終宴
「……ライリー、大丈夫です。熊の退治方法は教えて差し上げます」
ハリエットの嘆息混じりの言葉に、その場の空気がぴしりと固まった。
「は、ハリエット?」
「ほう。俺にも教えていただきたいものですな。子爵夫人」
「まあ。熊が熊退治なんて」
「ハリエット⁉」
目が据わった騎士団長から妻を守るべきか、ライリーは迷った。迷う必要はないはずだが、騎士である自分より、ハリエットのほうが強く見えた。
「団長と互角……」
「何者だよ、ライリーの奥方」
「さすが天下の侯爵夫人」
ざわざわとどよめきが広がる。
「ライリー様、お気を確かに。いつものことです」
アンナがハリエットの背中越しに、冷静に助言を寄越してくる。ライリーは小声で返した。
「やっぱりおふたりの過去に何か?」
「大したことではありません。団長に「小娘は引っ込んでろ」と放り投げられたことがあるだけです」
ライリーが想像していたよりも大した過去だった。
「それ以来こうなのか」
「ええ。投げられた先には陛下がいらして、受け止めていただいたのですが。ハリエット様は根に持たれています」
文字通りぶん投げられたのか。しかも君主まで巻き込んでいる。根に持って当然だ。
「……アンナ? あなた飲み過ぎよ」
ハリエットが少し慌てた様子でアンナを見た。口が軽いと言いたいのか。
そんな様子を興味深そうに見ていたのはエべラルドだ。
「思ってたより面白い奥方だな」
「隊長? やめてくださいよ」
「面倒な心配をするな。俺はどっちかってえと、こっちの侍女殿に興味がある」
にっこりと微笑むエベラルドには、男のライリーでもうっかり赤くなってしまいそうになる。
だが肝心のアンナは白けた視線を向けただけだった。
「それもやめてください。うちの侍女を遊び相手にされたら困ります」
「合意の上ならいいだろう」
「あら。駄目ですよ、エベラルド様。アンナはもう結婚しています」
それはライリーも初耳だ。
「そうだったのか?」
「してませんよ」
「ロブフォードでは夫婦同然じゃないの。みんなそう思ってるわ。彼の何が不満なの?」
「顔です」
かお?
その答えに、周囲の騎士の顔が引き攣った。たった今、騎士団有数の色男を冷たい目で見た侍女の気に入る顔とはどんなものなのだ。
「……ごめんなさい。ロブフォードの女は、みんなひどい面喰いなんです」
「ロブフォードの下は十、上は五十歳までの女の初恋はすべからく、先代侯爵です。なんなら男も、少なくない数が」
力強く言い切ったアンナに、年嵩の騎士達が納得したように頷く。
「ああ。それは確かに仕方ねえな」
「あんな領主様だったらそうなるわな」
「目が肥えるのも考えもんだな。苦労するな、侍女殿」
「分かっていただけますか」
ライリーは先代のロブフォード侯爵に会ったことがない。彼らの会話はずいぶんと誇張した大袈裟なものなのだろうと思った。
「お父上ですか。ハリエットは父上似だと聞いたことがあります」
ハリエットとウィルフレッドはよく似た美貌の姉弟だ。その父なのだから、さぞかし美しい方だったのだろうとは思っていた。
「わたしとウィルは、父の劣化版と言われています」
「劣化版?」
なんてひどい言い草だ。ハリエットの美貌を妬んでの言葉に違いない、とライリーは憤った。
「ライリー様、残念ながらそれが事実です」
「そんなにはっきり言われると、さすがに傷つくわよ、アンナ」
「先代侯爵は、泣かれても『ぶっさいく』にはなりませんでした」
いつになく饒舌なアンナが、再び言い切った。
「……そんなのいつ見たのよ」
「ウィルフレッド様がお生まれになった際に」
「俺も遠くからお見かけしたことがある。目が潰れそうな美形だったな。天使がどうとか言う連中も出てきて、教会が動くほどだと聞いた」
エベラルドまでそう証言した。ライリーには想像もできないような人間がこの世にはいる、否、いたらしいということだけ分かった。
「美形は事実だが、教会云々はさすがにただの噂だろう」
先代侯爵が亡くなったとき、アドルフは大隊長だっただろうか。話をしたことがあるのかもしれない。やけに物知り顔だ。
「熊にも美醜の判断がつくとは知らなかったわ」
「ハリエット? そのくらいにしませんか?」
「小娘が。夫が帰ってこないと泣くことになるぞ」
「団長?」
「そんなに堂々と職権を濫用してもよろしいのですか? 団員の方がびっくりなさってますわよ」
「よしホークラム、代わりに表に出ろ」
「怪我をしてますのでお断りします! 妻が失礼を申し上げました! ハリエット、謝ってください」
「嫌です」
「謝って」
「…………申し訳、ありませんでした」
おおお。
どよめきが起こる。
どうした、ライリーがかっこいいぞ。やべえ、ハリエット様可愛い。オレ今きゅんとした。おれも。
「そこ、見ないでください!」
頬を染めてハリエットを見る騎士をすかさず牽制して、ライリーは椅子を引いてエベラルドを呼んだ。
「こうなることを知ってたんですか⁉」
「おう。予想以上だったな。面白かっただろ?」
エベラルドは焦るライリーをニヤニヤ笑いながら見ていた。
そうだった。そもそも、エべラルドが命じたがゆえに、ライリーの地獄ははじまったのだ。彼はずっと、配下がもがくさまを見て楽しんでいたのだ。
「…………ああ。そうだ。隊長に土産が」
「なんだよ」
ライリーは帯の吊るしから小さな袋を取り出した。
「あら、それ潰れたら困るかと思って、枕元に置いておいたんです。何が入っているのですか?」
ハリエットも興味を持って覗き込んでくる。アドルフから意識を離したいだけかもしれない。
ライリーは大事そうに取り出したものを、そっとエベラルドの手に乗せた。
「……ぎゃあっ」
エベラルドは小さく叫んで、手を振り払った。
「なんっだよこれ、クソガキ!」
「ケルヴス」
「虫の名前なんざ聞いてねえ! てめえ、やっぱり遊んでやがったな! なんで訓練中に虫捕りなんかしてんだ!」
「久しぶりに見つけたから、隊長に見せてあげようと思って」
「俺の田舎にはこんな虫いなかったんだよ!」
「俺の田舎には割りといました。怖いですか。そうですか」
「怖くねえ! 気持ち悪いだけだっ」
後の世ではヨーロッパミヤマクワガタと呼ばれる昆虫は、アンナの膝の上に着地していた。
騎士の反応は半々だ。都会育ちの者は気味悪そうに遠巻きにし、田舎から出てきた者は、おお懐かしいと覗き込む。
アンナは多くの女性らしく苦手なようだ。ライリーが硬直してしまった侍女の膝から昆虫を取ろうと手を伸ばすが、先にハリエットが掴み上げた。
「あら、懐かしい。ロブフォードにもいたわ」
貴婦人の手に昆虫。なかなか見られない光景だ。
距離を取ったエベラルドは、信じられないものを見るような目でハリエットを見ている。
「ハリエットは平気なようですよ、隊長」
「よし、良く分かった。ライリー表に出ろ」
「だから怪我してますって」
「旦那様、よろしければ代わりにわたしが」
アンナがいつもと変わらぬ冷静な顔で立ち上がる。
「……侍女殿、何を」
「ライリー様の姉代わりを仰せつかっております。怪我をした弟の代わりを務めましょう」
ライリーは以前、アンナは姉のようだとは言ったが、代わりとまでは言っていない。
「……ハリエット、アンナは」
「だから酔ってるんですって。意外と弱いんです」
「面白え。使えるんだろうとは思ってた。何が得意だ」
大して酔ってもいないだろうに悪ノリをはじめたエべラルドに、ライリーは慌てて待ったをかけた。
「何言ってんですか、隊長。乗らないでくださいよ」
「いいや、引かねえぞ俺は。侍女殿が負けたら、朝まで俺の部屋で過ごすんだ。いいな」
「おいおい。振られたからってみっともねえな」
「負けるなよエベラルド!」
「おお。珍しくかっこ悪いな小隊長。頑張れ侍女殿!」
「煽らないでくださいよ! アンナ、ハリエットも、もう帰りましょう」
立ち上がるライリーを、ハリエットが手で制した。
「アンナ、さすがに正規の騎士様相手は無理よ。エベラルド様、侍女がごめんなさい。ここはお酒の場です、飲み比べで手を打ちませんか?」
「ハリエット?」
冷静に見えた妻の発言に、ライリーは目を剥いた。これから何がはじまるのだ。
「いいでしょう。ライリー、こっち来いよ」
「夫は怪我人ですってば。お相手はわたしが」
「おや。俺の部屋は貴族の奥方をご招待できるほど上等だったかな」
「わたしが勝ったら、夫に長期休暇をいただけますか? そうですね、半月ほど」
「よし乗った。誰か、俺の部屋に走って敷布を換えて来い!」
もう訳が分からない。ライリーは誰をどう諌めるべきか考えたが、答えは出なかった。
アドルフは同情顔でライリーを見て、広い卓越しにその肩を叩いた。
「心配するな。おまえの妻は底無しだぞ。俺でも敵わん」
「……一生知りたくなかったです」
その日の夜は、長く続いた。
まだ幼い従者はもう寝ろと早めに帰され、次に成長期の従騎士が眠気に負けて、官舎へ下がった。
ライリーは怪我をした足で帰宅する気力を失い、夕方まで寝ていた仮眠室に杖をついて向かった。
その道中では、ハリエットとアンナがどこの厠を使うのだという話でまたひと悶着した。
見た目には分からない酔い方をしたアンナにひとつの寝台を渡し、その隣の寝台に夫婦で寄り添って横になる。
四日振りに感じる妻の柔らかい感触に、ライリーは必死で理性をかき集めた。
アンナに酒を飲ますのはもうやめようと心に誓い、目を閉じる。数刻前に目覚めたばかりだというのに、ライリーはあっさりと睡魔に襲われた。
ハリエットは眠ってしまった夫の胸に耳を寄せて、眠るまでその命の音を聴いていた。
いつまでもこうしていられますように。この健やかな音が途切れることがありませんように。
この祈りが、天まで届きますように。
そこにはきっと、父の姿を象った御使いがいる。御使いはきっと、神の御許まで祈りを届けてくれるだろう。




