第二十三話
※
「ずいぶん盛り上がってるわね」
「うん……」
猫のつぶやきに、睡蝶は胡乱げに相槌を打つ。
ここはシュテン内、第一講堂の屋上。普段は使われていない清掃用の通路から行ける屋上である。
眼下には赤の波。学生らしさを表すという明るい赤の屋根が広がり、遠くにはシュテンを囲う赤い壁も見える。赤で埋め尽くされた眺めはシュテンの常態とはいえ、浅い角度から屋根を眺めるとやはり壮観である。
ここへは猫の案内で来た。近くで観戦できる場所を、との求めに答えたものだ。
「こんな場所よく知ってたネ」
「私たちは活動家だからね。いざという時に官憲と戦うために、学内のことは調べてあるのよ」
と、どこか冗談めかして言う。
足元からは激闘の気配。拡声の妖精によって高められた司会者の声が、建物内で乱反射を繰り返して天井から抜けていく。
「他にも色々知ってるわよ。食料と燃料の備蓄がある場所とか、蜂蜜の貯蔵庫とか」
「大したものネ……」
睡蝶のぼんやりした反応に、猫は短く嘆息する。
「……なによ、一度負けたぐらいで。落ち込むようなタイプに見えないわよ。今だってほんとは桃たちの応援に行くべきでしょ」
「分かってるネ、分かってるけど……」
振り払おうとしても、気持ちを切り替えようとしても、ふと静かになると体から力が抜けてしまう。気が塞ぐとはこのことだろうか。
猫は眼鏡の鼻当てをいじり、彼女は叱るより褒めるほうがいいのだろうか、と思い直して言う。
「それにしても睡蝶、強いじゃないの。長文クイズなんて初めて聞くクイズで、よくあそこまで押せたわね」
「……それはまあ、媽媽の教えネ。七十七書の他にも、どんなことでも学べって」
「お母さん? お母さんもクイズやってたの?」
「媽媽はすごい人だったって聞いてるネ。ものすごい読書家で、ゼン……私のお父さんに見出されて、朱角典で暮らしてたネ」
「あなた城住みだったの? すごいじゃない。城住みは劉信様みたいな高級官僚だけなんでしょ」
「うん……子供の頃は楽しかったネ。朝から晩まで本が読めたし、媽媽が何でも教えてくれたし」
「ふうん」
睡蝶は気づかないが、猫は少し反応が悪かった。
そもそもの彼女たちの目標、乗っ取られる前の虎窯が掲げていた理念は開かれた大学。役人や富豪の子息だけが入学してくる現状の是正である。
庶民にとって科典が、あるいはシュテン大学への入学が高いハードルであるのは、まず学べる環境を手に入れることが難しいからだ。
七十七書とは膨大な量であり、すべて購入すれば庶民の年収に近くなる。私塾に通ったり、参考書を集めるのにもやはり金がかかる。
そんな背景から見れば、睡蝶のような恵まれた環境にあった人間には同情しにくい。
「……もうすぐ大学の封鎖も終わるだろうし、お母さんだって門の外まで迎えに来てるかもよ。元気な顔を見せたいでしょ、だから落ち込んでばかりは」
「もういないネ、6歳か7歳か……そのぐらいに天に召されたネ」
「あ……ごめんなさい」
「大丈夫……」
睡蝶の母は、傑物であったと聞いている。
病的なまでの乱読家というだけではない。朱角典城に忍び込んで、宮殿で管理していた禁忌の本までも読み漁ったという。
そして捕縛され、獄の中で見翁に見出されたとか。
やがて睡蝶が生まれた。ゼンオウが言うには、自分こそが「理想の人間」であると。
本当にそうだと思っていた。
これ以上ないほどの英才教育を受け、文武に通じた自分は本当に理想の人間だと思っていたのに。
世の中にはまだ上がいるのか。あの五匹の虫たちのような、世の中に埋もれた怪物たちがいるのだろうか。
あるいはユーヤのような、形容しがたい異端の強さを持つ人間も。
「媽媽……」
睡蝶は、生まれて始めて世界の広さに打ちのめされるかに思えた。
そして膝を抱えて小さくなり。
その脇で、猫はお手上げとばかりに屋根に寝そべる。
空は青く済んでおり、背中からは、クイズの気配が。
※
「正解! 鱗虫選手の見事な押しです! これで15対15! 横並びとなりました!」
どおおお、と荒れ狂う海のような歓声。銀写精の光はほとんど途切れることがなく、建物の外からもざわめきが押し寄せる。
桃は勝負の熱に頬を染め、呼吸を速めながら言う。
「なんて、強さ……。あの人たち、ほんとうに怪物じみて強い……」
(いや、そんなはずはない)
雨蘭は前傾を深くして思考する。
(あやつらは確かに只者ではない。だが、絶対的な強さとまでは言えぬ)
(長文クイズでもそうであった。本当に神懸かり的なツワモノならば最初の前フリで押せるはず)
(やつらとて人間なのじゃ。今の我らのように、心臓を高鳴らせておるはず。プレッシャーに押し潰されそうになっておるはずじゃ)
「問題、パルパシアの双子都市、ティアフル&ファニフルの最下層。ガラス細工の果樹園とも呼ばれる」
ぴんぽん。
「桃選手! お答えをどうぞ!」
「マダム・クラウバの透園」
「正解です! これで15対16! またも一歩リードです!」
「桃、見事な押しじゃ」
「ありがとう、ございます」
(このまま競り勝てる……?)
それは甘い、と雨蘭は判断する。
これだけ拮抗した勝負で、1ポイントのリードなど何の意味を持とうか。安堵したその瞬間、虫の一刺しであの世行きになるだろう。
(そうじゃ、20ポイント先取は長期戦であると同時に、格付けの勝負でもある)
(どこかで、流れを我がものとせねばならぬ。勝負の天秤を傾けるような、劇的な何かを……)
ぴんぽん。
蛇を打ち上げるのは、土虫。
「蜜飴受胎」
「正解! お見事です! これはなんという戦いでしょうか! またも横並びに――」
(……)
今。
何か、違和感が。
雨蘭は司会者を見る。黄色い紅柄を着た女性。彼女個人へ向けての声援も多い。
(今の問題……)
問題、パルパシアのフラナッポラ、シュネスのセルネーなどに見られる、蜂蜜と女体を絡めた映像作品を何という。
解、蜜飴受胎
(そうじゃ、問題が不自然)
今の問題を、仮に双王が作るとすればこうなる。
問題、新戒律派への反動から生まれ、ゼタトー、フラナッポラなどが提唱した独力の性的行為。または蜂蜜と女体を絡めた映像作品を何という。
解、蜜飴受胎
(あれは元来は映像作品でなく、行為の名前なのじゃ)
(なぜその点が抜けておる)
それは、急ごしらえの問題だから。
題材がパルパシアの文化であり、遠いラウ=カンにはあまり伝わっていないから。
「……いや、それだけでは、ない」
「雨蘭、どうしたの?」
気づき。
それが思考の扉を開く。時間が引き伸ばされるように圧縮された思考。無数のことが思い返される。
(そうじゃ、ユーヤのやることに抜かりはない)
(この勝負の場、これに意味がある)
そして思考は加速する。
ある仮定、そこへ向けて世界が傾斜する。あらゆる要素が一点に向かって流れ込んでいく。
「そうか、次……!」
「雨蘭?」
(今、分かった)
(ユーヤの作ろうとしていたもの、このクイズの不完全性)
(大陸で初めての地底クイズ。わずか数時間の準備時間。そして、長文クイズ)
「さあ、次の」
脳が煮え立っている。司会者の黄色い紅柄が、その柳腰のひねりが、ドレスの側面に見えるきめ細かい肌までが、ゆっくりと見えて。
「問題です、まずはこちら」
ぴんぽん
瞬間、世界に時間の流れが戻る。
つんのめるように動いた司会者が、雨蘭を見る。
「ええと、押し間違いでしょうか、雨蘭選手」
「違う」
不思議な自信が。
天地と一つになるような万能感が、クイズの熱が、指先にまで満ちるような。
「答えは! ユースリット・ヴィオホールじゃ!」
――沈黙。
まさか、と全員の視線が司会者へと振られ。
「せ……正解です!!」
どお、と、まだ形にならない歓声。
感情が定まるより早く噴き出してくるような、マグマのように熱を持った歓声。
それが一気に膨れ上がる。爆発的に、建物を破壊するかと思うほどに。
「も、問題を確認します! 収容人数は2580人、統一歴75年に建造された艶品演舞場であり、今年始めまでストリップや成人映画以外の上演が禁止されていたホールといえば何、答えはユースリット・ヴィオホールです! し、信じられません! 問題が読まれるより早く……」
「そうか……! 「パルパシア艶品百景」」
桃の(タオ)のつぶやき。
はっと、司会者が、あるいはステージ袖にいたスタッフたちが目を見張る。
「そうじゃ、前の問題とその前、パルパシア艶品百景からの引き写しのような問題じゃった。そして大学の中とあって、艶事に学問や芸術の潮流を絡める傾向があった。ヴィオホールは無求主義の発祥ともなった歴史ある場所。あの本の中で雑学として面白く、また蜜飴受胎の次に出されそうな問題といえば予想はついたわ!」
声援は高まる極みを知らぬかのよう。ガラスを震わせ、シュテンの隅々に広がっていくかに思える。
「す……素晴らしい! 出題者の参考資料まで読み切った上での見事な解答です! この1ポイント、まさに値千金でしょうか!」
場の流れが、確かに傾いたと感じられる。
鱗虫に土虫すら驚愕している。この感情の見えぬ男たちですら動揺させるほどの事態であったのか。
「すごい、です雨蘭さん。実はユーヤさんも言ってたんです。出題者の参考資料を見抜けるかも知れない、って」
(やはりか)
あらゆるものが布石だったと感じる。
非常に作問難易度が高い長文クイズ、アングラな書物が手に入りにくい学園封鎖という状況、少数精鋭という気配のクイズサークル、梟夜会。
イベント運営にも人手がかかる。この地底クイズはおそらく一人か二人が作ったものだろう。急いで集めた書物から、ほとんど引き写しの形で。
(生み出された不完全性、そこを突く技術、か)
(やはり、恐るべきはユーヤ、というわけじゃのう……)
「雨蘭?」
「何でもない。まだ勝負は終わっておらぬ、気を引き締めるぞ」
「うん」
※
会場の外。
ユーヤはふと足を止める。
第一講堂から流れるどよめきの声。わずかな困惑と巨大な興奮。落雷のように遠くまで届きそうな重低音の歓声。
聞き覚えがある。
過去にほんの数回だけ聞いた、伝説的な瞬間の歓声と同じものだ。
「……見事だ」
その一瞬は、きっとこの世界でも語り継がれる伝説となるだろう。
その残響に踵を向け、ユーヤはまた歩き始める。人の波をかきわけ、路地の隙間にまで目を凝らして。
彼だけにしか見えない、幻の蝶を探し求めるように。




