第二十一話
※
「おい! もっと入れるだろ!」
「ちょっと押さないでよ! 廊下ももう一杯よ!」
「二階の聴講席はどうだ」
「入れるわけ無いだろう、上を見てみろ、まるで燕の巣だ」
第一講堂とはシュテン大学の正門付近にあり、講義の場というより式典や学会の開催、外部から学者をまねいての講演などに活用されていた。音響的にも考えられた設計であり、コンサートにも使われる。
その奥側には四角い学帽をかぶった肖像画、おそろしく高齢ながら威厳を持たせたその絵は、国主たるゼンオウを描いたものだ。
「鈴鈴! すごいよ5千人は集まってる。外の整理が大変!」
「試合後すぐに映像の販売やるって告知しといて、あと屋内球技場で第一試合の上映会もやってるって」
梟夜会がイベント運営に特化したサークルとはいえ、もはや十五人かそこらで回せる規模ではなくなってきている。付き合いの深い音楽系のサークルや、新聞部や映像研究会などに声をかけて人手を集めている。
司会の鈴鈴は美容研究会の助けでメイクをやり直しており、他のサークルメンバーは最終チェックに追われていた。
「あと5分だよ! 大丈夫なの!?」
「資料からの引写しで作った問題だからウラ取りはいいわ、誤字だけチェックを。映像問題と音楽問題のチェックいいわね!」
「楽器が足りないよ! 「灰色の蜜」のメインテーマはラジラン・ドラムが必要なのよ!」
「あれは17問目だから時間ある、急いで借りてきて。念のため問題の予備も用意を!」
「すごい騒ぎねえ、何もこんなに急いでやらなくてもいいのに」
細筆で紅を引きつつ話しかける生徒に、鈴鈴は唇を小さく動かして答える。
「予感があるのよ」
そして薄紙を噛んで、決然と立ち上がる。
「この戦いは必ずラウ=カンの歴史に残るってね。司会者として私の存在を印象づけるチャンスなの」
「なるほど、鈴鈴って女子アナ志望かな? それとも映画スター?」
「いいえ」
サークルメンバーが飛び込んできて、前説が終わったことを告げる。
そして踵を鳴らす。このクイズサークルの代表は、かつてない興奮と程よい緊張感に酔いしれるように、ひときわ深く息を吸った。
「クイズの会社をやりたいの。いつかは、あのハイアード・クイズオフィサー社に匹敵する規模に……」
※
「だめよ、七沼くん」
過日。
記憶は断片的で、連続性は融解し、そのほとんどは仄かな苦みと共にある。
「問題が面白くない。アダルトビデオを題材にしてるという面白さだけが先に立ってて、問題に深みがないの」
「そうか……ごめん、資料を集めるのが大変で……」
それも確か、クイズの未来についての話だった。
この日のテーマはマイナージャンル。七沼の感覚ではいわゆるカルトクイズのつもりである。クイズがもっと普及したなら、同好の士を集めてのカルトクイズも盛んになるだろう。そんな読みがあった。
用意したジャンルはアダルトビデオ、原子力発電、けん玉、セパタクロー、肥溜め等々、まだ手垢がついてなさそうなジャンルで片っ端から作問に取り組んでいた。
「例えば、この第4問」
各ジャンルで30問ずつ、合計で300問を超える問題集、その文字列を白い指が撫でる。
「この女優さんが好きなプレイは対面座位となってる。確かにそう答えることが多いけど、騎乗位が好きと答えてるインタビューも見たことがある。こういうのは時期によって変わったりするし、一貫性がないといけないってわけでもないの」
「なるほど……インタビューを裏付けにするのは控えたほうがいいか……」
草森葵の正解率は、信じがたいことに100%を維持している。どれほど出題を重ねても、この堅牢無比な城塞はびくともしない。
あるいは七沼が知識の極限と思っている範囲は、草森にとっては一般常識という立て札のある庭なのか。それは悔しくもあり、それ以上に嬉しくもあった。
「あと名前が変わってるけど同一人物だったりする人もいるから、撮影本数を問う問題は誰それ名義での出演作は、とした方がいいと思う。あとこっちの問題、日活ロマンポルノ事件で対象となった四作品は……」
七沼は丁寧にメモを取りつつ話を聞く。性格のためか、満員電車のように文字がひしめくメモになっている。七沼以外の者は読もうとも思わないだろう。
「すごいね本当に……アダルトビデオもそうだけど、臓器移植手術とか空き巣の手口とか、クイズとしては出題されないだろうに」
沈黙の気配。
言ってからしまったと気づく。そもそも草森葵はクイズ戦士ではないのだ。彼女自身が何度もそう言っていたのに。
クイズとしては無駄な知識だ、という感情が針の先ほどだがにじんだかも知れぬ。七沼は必死で取り繕う。
「いや、そうじゃなくて、まだ時代が追いついてないだけだよ。いつかはこういう問題もクイズで扱われる日が来る。本当だよ」
「そうだね」
ぱたり、と本を閉じる。今日はずっと建築関係の本ばかりを読んでいるようだ。
「クイズの世界は、もっと広がるかしら……」
――そこに、私はいないけど。
七沼は確かに、そんな言葉の幻影を聞いた。
※
「愛のまどろみ!」
「正解! お見事です!」
うおお、と二階席からの声が降りそそぐ。観客席が落下してきたような騒ぎである。
「お、おい! あのパルパシアの留学生すげえぞ!」
「いや鱗虫と土虫もすげえぞ! 完全に互角だ!」
そこで展開されていたのは、あらゆる禁忌を物ともしない地底クイズ。これほど大規模に、公衆の面前で行われたのは初めてのことであろう。
「し、しかしこれいいのか、避妊具やら脱獄犯やらまで問題に……」
「構うもんか放送するわけでもないのに、それよりこの録画は絶対に買い逃がせねえぞ、あそこで撮影してるスタッフが退出するときを見逃すな」
それは淫猥な問題に対する興奮というより、知的好奇心の現れに見えた。
己の知らぬ世界、人生でほんの一、二度すれ違っただけの知識。それに鎧袖一触で答えていくクイズ戦士たち。そんな姿に興奮しているのか。
ぴんぽん。
「桃選手、お答えをどうぞ」
「婬枝後背位です」
「正解です!」
うおおお、と牛の群れのような歓声。
知的好奇心とはまた別に。確かに桃と雨蘭の正解には、五割増しの声援が飛んでいた。
「ユーヤ」
その会場を出て、巨大な第一講堂の側面。
会場では拡声の妖精を使っているため、クイズの様子が僅かに聞こえる。それを目当てに数千人もの学生が講堂を取り囲んでいる。
それを遠巻きにして、ユーヤは早足で歩いていた。そこへかけられた声である。
「あなたさっきから何してるの、一回戦でも客席のほうウロウロしてたでしょ」
「何でもないんだ、気にしないでくれ」
「気にするわよ。桃の試合の応援とかしてよ」
腕を組み、前に立ちふさがるのは猫。度の強い眼鏡の奥でユーヤをすがめ見る。
「もう試合は始まってる、インターバルもないから、終わるまで何もできないよ。それに声援がすごくて、僕の声なんかもう聞こえないだろうし」
「まあそうだけど」
猫は視線を伸ばし、ユーヤの肩越しに背後を見る。
「敵に尾行されてるわよ」
「え?」
それは本当に気づいてなかったのか、振り向くとさっと顔を隠す人物がいた。
だが、気づかれたことを自覚したのか、小さく舌打ちをしてから殊更堂々と出てくる。
「やあ、奇遇ですな、試合を観戦せずとも良いのですか」
「えっと」
猫は誰だったか思い出そうとする気配を見せたが、ユーヤは別に忘れてもいない。最初に白納区に忍び込んだとき、少し話をした学生だ。虎窯のメンバーである。
「なぜ僕を見張るんだ」
「当然でしょう。裏で梟夜会と結託してる可能性がある」
ごまかすのか開き直るのかどちらかにしてほしい、と猫は思って、それなりに表情にも出してみた。
ユーヤは特に感情を込めずに言う。
「そんな必要はないし、するつもりもない」
「は、必要ないとは強気なことだな。地底クイズとはまたとんでもないクイズを用意したものだ。あんな下劣なクイズなら勝てると思ったか。さすがは悪書の桃だ、作戦まで悪辣非道だな」
ユーヤは最初、この男を無視して歩み去ろうと思っていた。別に尾行されてても問題はない。
だが桃を悪しざまに言われると、猫の前でそれをやり過ごすわけにも行かない。少しは言い返すべきだろう。
「下劣なクイズか。その割には、あの側近たちもそれなりに正解してるようだが」
わずかにボタンを押す音と、解答する声が聞こえる。そういうものを聞き取るのもユーヤの仕事には必要だった。今は4対5、わずかに雨蘭たちがリードしている。
「そんなことは当然だ。虎煌さんとその側近たちに出来ないことなどない」
「……」
地底クイズの出題範囲は七十七書に含まれない、睡蝶に確認している。
では、この男の発言は矛盾していないか。
ユーヤは必要だと思った記憶はなかなか忘れない体質になっている。彼はたしか、こう言っていた。
――七十七書を超越せよという三悪の理想はあまりに荒唐無稽! 国を導く完全なる人間。地の底にて黄金の繭に包まれるのはごく少数であるべきなのだ!
悪問と、悪書。
七十七書を超えんとしている三悪は批判するのに、地底クイズを虎窯のメンバーが戦えていることは称賛する。そこに矛盾があると感じないのだろうか。
(やはり、洗脳を受けている)
細かな不整合は無視して、ひたすらに虎窯を崇拝し、かつての代表たる三悪に敵意を向けるように調整されている。おそらく、いま大学を封鎖しているメンバーも似たようなものだろう。
(おそらく、あの虎皮の人物、虎煌がやったのだろう)
(僅かな期間で、サークルのメンバー全員を……)
矛盾点をついて理責めにすれば、洗脳を解くこともできるだろうか。
止めた方がいいだろう、と判断する。人を洗脳する技術など学んでいない。下手にいじくると状態が悪化する可能性もある。
だが、一つだけ確認しておきたかった。
「聞いているか。虎煌は十億ディスケット相当の宝石を賭けることで勝負を受けた。あの男は大学の改革など考えてないぞ。ただ金が欲しいだけだ。そもそもこの大学封鎖も、政府を脅迫して金を出させるためのものだぞ」
「はっ、聞く価値もない空言だな。そもそも十億など誰が出すというのだ」
それは確かにそうだな、とユーヤは苦笑を噛み殺す。
「……ええと、とりあえず梟夜会と会うつもりはないよ。それに三試合目は結託してもどうにもならないクイズなんだ、すでに聞いてるだろう」
「聞いている。いくら「悪癖」の陸とはいえ、あんな勝負を……」
ひときわ大きな歓声、勝負の天秤に傾きが生まれたか。
「まあいい、梟夜会の方も見張らねばならんから、この場は退散してやろう。不正などさせぬからそのつもりでいろ」
「ああ……」
男は講堂の裏手、関係者用の出入り口に向かう。人は多いが、今からなら後半に間に合うだろう。
彼が立ち去ったのは、きっと彼自身の興味がクイズの方に向いたから。彼にまだクイズを楽しみたい心があったからだろう。ユーヤはそのように思い込もうとした。
「でもほんと不思議なのよね……」
猫が言う。
「なぜ虎窯の連中は勝負を受けたのかしら。負けたら虎窯の幹部でなくなるのよ。この大学封鎖もできなくなるのに」
「だから、目的が金銭だからだよ」
「いやだからそんなわけないでしょ。科典で九割超える連中なのよ。もし仮に、百に一つ、虎がニワトリに負けるぐらいの確率で金が目的だとしても、脅迫なんかせずに普通に官僚になればいいじゃない。上級文官なら年収は億を超えるし、税金が減免されたり山ほど旨味があるのよ」
動物に言い聞かせるように丹念な説明である。彼女も虎窯として、開かれた大学を目指して国家と交渉していたらしいが、譲れないラインがあるのだろうか。
あの劉信も億を稼ぐのか、とユーヤは少し思ったが、それはともかく、猫の目を見て言う。
「逆に考えてみたらどうかな? つまり彼らは官僚になれない存在、だとしたら」
「どういうこと? 科典の受験資格は前科者にもあるし、外国人にすらあるのよ」
「……実のところ、まだ分からない。事態のカギが見つからないんだ。科典で九割を超えるのは奇跡のような所業と聞いている。それが六人も集まっている、睡蝶と劉信を加えれば八人……」
(そう、それこそが異常事態)
(この国を襲っている事態は、その根源にある闇は)
(優れた人物の存在、人間を超越するほどの知の力、それ自体なんだ)
(そして、この感覚……)
正体を掴ませず、敵意を見せず。
それでいて、多くの人々を意のままに操る。
(なぜだ)
ここは、あの国ではないのに。
あの鏡が使われたはずはないのに。
(なぜ見え隠れするんだ)
(あの王子と、同じ力が……)




