第二十二話 (過日の6)
※
熱気が渦巻く。
シュテンにおいて最大規模の講堂であっても入りきれぬ観客。もはや声援とも怒号ともつかない声のうねり、それを浴びて司会者が声を放つ。
「さあポイントは11対12! 一進一退の攻防が続いております! では続いては映像問題です、こちらを――」
(――こやつら、何者じゃ)
双王の片割れ、雨蘭と名乗っている彼女は、虫たちを引き離せないことに歯噛みする。
出題されているのは、およそ表の世界では問われない深層の知識。
パルパシアの裏町で、余興として露悪的なクイズが行われることはあるが、学術的な側面が加わっているだけにより深遠である。
ぴんぽん。
「花支え渓流です」
「正解! 桃選手さすがの知識です。アダルトな問題では右に出る者はないか!」
桃の実力は申し分ない。彼女は色事、奇矯な趣味、風俗史などに強く、雨蘭は裏社会や芸能スキャンダル、アングラな音楽などに強い。
ぴんぽん。
「おおっと! 土虫選手の蛇が上がったあ!」
「阿片煙草」
「正解です! これで再び一点差! まさに死闘が続いております!」
鱗虫に土虫。年の頃なら20にも満たぬほどの若さ。これといって特徴のない顔立ちに、感情の見えぬ構え。クイズ戦士としての凄みは感じないが、その知識は病的なほどに深い。
「桃、あやつら本当に科典で九割を超えてくるのか」
「はい、間違い、ありません。虎窯で行っていたのは抜粋型の模試ですが、本試験とほとんど差は出ないはずです」
「ううむ……人生を三度歩んでも及ばぬとか、受かった者は煮炊きの火でも勉強したとか言われる試験じゃぞ。それを極めていながら、なぜ雑学まで身につけておる……」
しかも長棍の技まで使っていた。と心の内で補足する。
「でも、リード、してます。この調子で行きましょう」
桃は口調が重たいというべきか、舌の動きが滑らかになるまで時間がかかるような話し方をする。たどたどしくも決意を述べていた。
「負け、られま、せん。絶対に勝ちます。私はユーヤさんに言われたことを意識してみます。雨蘭はどうします」
「うむ……必ず勝つ。得意ジャンルだけではなく、他の分野でも攻めて押していくぞ」
「わかり、ました」
(負けられぬ)
それを強く意識する。背後に背負うのは見目麗しき双子都市か。それとも花園と果樹の国か。
(この世の放蕩を極め尽くす、パルパシア王家の名に賭けて)
(勝つ、圧倒的に)
※
「アドバイスは要らぬ」
聖域、虚無の縦穴がつらぬく縦長の空間にて。
雨蘭はそう言って、つと階段を下ろうとする。桃が慌てて引き止めた。
「雨蘭、でも、ユーヤさんはこのクイズの経験があるって……」
「ラジオでは流せぬような、タブーのないクイズ。それで我が負けるわけがなかろう。いくらユーヤでも助言など受けられぬ。双……クイズ戦士としての誇りにかかわる」
「雨蘭、でも」
「わかった」
ユーヤは言って、桃の肩に手を置く。
「彼女なら大丈夫……僕よりもずっと才能のあるクイズ戦士なんだ。僕のアドバイスは君だけに話しておく」
「そ、そう、ですか、それなら……」
「終わったら呼ぶがよい、我は少し下に行っておる」
そして階段を降りようとして、少し立ち止まる。
踏み出そうとした足が、階段をはみ出たところで止まってゆらゆら揺れていた。
「……? あの、雨蘭さん、どうしました」
「いや……何でもない。下に行って、おるから……」
らせん状の階段は一段の幅が三歩ほどある。雨蘭はゆっくりと歩いて階段を降り、空間の反対側まで行く。何度もこちらのほうを見ていたが、やがて本棚の隙間で腰を下ろしたようだ。
「……じゃあ話すよ。この国で、この地底クイズに似たものが行われたことはあるのかな」
「ない、と、思います。夜の街での余興に少し行われるぐらいでしょうか」
「そうか……」
ユーヤは口元に手をあて、どの部分から話したものかと思案する。そして石臼の脇から粉が湧き出るように、ずりずりと言葉をこぼしていく。
「いわゆるクイズ的な知識というものがある。クイズの題材として洗練された、あるいは使い古された知識だ。一部のクイズ戦士たちは、それ以外の知識に戦いの場を求めた。俺たちはもっと色々なことを知っているはずだ。大っぴらにできないようなことも知っている。それで競う場が欲しいと。それが地底クイズの始まりだ」
「分かり、ます。私もそうでした。悪書と言われる本にも、それはそれで複雑で深遠な知識の世界があると……」
「この国で地底クイズが萌芽し始めていた。それを嬉しく思う。だが……」
ユーヤは、それは彼がクイズをメタ的に語るときにありがちであったが、頭痛に苦しむように目に力が入り、錆びついた舌を懸命に動かすような気配があった。
「この国では、地底クイズは黎明に至っていない。まだ不完全なんだ。そこを突く技術が存在している」
「不完全……」
「僕は一人のクイズ王を知っている。その人物と僕で地底クイズに取り組んでいる時期があった。その中で、クイズ王は」
ごくり、と、どちらかが息を呑む気配。
「当てたんだよ」
「え……?」
「問題が読まれる前に当てた」
「な……」
※
「じゃあ、次の問題」
「待って」
その女性が、霧のように淡くほほ笑む。
「……? どうしたの」
「次の問題、答えは、海老責め」
「!!」
七沼はとっさに問題用紙を手で隠す。だが彼女は1メートルほど前にいる、覗けたはずはない。
「江戸時代に行われていた拷問。海老責めでも自白しない場合は釣責に移行したとか」
「ど、どうして」
「ふふ、何となく、かなあ。私も、少しはクイズ勘というものが、身についてきたみたい」
彼女は空気が温まるような、喜ばしい気配を放散している。
だが七沼は必死に今の状況を考えていた。どんな手段があるか、問題を推測する方法はあるのか、事前に問題を見られていた可能性は。
あるはずがない、そもそも彼女が不正をする理由など何もない。この場には七沼と彼女しかいないのだ。
「大丈夫、全部はわからないよ。さ、次の問題をお願い」
「あ、ああ……」
分からない。
彼女は秘密にしているわけではないようだ。この一時の遊びが終われば教えてくれるだろう。
あとほんの10問ほど、それが終われば疑問は晴れる。
だが、それまでは。
そのわずかの時間の間は、七沼にとって彼女は未知であった。
理解が及ばない。推測すらできないクイズの領域。
その時の七沼は、ほんの少し歯がゆくて、情けなくて、同時に申し訳なくもあって。
そして、草森葵が。
彼女がほんの少し、遠く思えた。
※
「問題が読まれる前に当てる、それはクイズの道を歩むものにとって一つの理想であり、到達点だ」
ユーヤの言葉は続いている。
「僕の知る限りでも数えるほどしか見たことはない。それはいずれもクイズを極め尽くした王の所業。受動的に答えるだけでなく、積極的に作問者との距離を縮めようとする強き王たちの技だった。あるいは、少しの遊び心も必要だろうか」
話が冗長になっている、と自分でも思う。
ユーヤはひそかに決意を固め、その方法を語った。簡潔に、細大漏らさず。
「…………。……。そんな方法が」
「偶然も関係するから、実践しようと思わなくてもいい。余裕があるときや、逆にここまでしないと勝てないと思ったときに意識してくれ」
「わかり、ました……」
桃の顔。それはユーヤがこの世界で何度か見た顔だ。戸惑いと疑いと、信じようとする誠実さが綯い交ぜになった顔。
「……雨蘭を見てくるよ」
「はい、あの、私はもう少し、予習していますので……」
彼女の目に、自分はどう写っただろうか。
不気味な予言者にでも見えただろうか。あるいは山師か、詐欺師か、理解の及ばぬ達人か、それとも妖怪や仙人か。
それとも、まだ名前のない何かか。
「雨蘭」
階段をしばし降りて、縦穴の反対側へ。
そこもやはり本の山である。螺旋階段の外側にずらりと本棚が並んでおり、ほこりをかぶった本が散らばっている。
「う、うむ、話はもうよいのか」
雨蘭は慌てたように立ち上がると、ユーヤの脇に来て腕を取った。
「さ、さあ戻るぞ」
「……どうしたんだ。高いところが苦手なら、もっと端に寄るといい」
「いや、そうでは、ないのじゃが」
そこで気づく。雨蘭は空いた手で獣脂ランプをささげ持っていたが、この空間は光源があまり無いので、全体的に薄暗いのだ。
この高さまでは地上の光が届いているので、お化け屋敷よりは少し明るい程度には地形が見える。
ユーヤが異世界人のために気づかなかった、パルパシアではこれほどに暗い場所はほとんど無いのだ。あの国は世界最大の農業国でもあり、蜂蜜を大量に生産している。都市はすみずみまで妖精の光が照らしていたのだから。
「もっと上を掴んで、目を閉じててもいいよ」
「だ、大丈夫じゃ。別にお化けとかそんなものは信じておらぬ、ただ慣れておらぬだけ」
そういえば雨蘭は、当初宿舎にする予定だった寮で、手洗いが別棟になっていることを気にしていた。我ながらそんなことまで記憶しているのはどうかと思いつつ、気を紛らわすように話しかける。
「暗いなら光の妖精を呼ぼうか。三悪はここに隠れ住んでたから光を絞ってたみたいだけど、今は虎窯と試合しているし、大丈夫だろう」
「いや……ここはおそらく禁妖地じゃ」
「デタント?」
「妖精が呼べぬ土地じゃ……。稀に存在する。鉱山の深いところや、ハイアードの下水道、フォゾスの森の奥地などでは呼べぬ」
ゆっくりと、氷を歩くほどの速度で階段を登る。
「そんな土地が……」
「げ、原因は不明じゃ。大陸を離れた離島などでも呼べぬし」
「足元に気をつけて……」
そのとき、縦穴全体が暗くなる。
「ひっ……」
それはただ単に、地上にて太陽が雲に隠れただけのことだった。
だがユーヤの腕に下向きの力がかかり、雨蘭がしゃがみ込んだのだと分かる。ユーヤは力に逆らわず、そっと膝をついて肩を寄せた。
「落ち着いて、僕にしがみついてもいいから」
「わ、我は……本当は暗いところなど怖くないのじゃ。昔、ほんの子供の頃は怖かったが……」
震える声。ユーヤは落ち着かせようと背中を撫でる。
「い、今は、子供のように怖い。意思で抑えられぬ。お、おそらく、双子がおらぬせいじゃ……」
「……」
「こんなに長く離れたのは初めてなのじゃ……。向こうも、きっと不安でたまらぬはずじゃ。悪いことをした。我の勝手で、国もきっと、混乱して……」
「大丈夫だ。双王」
頭を抱く。彼女が泣いていたとしたら、その顔は見られたくないだろうと思った。
「双王、パルパシアでは双子は一心同体。生涯ずっと一緒なことも珍しくないらしいな。僕の世界ではあまり無いことだが、素晴らしい文化だと思う。だからこそだ、だからこそ、離れたときにも相手を想うべきだ」
「お、想う……?」
「そう……双王が片割れのことを大切に思っているなら、向こうもきっと思っている。遠く離れていても心はいつも一つ。あるいは違う人生を歩んでも、別々の家庭を持っても一つだ。そう考えられるなら、きっと一人きりにはならない」
「う、うむ……」
雨蘭はユーヤの言葉を理解しようとして、呼吸を短く何度も行い、そして落ち着こうとする。心に思い浮かべるのは遠い双子都市の眺めか、あるいは双子のことか。
「双王、君が片割れと別れて不安に感じるのは、心が離れてしまうと恐れるのは、黙って出てきたからだろう? 来るなら二人で来るはずだ」
「う……」
「そんなことは修復不可能なことでも何でもない。あとでちゃんと謝ればいい。双子はいつも一つなんだ。川の流れが二つに分かれても、やがて一つに収まるように、いつも同じ方向に流れている」
だから、と、ユーヤは誰も聞いていないことを確認するように、さっと周りの様子をうかがう。
誰もいない。禁妖地においては世界を支配する妖精の気配もない。真の静けさ、真の闇が。
「だから、あとでちゃんと、ユギに謝るんだ」
「……!」
雨蘭はユーヤを見上げ、肩を細かく震わせる。その大きな瞳は大粒の宝石のよう。中に秘めるのは不安定ながらも極彩色にきらめく感情の渦か。
「どうして……」
「分かるよ。確かに双子だとしても似すぎてるほどそっくりだけど、心の形は違う。けして同じにはならない」
実のところを言えば、ユーヤにもなぜ見分けがついたかの説明は困難である。
彼女、すなわちパルパシア第二王女ユゼ。彼女がユギと名乗った時の声の揺れを聞き取ったのかも知れぬし、立ち居振る舞いの違いを記憶していたかも知れぬ。
あるいは一卵性双生児でも異なる要素。指紋や皮膚の血管走行。瞳孔の奥に見える虹彩などを無意識に読み取ったのか。そこまで行けばもはやオカルトの領域であるが、かつて出会ったクイズ王たちならやってのけたかも知れない、ぼんやりとそう思う。
「ちゃんと謝れば、ユギだって怒ったりしないさ。一心同体なことは変わらない。いつか謝る日を楽しみにすることだってできる、そうだろう?」
「うむ……そう、そうじゃな。ユギが怒っておらぬかと不安であったが、いや、きっと怒ったり悲しんだりしてるはずじゃが、いつか謝ろう、そのためにも、しっかりせねばな……」
雨蘭こと、ユゼはゆっくりと立ち上がると、ユーヤの肩を借りて階段を登っていく。
いつの間にか、闇への恐れは遠くなっていたが。
それでもなお、この縦穴が不気味なことは変わらない。
聖地、聖域、禁書管理地、かつての神が住まうという白納区。
(……そういえば、劉信)
その最果て、底の底には何があるのか。
(彼は、この穴を調べると言っていたが……)
何も見えず、何も聞こえぬ闇溜まり。
今はただ、闇は闇のまま――。




