聖地……? あいつ聖地の下に降りてたのか?」
その発言に陸は短く反応する。
しかしもはや話のできる状況ではなくなりつつあった。正面入口が詰まっていると見てとった者が、他の出口を求めて縦横無尽に走り回っている。人の声が束ねられて雪崩のように押し寄せる。
「さあ、行きましょう。あなた達は私に同行してもらいます。逆らうことは無意味だと分かるはず」
「……わかった」
聖地で何を見たとの問いには答えず、劉信たちはその場を去ろうとする。静かな歩みだが魚のようにするりと人の間を抜けていき、あっという間に頭も見えなくなる。
虎窯のメンバーたちは横並びのままである。もはや彼らに何かの意思があるのか。自分が何者かも分からないような顔で、立ち尽くしている。
「待て劉信! 君は何がしたいんだ!」
だが答えは返らない。ユーヤは解答席に拳を打ち付ける。
何もできない。
まだ自分はこの大学の秘密に触れてもいない。これが何らかの陰謀だとして、ユーヤはずっと周回遅れのままだ。そのことに悔しさがこみ上げる。
「ゆーやさま」
そばに来るのはメイド服の少女。ピンクリボンのマニーファである。
「ゆーやさま、正門にいた学生たちが消えてるそうです。門の巻き上げ装置を学生さんたちが動かそうとしてます。今なら外に出られるかもです」
やや舌のもつれるような話し方ではあるが、いつもより緊張感が見られる。メイドたちは何よりもユーヤの安全を考えて動いているのか。
「ユーヤ、私は劉信を追うネ」
二階席から飛び降りてきた睡蝶、ほとんど足音を立てずに着地して言う。
「ユーヤは逃げて、外に出られるなら今のうちに」
「ダメだ、僕も行く」
間を置かずに言う。
「でも、危険ネ、ユーヤをこれ以上巻き込むわけには」
「違う、危険なのは君だ、睡蝶」
え、とそのすみれ色の瞳が揺れる。
「意図は分からないが、動きがあからさますぎる。おそらく自分を追わせようとしている。僕らの中で最も追跡能力があるのは君だろう。だから君を誘っているんだ」
「まさか……」
「だが追わないわけにはいかない。だから僕も行く。議論してる暇はない、それしかないんだ」
睡蝶のわずかな逡巡。
しかし人の流れは激流のごとく。あと数秒でも離されれば追跡できなくなる。確かに猶予がない。
「……ユーヤの足ではついてこれない。おんぶするしかないけどいいネ?」
「分かった」
そしてしゃがみ込む睡蝶、その背中にしがみつけば。
「あっ、待ておぬしら! 我も行くぞ! いま降りるからそこに……」
急加速。
それはとても人を背負っているとは思えない動き。
雨蘭の声を背後に聞きつつ、ユーヤは脳が後方にこぼれるような加速の中で、何かに肩をぶつけながらすっ飛んでいった。




