第41話 出立の日1 =「エア彼女?」=
春──三月下旬。
梅の花がこぼれたあと、桜の蕾がふくらむ時節。
僕は生まれ育った自宅を後にし、留学先へと旅立つ日を迎えた。
機内持ち込みのできる小さめのトランクとヴァイオリンを手に、僕は玄関先から長年住み慣れた家の外観を見上げる。
複数専攻での進学を選んだため、学部卒業までに要する期間はおそらく五年。上手くすれば四年に縮めることはできるかもしれない。
より多くのことを学ぶため、長期休暇の間にも授業を組み込む予定でいるので、帰国するのは一年に一度あるかないかと言うところだ。
「空港での待ち合わせもあるので、そろそろ克己の見送りに行ってきます。戻るのは少し遅くなるかもしれません」
自宅に残る祖母に、母が伝えた。
祖母は「淋しくなるわね」と呟きながら、母に笑いかける。
「雪乃さん、今日くらいは家のことはいいから、ゆっくりしていらっしゃい。しばらく、克くんとも会えなくなるんだし。ね」
平日のため、父と祖父とは出立の挨拶を今朝方済ませ、現在自宅にいるのは母と祖母と僕の三人のみ。
母と共にタクシーに乗り込んだ僕に向かって、祖母は手を振り、送り出してくれた。
「パスポートは持った? ビザも忘れていない? あと、現金は日本円もドルも両方持ったわね? 学生用のクレジットカードもあるし、えーと……滞在先の住所と、それから──」
タクシーで空港に向かう途中、母は何度も持ち物の確認をしてくる。
「全部あるから大丈夫。それに、大学の寮が開くまでは『TSUKASA』財団所有の学生用アパートメントに入るんだから、何も心配いらないよ。向こうの管理人さんからも、先に送った航空便も無事届いたって連絡があったでしょう? もう小さい子供じゃないんだから」
母は片手を頬に当て、溜め息をついた。
「わかっているけど、それでもやっぱり心配なのよ。いくつになったって、あなたは私の子供にかわりないし、私はやっぱり親だもの──あら!? ちょっと待って、克己! やだ、うっかり。あなた、Iー94の書き方はわかってる!? どうしましょう」
「いや、もうそれ、電子登録してあるから。本当に大丈夫だから」
母の心配してくれる気持ちは有り難い。けれど、少しだけ鬱陶しく感じていた渡航前の数ヶ月。
でも、しばらくこの声も聞けなくなるのかと思うと、途端に淋しく感じるのだから不思議だ。
空港には、君と一緒に晴子さんも来てくれることになっている。
美沙子も「暇だったら、行ってあげるわ」と言っていたので、彼女も間違いなく来てくれるのだろう。
それから、中高の生徒会で一緒だった面々と、生徒会顧問の小清水先生も、見送りに来てくれるらしい。
一昨年の夏休み明け、君と僕の関係が学校中に広まるのに、一日も要さなかったことを思い出す。
進級式のあと、生徒会の仕事時には、役員の友人たちからも色々と確認をされた。
僕の気持ちを知っていた小清水先生も、その噂を小耳に挟んだようで「お前も、色々と頑張ったんだな。良かったな、でいいのか? 受験もあるから、あまりのめり込みすぎるなよ」と、労いのような助言のような、微妙な激励の言葉をもらっていたのだ。
君とは彼氏彼女の仲になってもそれ以前と変わらず、美沙子と三人で会ったり、時々互いの家を行き来しては楽器を弾き、試験前にはグループ勉強をするという、実に学生らしい付き合いが続いていた。
僕が受験生ということもあって、二人で一緒に遊びに行くことも殆どなかったな──と、この一年半を振り返る。
長期休みや、連休があると、僕は興味のある大学を見学するために両親と共に渡米し、大学主催の見学ツアーに参加していたし、君は君で海外のコンクール出場のために日本を離れることも多々あった。
だから、二人の仲を深める暇さえなかったというのが正直なところだ。
そういえば、一緒に出かけたことが一度だけあったなと、そのときのことを思い出す。
行き先は本屋。確か、現地集合し、会った早々に解散。各自で自分の求める本を探し、一時間後に待ち合わせをして、そのまま帰宅というものだったので、デートとはいえない外出だ。
あれ?
そういえば── 一昨年の夏、『天球』でキスをして以来、愛情表現のスキンシップは『手を繋ぐのみ』だったことにも、今更ながら気づく。
これって、お付き合いをしていると言っていいのだろうか?
いや、実は、君の中では既に『お友達』や『幼馴染』の関係に格下げされている!?
まずい。
完全に受験と留学のことで頭がいっぱいだったとはいえ、これでは子供の頃から何も変わっていない。
でも、僕は、その変わらぬ関係に対して不満はなかった。
君と同じ場所にいるだけで嬉しくて、手を繋ぐだけで胸が苦しくなって──お互い、同じ気持ちでいると勝手に思い込んでいた。だけど、もし君の思いは違っていたとしたら……?
これって──君を放置していた、ということになるのだろうか?
「克己? どうしたの? 顔色が悪いわよ? いやだ……ねえ、ちょっと、本当に大丈夫?」
母が心配そうに僕の顔を覗き込む。
「いや……紅ちゃんと僕って今、お付き合いしているのかなって、急に不安にな……ってないから! 平気」
動揺のあまり、またいらぬことを口走っていた自分に気づき、言葉尻を慌てて立て直す。
「ん? ……エア彼女?」
なんでそんな特殊な単語を知っているの!?──と思わなくもなかったけれど、そういえば母は大学の声楽講師だ。
学生達との会話で、僕よりも遥かにたくさんの若者言葉らしきものを知っているのだろう。
でも、それとは少し意味合いが違うような気がするのだが、実際にそれがどんなものなのか、僕も詳しいことは知らない。
「そんなんじゃないから。大丈夫──多分……付き合ってる……はず」
自信はなかったけれど、見送りに来てくれると言うことは、きっと順調な交際が続いているということだ。
だが、幼馴染の関係である美沙子もやってくることを考えると、油断は禁物。
本当は義理でやってくるのだろうかと、情けない不安が首をもたげる。
君は今、僕のことをどう思っているのだろう?
渡航日当日に突然こんな焦りを感じるあたりが、僕が自分を駄目人間と感じる所以なのだろう。
次話
出立の日2
=涙の味=







